銀髪に触れる口実
光来市中央公園は、市民の憩いの場として親しまれている広大な公園だ。整備された遊歩道が木々の間を縫うように続き、秋の紅葉が美しい景色を作り出している。
蓮と雅は並んで、ゆっくりと遊歩道を歩いていた。雅は蓮の半歩後ろを歩いている。婚約者である男性に寄り添う、ごく自然な距離感だ。
遊歩道の脇に、美しく色づいた紅葉が広がっている。蓮はふと足を止め、その景色に目を向けた。風が吹き、木々の葉が揺れる。その音が、静かな公園に響いている。
「綺麗だな」
雅も同じ方向を見つめる。赤や黄色に染まった木々が、秋の日差しを受けて輝いていた。時間が、ゆっくりと流れていくような感覚があった。
「ええ。本当に……」
雅が静かに呟く。その横顔は、紅葉の色に照らされて柔らかな表情をしていた。しばらく、二人はその景色を眺めていた。
「こういう景色を見ると、美術館で見た風景画を思い出すな」
「そうですね。あの作品も、秋の景色を描いたものでしたから」
雅が頷く。二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。それは気まずいものではなく、心地よい静寂だった。時間が、ゆっくりと過ぎていく。
「蓮さんは、こうして散策されるのはお好きですか?」
雅がふと尋ねる。
「ああ。考え事をするのにちょうどいい。ダンジョンの中とは違って、時間の流れがゆっくりだからな」
「ダンジョンは、緊張の連続なのでしょうね」
「まあな。気を抜けば命に関わるから」
蓮が淡々と答える。雅は少し表情を曇らせた。
「……危険な場所なのですね」
「心配してくれるのか?」
蓮が問いかけると、雅は少し考えるように視線を落とし、そして静かに答えた。
「婚約者として、やはり……」
その声には、わずかな戸惑いと、真摯さが混じっていた。
会話が続く中、蓮は雅の変化を敏感に感じ取っていた。声のトーン、言葉の選び方、視線の送り方。それらの全てが、以前よりも自然で、親密さを含んでいる。
(恋愛感情、というわけではないだろうが)
雅の瞳に浮かんでいるのは、恋する少女の輝きではない。それはむしろ、難しい課題を着実にこなしている学生のような、静かな達成感だ。婚約者として正しく振る舞うという「役割」を、一つずつクリアしていく充実感。
(……それでいい)
遊歩道を歩いていると、木々の間から吹き込んだ風が、雅の銀色の髪を揺らした。そして、小さな葉が一枚、彼女の髪に絡まった。
「雅」
蓮がためらいなく手を伸ばし、雅の髪に触れる。
銀色の髪は、思ったよりも柔らかかった。指先で葉を探り、丁寧にほどいていく。髪の繊維が指に絡む感触、かすかに香るシャンプーの匂い。
雅が息を呑む気配がした。ほんの一瞬だけ、肩が強張る。だが、彼女は動かない。ただ静かに、蓮の手が自分の髪に触れるのを許している。
葉を取り除く過程で、蓮の指がわずかに雅の首筋に触れた。
「葉っぱが絡まってた」
蓮が自然な口調で言って、取り除いた葉を示す。
「ありがとうございます、蓮さん」
雅が静かに答える。その表情は穏やかで、特に気にも止めていないように見えた。
「婚約者なんだから、これくらい当然だ」
蓮が静かに、しかし確信を持って言う。その言葉には、彼女の規範意識に訴えかけるような響きがあった。
彼女は静かに頷き、視線を前に戻した。
(……いい反応だ)
二人は再び歩き始めた。
しばらく歩いた後、蓮が遊歩道沿いのベンチを指差した。
「少し休もう」
「はい」
二人はベンチに腰を下ろす。秋の穏やかな風が、木々の葉を揺らしている。
蓮は雅の横顔を見つめた。
紅葉の色に照らされた白い肌。長い睫毛が作る影。そして、先ほど指先で触れた銀色の髪。その一本一本が、秋の光を受けて繊細に輝いていた。
彼女の佇まいには、九条院という名家の令嬢らしい品格がある。だが、それだけではない。美術館での会話で見せた知性、カフェでの控えめな笑顔、そして今、隣で静かに秋の景色を眺めるこの穏やかさ。
(……いい)
容姿、教養、立ち居振る舞いの全てが洗練されている。だが、蓮を満足させているのは、それだけではない。彼女が今、隣に座っているのは、恋に落ちたからではない。婚約者として正しく振る舞うという、役割への献身ゆえだ。
その健気さが、倒錯した征服感を静かに満たしていく。
