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戦略的思考と確信


 蓮は一人、大学図書館の最も奥まったエリアに席を取っていた。ここは研究個室に近い静謐な空間で、周囲に人の気配はない。テーブルには資料の山が築かれ、その中心には革装丁の重厚な書物が開かれている。


『九条院家小史』


 古めかしい装丁のその本は、一般には流通していない私家版だった。九条院家の歴史を詳細に記した貴重な資料。雅から借り受けたものだ。


 蓮は静かにページをめくりながら、冷静に思考を巡らせていた。


 (九条院家……元は子爵家。華族制度廃止後も、その影響力を巧みに維持し続けている)


 ページには、代々の当主たちの肖像写真と経歴が記されていた。政治家、実業家、学者。その多くが、時代ごとに権力の中枢に近い位置にいた。


 だが、蓮が注目したのは、その経歴ではなく婚姻関係だった。


 (明治期には政府高官の娘を娶り、大正期には新興財閥の令嬢を、昭和には旧軍部の名家と……)


 パターンが見えてくる。九条院家は決して、自分たちと同格の旧華族とだけ縁を結んできたわけではない。むしろ、その時代の権力構造を見極め、戦略的に婚姻関係を構築してきた。


 伝統と権威を持つ旧家でありながら、新興の力とも積極的に結びつく。その柔軟さこそが、九条院家が長い年月を生き延びてきた理由なのだ。


 蓮は別の資料に手を伸ばした。『現代日本における名家の政略結婚』という、社会学者の論文だ。


 ページをめくると、いくつかの事例が詳細に分析されている。適性者同士の縁談、ダンジョン制圧士と旧家令嬢の結婚、そして九条院家の事例も取り上げられていた。


 論文の筆者は、九条院家の婚姻戦略を「リスク分散型投資」と評していた。確実な相手だけでなく、潜在能力の高い相手にも早期に投資することで、将来のリターンを最大化する。


 (つまり、俺は……)


 蓮はノートを引き寄せ、ペンを走らせ始めた。


 なぜ、九条院家ほどの名門が、まだ実績のない自分を選んだのか。その理由を、複数の仮説として整理していく。


 まず一つ目。召喚師という希少ジョブへの投資。


 (日本で8人目の召喚師。確かに希少価値は高い。だが、希少性だけなら、他にもレアジョブ保持者はいる。それに、まだレベル13の学生に過ぎない俺を選ぶリスクは小さくない)


 もし純粋に安全性を求めるなら、すでに実績を積んだトップランカーや、有力家系の嫡男を選ぶべきだ。なぜ、あえてリスクを取ったのか。


 蓮は次の仮説を書き出す。二つ目。新興勢力との繋がりを作る戦略。


 (九条院家は旧華族であり、伝統的支配層に属する。だが、ダンジョン出現後、権力構造は変化しつつある。トップランカーという新たな権力者層が生まれている)


 旧来の権力と、新たに生まれつつある権力。その両方を掌握するためには、成り上がる可能性のある者と早期に関係を構築する必要がある。


 (俺のような、地方出身の一般家庭の人間。だが、希少ジョブとユニークスキルを持ち、防大に合格した。将来的にトップランカーになる可能性がある)


 そういう人間と早期に縁を結んでおけば、万が一俺が成功した場合のリターンは計り知れない。一方、失敗したとしても、九条院家にとっての損失は限定的だ。


 蓮は三つ目の仮説を書く。雅の年齢と婚姻戦略上の現実的判断。


 (雅は18歳。上流階級の女性としては、適齢期の始まり)


 鳳華女子大学で良妻賢母としての教育を受けている雅は、九条院家にとって貴重な政略結婚の駒でもある。だが、彼女は適性者ではない。ダンジョンで戦う力を持たない令嬢だ。


 (ならば、優秀な制圧士と縁を結ぶことで、九条院家の影響力を制圧士という新興権力層にまで拡大できる。既に地位を確立したトップランカーは、既存の婚約や家庭を持っている可能性が高い。ならば、同世代で、これから伸びる可能性のある適性者と早期に縁を結ぶ方が合理的だ)


 そして四つ目。雅の父親が、蓮の潜在能力を見抜いた。


 (適性者登録の際、担当官の北条麗奈が俺の情報を詳細に記録していた。その情報は、当然、九条院家のような有力者にも共有されるだろう)


 召喚師というジョブ、ユニークスキル、防大への合格、そして適性判定時の各種数値。それらを総合的に分析すれば、蓮の潜在能力の高さは明白だ。


 (つまり、父親は俺を「投資すべき原石」と判断した)


