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贈り物の香り

 ダンジョンからの帰り道。ゲートタワーから寮へと続く並木道を、蓮と葵は並んで歩いていた。つい先ほどまで続いた戦闘の熱気は、地上へ戻ったことで急速に冷めていく。


 寮の建物が見えてきたところで、蓮がふと思い出したように言った。


「悪い、葵。少し事務棟に寄らないといけなくなった。先日提出したレポートの件で呼び出しだ。先に部屋に戻っていてくれないか」


 そう言って、蓮は自分の部屋のカードキーを葵に手渡した。葵は「分かった」と短く応じ、それを受け取る。蓮は「すぐ戻る」と言い残し、別の方向へと歩き去っていった。


 一人になった葵は、蓮の部屋へと向かう。彼の部屋を訪れるのは、これが初めてではない。打ち合わせや反省会で、これまで何度も足を踏み入れた、見慣れた空間のはずだった。


 カードキーで扉を開け、中に足を踏み入れる。主のいない部屋は、しんと静まり返っていた。いつもは気にならない蓮の私物が、なぜか今日は雄弁に彼の存在を主張しているように感じられる。


 手持ち無沙汰になった葵は、部屋の中をゆっくりと見回した。本棚には難解な戦術書や歴史書が並ぶ一方、その隅には数冊のライトノベルが紛れ込んでいる。デスクの上には書きかけのレポートが広げられており、そのテーマは講義で扱う範囲を遥かに超えた、彼独自の深い考察がなされているものだった。


 そのちぐはぐな知的空間に、葵は蓮の掴みどころのない人間性を改めて感じ、知らず知らずのうちに口元が緩んでいた。


(……本当に、飽きない人。私が知らない顔が、まだいくつもある)


 共犯者として彼の隣に立ち、その思考の多くを共有しているつもりだった。しかし、この部屋は、まだ自分の知らない神谷蓮という人間がいるのだと、雄弁に物語っていた。その事実に、葵は不思議な高揚感を覚える。


 その時、ふと、部屋の隅に置かれた小さな紙袋が目に入った。有名な百貨店のロゴが入った、上品なデザインの紙袋。こんなものが彼の部屋にあること自体、少し珍しい。


 一度は視線をそらす。他人のプライベートを探るなんて、らしくない。そう自分に言い聞かせたはずなのに、心臓がやけに大きく脈打つのを感じた。葵は、まるで何かに引かれるように立ち上がり、その紙袋の前で足を止める。


 見てはいけない。でも、確かめずにはいられない。


 好奇心、と呼ぶには少しだけ黒い感情に突き動かされ、葵はそっと紙袋を覗き込んだ。中に入っていたのは、美しい風呂敷に包まれた、老舗和菓子店のものと思われる桐箱だった。そして、その横に、小さなメッセージカードが添えられているのが見えた。


 自分の指先が微かに震えていることに気づきながら、葵はそれを振り払うように、カードを手に取る。ふわりと、上質な香水の残り香が鼻をかすめた。そこに、優雅で、見覚えのある筆跡でこう書かれていた。


『先日はありがとうございました。心ばかりの品ですが、訓練の合間の糖分補給にでもお役立てくださいませ。 九条院 雅』


 その文字を読んだ瞬間、葵の頭からすっと血の気が引いていくのを感じた。


 心ばかりの品。訓練の合間の糖分補給。その一つ一つの言葉が、完璧な気遣いと、自分にはない「正しさ」を見せつけてくるようだった。葵は、カードと桐箱を、まるで時限爆弾でも扱うかのように、そっと元の場所に戻した。紙袋の角度も、寸分違わず元通りに。


 何も見なかった。私は、何も知らない。


 自分にそう言い聞かせ、元の場所に戻って座る。数分後、蓮が「待たせたな」と言いながら部屋に戻ってきたが、葵は平静を装って「おかえり」と返すのが精一杯だった。


 二人は、部屋のキッチンで作った簡単な焼きそばを、ローテーブルを挟んで食べていた。会話はない。いつもと同じ味のはずの焼きそばが、まるで砂を噛んでいるかのように味気なく感じられた。蓮の些細な咀嚼音すら、葵の神経を苛んだ。


(……やけに静かだな。ダンジョンで疲れているのか、それとも何かあったか。まあいい。いずれにせよ、話を進めるには好都合だ)


 蓮は、葵の様子の変化に気づきながらも、それを意に介する様子もなく、自分の計画を遂行するための駒として冷静に判断する。


「今日の立ち回りは悪くなかったな。特に最後のジャイアントラットの群れは、お前の水魔法がなければ少し危なかったかもしれない」


 沈黙を破ったのは、蓮だった。今日の攻略を振り返るその声に、葵は「そう」と短く応じた。いつもなら、もう少し気の利いた皮肉や挑発が返ってくる場面だ。その反応の鈍さに、蓮は気づかないふりをしながら、本題を切り出した。


「そういえば先日、九条院さんと食事に行ってきた。なかなか興味深い人だったよ。お前とは違う意味でな」


 その言葉に、葵の箸がぴたりと止まった。彼女はゆっくりと蓮の方へ顔を向ける。その表情は穏やかな笑みを浮かべていたが、瞳の奥には冷たい光が宿っていた。


「あら、ずいぶんご執心なのね。すっかり骨抜きにされたんじゃないの?」


 棘のある言葉。蓮はその挑発を、待っていましたとばかりに正面から受け止めた。彼は真剣な表情で葵に向き直る。


「まさか。これはゲームだろ? 九条院家という巨大な資産を、俺たちの支配下に置くためのな」


 主語は「俺」ではなく、「俺たち」。蓮は、これが二人のための戦略であることを、あえて強調して見せた。葵の表情がわずかに揺らぐのを、彼は見逃さない。


「それに、彼女は社交界での繋がりも豊富だ。九条院家の人脈を活用できれば、俺たちの将来に大きなアドバンテージになる。雅自身も、婚約者候補として俺との関係を深めることに前向きなようだしな」


 蓮は、雅との関係を「俺たちのための戦略」として説明する。葵の表情がわずかに揺らぐのを、彼は見逃さない。


「……ずいぶん、ご執心なのね」


 葵は、テーブルの上の空になった焼きそばの皿を見つめながら、呟いた。


 それは「作戦の共有」という形を取りながら、事実上の決定事項の通達だった。葵には、もはや反論の余地はない。蓮の計画は、どこまでも合理的で、彼女たちの目標達成のために最短の道筋を示している。彼女がそれを理解できないほど、愚かではないことを、蓮は知っていた。


 葵は、数秒の沈黙の後、ふっと息を吐いて笑みを作った。


「……せいぜい、手玉に取られないように気をつけることね」


 その皮肉を返すことで、彼女はかろうじてプライドを保った。蓮は「ああ、分かっている」と短く応じ、食べ終えた食器を片付けに立ち上がる。その背中を見送りながら、葵は唇を強く噛み締めた。


 計画に同意するしかない。頭では分かっている。


 けれど、胸の奥では、納得できない何かが叫んでいた。


 ――蓮の隣は、私の場所なのに。


 それは、彼女がこれまで感じたことのないほど、熱く、そして苦しい独占欲の炎だった。


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