そして、蓮が不意に雅の手を軽く取った。
雅の肩が、わずかに強張る。
「冷えてないか?」
蓮が穏やかに尋ねる。雅の手は、思ったよりも小さく、冷たかった。指先まで冷えている。蓮はそれを包み込むように、自分の両手で覆った。
数秒の沈黙。
雅の手が、蓮の掌の中でほんの少しだけ震える。だが、彼女は手を引こうとしない。ただ静かに、その状況を受け入れている。
やがて雅は、視線を落としたまま、静かに答えた。
「……大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
その声には、わずかな緊張が滲んでいた。
蓮はさらに数秒間、雅の手を包んだままにしていた。彼女の手が、少しずつ温まっていく感触。彼女の小さな震えが、次第に収まっていく過程。
(……やはり、規範に忠実だ)
拒否しない。抵抗しない。婚約者として正しく振る舞うという、その献身が、蓮の支配欲を静かに満たしていく。
やがて蓮が手を離すと、雅は小さく息をついた。その手はまだ微かに震えている。視線は前を向いたまま、顔には静かな赤みが差していた。
* * *
公園での散策を終えた二人は、再びカフェへと立ち寄った。先ほどとは別の、落ち着いた雰囲気の店だ。
窓際の席に座り、蓮はコーヒーを、雅はハーブティーを注文した。
飲み物が運ばれてくると、雅はカップを両手で包み込むように持ち、一口ゆっくりと飲んだ。
「美味しいですね」
「ああ」
蓮が頷く。
雅はカップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。その横顔は穏やかで、どこか満ち足りた雰囲気があった。
(……居心地が良さそうだ)
蓮はそれを観察しながら、静かに満足する。彼女は今、この時間を心地よく感じている。それは恋愛感情からではなく、婚約者として正しい手順を踏めているという充実感からだろう。だが、その区別など、どうでもいい。彼女が自分との時間を求めるようになれば、それでいい。
会話が一段落したところで、雅が少し考えるように視線を落とし、そして顔を上げた。
「蓮さん」
「ん?」
「もしお時間がございましたら……近いうちに、九条院邸へ来ませんか?」
雅の声には、わずかな緊張が含まれていた。
「ああ。ぜひ、お願いしたい」
蓮が答えると、雅の表情がほんの少し和らいだ。
「ありがとうございます。その時は……わたくしの部屋にもご案内いたしますね」
蓮は雅を見つめた。
「ああ、ぜひ。婚約者として、雅のことをもっと知りたい」
蓮の言葉に、雅は控えめな笑みを浮かべた。
「わたくしも、蓮さんのことを知ることは、婚約者として必要なことだと思っております」
雅が淡々と答える。その表情には、婚約者として正しい手順を踏めることへの、静かな満足感が滲んでいた。
カフェでの会話は、その後も和やかに続いた。大学のこと、趣味のこと、最近読んだ本のこと。二人の距離は、確かに近づいている。
* * *
日が傾き始めた頃、二人はカフェを出て駅へと向かった。
駅の改札前で、雅が深々と頭を下げる。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。楽しい時間だった」
「また、このような機会をいただけましたら幸いです」
「もちろんだ」
蓮の言葉に、雅は落ち着いた微笑みを返した。そして、別れの言葉を交わし、それぞれの家路につく。
電車の中、蓮は今日一日を振り返っていた。
美術館での知的な会話。カフェでのやり取り。公園での散策。そして、段階的に進めた身体接触。
(今日は、関係を一歩進められた)
髪に触れ、手を取る。いずれも口実は整っていたし、彼女は抵抗を見せなかった。「婚約者として当然」という理屈は、思った以上に有効だ。
雅の手の感触を思い出す。小さく、冷たく、そして微かに震えていた。だが、彼女は手を引かなかった。婚約者としての役割に忠実に、静かにそれを受け入れた。
その健気さが、倒錯した満足感を与えてくれる。
(……そして、次は九条院邸だ)
雅の方から誘いを引き出せたことも、大きな前進だ。彼女の部屋、彼女のプライベートな空間。そこでなら、さらに一歩を進められる。
窓の外を流れる景色を眺めながら、蓮は次の段階への期待に、静かな高揚を感じていた。




