秘められた白
週末、蓮は外出届を申請して、雅と二人きりでデートをしていた。
光来市内でも有数の美術館。秋の特別企画として開催されている「近代日本画の巨匠たち」展は、連日多くの来館者で賑わっていた。
エントランスで待ち合わせた雅は、淡いベージュのワンピースに薄手のカーディガンを羽織った姿で現れた。秋の柔らかな日差しの中、その装いはまるで絵画の一部のように上品で美しい。
「お待たせいたしました、蓮さん」
「いえ、私も今来たところです」
蓮は丁寧に答える。雅に対しては、常に礼儀正しい態度を崩さない。それが、九条院家という名門に対する敬意の表れでもあった。
二人は美術館の中に入る。静謐な空間の中、雅は一つ一つの作品の前で立ち止まり、丁寧に鑑賞していた。
「こちらの作品は、横山大観の代表作の一つですね」
雅が、ある作品の前で足を止める。蓮もその隣に立ち、作品を見つめた。
「朦朧体……輪郭線をあえて描かず、ぼかしによって対象を表現する技法ですね」
雅は作品を見つめ、うっとりとした溜息を漏らした。
「すべてを明確に主張するのではなく、空気感や余韻で語る。この奥ゆかしさこそが、本邦が古来より大切にしてきた美徳であり……女性のあるべき姿にも通じると、そう思いませんか?」
その言葉には、彼女自身がそうありたいと願う理想が投影されていた。
「ええ、確かに。雅さんの纏う雰囲気にも、通じるものがありますね」
「まあ……ふふ、お上手ですね」
蓮は真剣に作品を見つめながら、適切な相槌を打つ。雅はそんな蓮の態度に満足げな表情を浮かべ、次の作品へと歩を進めた。
(知的な会話を好む女性だ。そして、自分の知識を披露し、それを理解してもらえることに、確かな喜びを感じている)
蓮はそう分析しながら、雅との会話を楽しんでいた。彼女の持つ気品と教養は、まさに九条院家という名門が長い年月をかけて育て上げた結晶だ。
次の展示室に移ると、風景画が並んでいた。
「この作品の構図が、とても印象的ですね」
蓮がそう言うと、雅は嬉しそうに頷いた。
「お気づきになられたんですね。こちらは遠近法を意識的に崩すことで、独特の空間表現を実現しているんです」
「西洋画の技法とは、また違ったアプローチですね」
「はい。日本画独自の美意識が表れている作品だと思います」
二人の会話は、自然と深まっていく。雅は蓮の理解力と知的な応答に明らかな満足を示していた。
(この女性は、俺が九条院家にふさわしい男であることを、確認したがっている。そして、その確認が取れるたびに、安心と誇りを感じている)
蓮はそう理解しながら、適切な反応を返し続けた。
美術館での鑑賞を一通り終えた二人は、近くのカフェに立ち寄った。
窓際の席に座り、蓮はコーヒーを、雅はハーブティーを注文する。テーブルに飲み物が運ばれてくると、雅はカップを両手で包み込むように持ち、一口ゆっくりと飲んだ。
「素敵な展覧会でしたね」
「はい。雅さんの解説のおかげで、より深く楽しむことができました」
蓮の言葉に、雅は落ち着いた微笑みを返した。
「私も、蓮さんとご一緒できて、よろしゅうございました。このような文化的な時間を共有できることは、婚約者として大切なことだと思っております」
雅の表情は穏やかで、礼儀正しい。婚約者として、こうして知的な会話を交わせることへの満足感が滲んでいた。
「こちらこそです。雅さんは本当に教養が深い。ご一緒していて、私も刺激を受けます」
「そんな……恐れ入ります」
雅は謙遜するが、その表情には婚約者として役割を果たせたという、控えめな満足感が浮かんでいた。
しばらく、二人は芸術や文化についての会話を続けた。印象派の絵画について、現代美術の潮流について、日本の伝統文化の継承について。話題は尽きることがなかった。
そんな中、雅がふと真剣な表情になった。
「蓮さん」
「はい?」
「一つ、お願いがございます」
雅の声には、わずかな緊張が混じっていた。蓮は少し身を乗り出す。
「何でしょうか?」
「蓮さん、私に対して敬語をお使いになられますが……それは、もう必要ないのではないかと思うのです」
雅の言葉に、蓮は少し驚いた。彼女から、そのような提案が来るとは予想していなかった。
「敬語を、ですか?」
「はい。蓮さんは、九条院家である私に、ずっと気を使ってくださっていたのだと理解しております。ですが……」
雅は少し俯き加減になりながら、続ける。
「私たちのような、同い年の関係で、蓮さんが私に敬語をお使いになるというのは……とても気を使いすぎていると思うのです。実は、以前から申し上げたいと思っていたのですが、なかなか切り出せずにおりました」
その言葉には、わずかな遠慮がちな響きがあった。
「これから長くお付き合いしていく関係ですし、もっと……しかるべき形で、接していただきたいのです」
蓮は、雅の心情を理解した。それは恋愛的な感情から来る願いではなく、婚約者としての「正しい関係性」を追求する、彼女らしい規範意識の表れだった。
(雅は、俺が九条院家に気を使っていると思っている。そして、同年代の男女の関係として、敬語を使うことを「不自然」だと感じているのか)
「ですが、雅さんは九条院家の……」
「それでも、です」
雅は顔を上げ、蓮を真っ直ぐに見つめた。
「家のことは、気になさらないでください。私は、蓮さんと、普通にお話ししたいのです」
その瞳には、確かな意志が宿っていた。蓮は少しの間、考える素振りを見せた。
「……わかりました。では、そのようにさせていただきます」
「本当ですか? ありがとうございます」