 蓮はペンを置き、ノートに書き出した四つの仮説を眺めた。


 いずれも可能性がある。むしろ、これらの要因が複合的に作用して、今回の縁談に繋がったのだろう。


 だが、重要なのは「どの仮説が正しいか」ではない。


 (いずれの仮説が正しくとも、結論は同じだ)


 蓮は薄く笑みを浮かべた。


 (この縁談は、九条院家にとって戦略的な「投資」だ。そして投資である以上、俺が成果を出し続ける限り、一方的に破棄される可能性は極めて低い)


 投資とは、将来のリターンを期待して行うものだ。ならば、その期待に応え続ければ、九条院家は蓮を手放すことはない。むしろ、さらなる投資を行うだろう。


 蓮が順調にレベルを上げ、実績を積み、トップランカーへの道を歩み続ける。その過程を、九条院家は支援し続ける。なぜなら、それこそが彼らの投資を成功させる道だからだ。


 (ならば、もう少し攻めた姿勢を取っても問題ないということだ)


 蓮の脳裏に、雅の姿が浮かんだ。


 長い銀髪、気品ある立ち居振る舞い、礼儀正しい言葉遣い。全てが洗練され、磨き上げられた、九条院家の令嬢。


 (あの女性を、俺だけのものにする)


 それは単なる所有欲ではない。もっと倒錯した、歪んだ支配欲だ。


 (あの完璧なまでの気高さを、俺の前でだけ崩させる。あの凛とした表情が、俺のためだけに乱れる瞬間を見たい)


 蓮の心の奥底で、暗い欲望が蠢く。それは、蓮の抑圧されていた感情が、この世界で解放されたものだった。


 (この世界では、それが許される。いや、社会的に肯定される)


 トップランカーは複数の女性を娶ることができる。そして、妻たちは夫に従い、支えることが美徳とされる。蓮の欲望は、この社会のシステムと見事に合致していた。


 蓮はノートを閉じ、資料を丁寧に整理し始めた。図書館の静寂の中、彼の計画は確信へと変わっていった。


* * *


 夜、寮の自室に戻った蓮は、デスクの上に図書館で借りた資料を広げていた。部屋の照明は少し落としてあり、落ち着いた雰囲気が漂っている。


 そのさなかに、スマートフォンが静かに振動した。


 着信画面には「九条院雅」の名前が表示されている。時刻は夜9時を少し回ったところだ。


 蓮は薄く笑みを浮かべながら、通話ボタンをタップした。


「もしもし、雅さんですか」


『はい、蓮さん。お忙しいところ失礼いたします』


 電話越しに聞こえてくる雅の声は、いつもと変わらず落ち着いていて、丁寧だった。わずかに遠慮がちなトーンが、彼女の育ちの良さを感じさせる。


 見合いの際、相互理解を深めるため、3日に一回は電話をするように話していた。今日がその日に当たる。


「構いません。何か変わったことはありましたか?」


『ありがとうございます。特に変わったことはございませんが……大学の方は、相変わらず課題が多くて』


 雅の声には、少しだけ苦笑いが混じっていた。


『今週は文化史のレポートと、茶道の実技試験がありまして。少し慌ただしい日々を過ごしております』


「それは大変ですね」


『いえ、これも学びですから。むしろ、蓮さんの方こそ、お忙しいのではないでしょうか』


 気遣うような、柔らかい声色。それは婚約者としての気遣いというよりも、純粋な関心から来るものだった。


「まあ、防大も課題は多いですが。雅さんほどではないと思いますよ」


『ふふ、そうでしょうか』


 雅が小さく笑う気配が、電話越しに伝わってくる。


 会話は淡々と進んでいく。近況の報告。婚約者として交流を深めるための、実務的なやり取り。


 そんなやり取りが一通り終わったところで、少しの間があった。蓮は窓の外を見ながら、口を開く。


「そういえば、この前話した美術館の件ですが」


『はい』


「今週末の日曜、時間は取れますか?」


『少々お待ちください』


 雅はスケジュール帳を確認しているのか、微かにページをめくる音が聞こえてくる。


『日曜日でしたら、終日空いております』


「わかりました。では、日曜の午後でお願いします。私は外出許可を取っておきますね。防大は制約が多いものですから……」


『いつもお手数をおかけして、申し訳ございません』


「いえ、お気になさらず。慣れたものですから」


『蓮さんは毎日、制圧士として国家のために活動されているのですから。本当にお疲れ様です』


「そんな、大袈裟ですよ。まだ学生に過ぎませんから」


『いえ。立派なことだと思います』


「ありがとうございます。それより、日曜を楽しみにしていてください」


『はい。楽しみにしております』


 雅の声は穏やかで、丁寧だった。婚約者としての正しい返答。蓮との時間を、務めとして受け入れている様子が窺える。


 (……いい反応だ)


 蓮は内心で満足した。前回の食事の際に約束した美術館デートを、具体的な予定へと進めることができた。


 だが、蓮の意識は既に別の方向に向いていた。


 (……この声だ)


 雅の声は、電話越しでもその育ちの良さを感じさせる。一音一音が丁寧で、語尾まできちんと発音される。抑揚は控えめだが、それが逆に品を感じさせる。


 (この女は、今、どんな表情でこの電話をしているんだろうな)


 蓮の脳裏に、雅の姿が浮かんだ。


 おそらく、九条院邸の自室だろう。きちんと正座をして、背筋を伸ばし、スマートフォンを両手で持っている。表情は穏やかで、微かに微笑んでいるかもしれない。長い銀髪が、肩から流れ落ちている。


 (その完璧な姿勢、完璧な言葉遣い、完璧な礼儀作法……)


 蓮の心の奥底で、暗い欲望が蠢き始める。


 (それを、全て崩してやりたい)


 雅の完璧さは、蓮にとって挑戦状のようなものだった。あの気高さを、あの完璧な立ち居振る舞いを、俺だけが乱すことができる。その特権を手に入れたい。


『蓮さん?』


 雅の声が、蓮の思考を引き戻した。


「ああ、すみません。少し考え事をしていました」


『いえ。わたくしの方こそ、夜遅くにお時間を取らせてしまい、申し訳ございません』


 雅は丁寧に謝罪する。その律儀さが、また蓮の歪んだ欲望を刺激した。


「いえいえ、お気になさらず。婚約者からのお電話ですから、いつでも歓迎しますよ」


『……ありがとうございます』


 雅の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。それは喜びというよりも、婚約者としての務めが果たせたという、安堵に近いものだった。


 (この女は、俺に恋愛感情を抱いているわけではない)


 蓮はそれを冷静に理解していた。雅が示すのは、あくまで「婚約者として正しい態度」だ。社会通念に従い、良妻賢母として夫を支えるべきだという規範意識。


 だが、それこそが蓮にとっては最高の獲物だった。


 (感情ではなく、規範で動いている。ならば、その規範を利用すればいい。「婚約者なんだから、これくらい当然だろう」と、少しずつ境界線を押し広げていけば……)


 蓮の脳裏に、様々な戦略が浮かんでは消えていく。


 次に会った時、どこまで踏み込めるか。どんな要求なら、彼女は「婚約者としての務め」として受け入れるのか。その境界線を、少しずつ探っていく。


『それでは、蓮さん。本日はこれで失礼いたします。お忙しい中、ありがとうございました』


「ええ。レポート、頑張ってください」


『はい。おやすみなさいませ』


 通話が切れた。


 蓮はスマートフォンを机の上に置き、椅子に深く座り直した。


 (……やはり、この女は最高だ)


 淡々とした、事務的な電話。だが、その裏で蓮が感じていたのは、純粋な征服欲だった。


 (電話越しでこれだ。実際に会った時には、もっと……)


 蓮の脳裏に、雅の様々な表情が浮かんだ。今まで見たことのない、乱れた表情。あの完璧な立ち居振る舞いが崩れる瞬間。それを引き出すことができるのは、婚約者である俺だけだ。


 (九条院家は、この縁談を破棄しない。俺が成果を出し続ける限り。ならば、もう少し攻めた姿勢を取っても問題ない)


 図書館での分析が、確信へと変わっていた。


 そして今、雅本人との電話を通じて、その確信はさらに強固なものになった。彼女は、蓮を婚約者として完全に受け入れている。ならば、「婚約者として当然」という理屈で、少しずつ彼女の境界線を侵食していけばいい。


 (次に会った時が楽しみだな)


 蓮の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。


 窓の外では、光来市の夜景が静かに輝いている。だが、蓮の内面は、暗く燃えるような欲望に満ちていた。


 葵という、最初から手に入れた女。そして雅という、これから完全に手に入れる女。二人とも、それぞれ違う形で、蓮の歪んだ欲望を満たしてくれる。


 (さて、どこまで行けるか……試してみるか)


 蓮は資料をファイルに収め、部屋の照明を落とした。


 次に雅と会う時、どんな一手を打つか。その戦略を練りながら、蓮は静かに夜を過ごした。



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