雅の表情が、わずかに和らいだ。
「ええ。確かに、これから長い付き合いになるのに、いつまでも堅苦しいままというのも、不自然かもしれません」
「ありがとうございます、蓮さん」
雅は礼儀正しく微笑んだ。その笑顔は落ち着いていて、品があった。
蓮は少しの間を置いてから、わざと軽い口調で言った。
「それじゃあ……雅。これからは、もっと楽に話そう」
その瞬間、雅の瞳がわずかに見開かれた。敬語を外した蓮の声は、これまでとは違う親密さを帯びていた。
「はい……蓮さん」
雅は少し戸惑ったように頷いた。だが、その表情には確かな満足感が滲んでいた。婚約者として、しかるべき距離感で接することができる。その安心が、彼女の心を満たしていた。
* * *
カフェを出た後、二人は美術館周辺の遊歩道を歩いていた。秋の午後の穏やかな日差しが、街路樹の紅葉を照らし出している。イチョウの黄色、モミジの赤。色とりどりの葉が、風に揺れていた。
雅は蓮の少し後ろ、半歩下がった位置を歩いていた。それは、この世界の女性にとって自然な立ち位置だ。
「今日は、本当に楽しかったです」
雅がそう言う。その声には、心からの満足感が滲んでいた。
「俺もだ。また、こういう機会を作りたいな」
「はい。ぜひ、お願いします」
雅は穏やかに頷いた。そして、少し言葉を続けようとした時だった。
「蓮さんとこうしてお話できる時間が、私にとってとても大切で……」
その瞬間、突然、強い風が吹いた。
街路樹の枝が大きく揺れ、落ち葉が舞い上がる。そして、その風は雅のワンピースのスカートを容赦なく巻き上げた。
「――っ!」
淡いベージュの布地が、ふわりと宙に舞う。雅は慌てて両手でスカートを押さえようとするが、風の勢いは強く、その動作が間に合わなかった。そして、風は吹き続けた。スカートが完全に押さえ込まれるまで、数秒の時間があった。
蓮の視界に、隠されていた『秘密』が露わになる。
白いレースのアンダーウェアだった。
午後の陽光を浴びて、繊細なレースの装飾が透けるように輝いている。清潔感のある白ではあるが、そのデザインはあまりに雄弁だった。腰回りを彩るフリルの装飾、太ももの付け根に沿うように施されたリボンのアクセント。
それは、清楚な彼女が纏うにはあまりに「雌」を意識させるデザインであり、同時に、この世界の女性が無自覚に内面化している「見られる性」としての業そのもののようにも見えた。
蓮は視線を逸らさなかった。
慌ててスカートを押さえようとする雅の動きは、スローモーションのように遅く感じられる。
太ももの滑らかな曲線、柔らかそうな肉感、そして肌に食い込むレースの縁。
その全てを、網膜に焼き付けるように、冷徹かつ貪欲に見つめ続けた。
雅は強い羞恥に顔を真っ赤に染めながら、スカートをしっかりと押さえた。身を屈めるようにして、必死に布地を押さえ込む。その姿は、普段の気高く落ち着いた彼女とは大きく異なり、年相応の少女らしい初々しさを感じさせた。
「も、申し訳ございません……このような、お見苦しいところを……」
雅は俯いたまま、小さな声で謝る。その声は震えていた。羞恥に頭が真っ白になり、他のことなど何も考えられなかった。
「いや、気にしなくていい。風が強かっただけだ」
蓮は何でもないように答えた。だが、雅の羞恥は簡単には消えない。彼女は俯いたまま、小さな声で呟いた。
「婚約者の方に、このような恥ずかしいところを……」
「大丈夫か?」
蓮は優しく声をかけ、雅の肩に軽く手を置いた。雅は顔を上げ、蓮を見つめる。
「はい……ありがとうございます」
その瞳には、羞恥と共に、わずかな安堵の色が混じっていた。
(婚約者に見られただけ、と自分を納得させようとしている。だが、その羞恥は本物だ)
蓮はそう分析しながら、雅に微笑みかけた。
二人は並んで歩き始めた。雅は時折、スカートの裾を気にするような仕草を見せた。先ほどの出来事が、まだ心の中でくすぶっているのだろう。
だが、蓮が何気ない話題を振ると、雅は次第に落ち着きを取り戻していった。
そして、ふと気づく。
(……そういえば、あの時、蓮さんは……)
スカートがめくれた瞬間を思い返す。蓮は、目をそむけるようなそぶりを見せなかった。視線を逸らすこともなく、ただ静かに自分を見つめていた。
(まあ、殿方ですし……そういうものなのでしょう)
男性にはそうした面があるのだと、雅は知識としては理解していた。ならば、驚くようなことでもないはずだ。
そう自分に言い聞かせる。だが、胸の奥に、ごくわずかな違和感が残っていた。
それが何なのか、雅自身にもわからなかった。ただ、小さな引っかかりとして、意識の片隅に留まった。
しばらく歩いた後、蓮がふと足を止めた。秋の午後の日差しが、街路樹を優しく照らしている。風も穏やかで、散策には最適な天気だった。
「もう少し歩かないか?」
蓮が提案すると、雅は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかに頷いた。
「ええ。ぜひ」
雅は穏やかに微笑み、蓮の隣を歩き始めた。先ほどまでの羞恥はすっかり消え、秋の午後の穏やかな空気の中、二人は自然な距離感で並んでいた。
(今日という日が、二人の関係を一歩前に進めた。敬語という壁が取り払われ、彼女の「秘密」も垣間見えた。そして、これからもっと……)
蓮の心の中で、倒錯した計画が、静かに形を成していく。
白いレースの記憶は、網膜にくっきりと焼き付いていた。
二人は近くの公園へと向かった。秋の風が、街路樹の枝を優しく揺らしていた。




