新入生ガイダンス
入学式翌日、新入生たちが集められた大講義室は、昨日までの厳粛な雰囲気とは打って変わって、新生活への期待と不安が入り混じったざわめきに満ちていた。
この会場には、1学年約1000名を20に分けたホームルームクラスのうち、4クラス約200名が集められている。
一般の大学とは異なり、防衛大学では「クラス」という固定された単位が存在する。このクラスは卒業まで変わることなく、一部の必修科目や行事、そして1年前期のダンジョン実習をこの単位で行うことになる。
約200名もの学生が一堂に会した講義室には、それだけで独特の熱気が漂っていた。
ざわめきの熱量は、ここにいる全員が、10人に1人と言われる「適性者」の中から、さらに厳しい選抜を潜り抜けてきたエリートであるという事実が、増幅させているようだった。
やがて、何の合図もなく壇上に1人の男が現れると、講義室のざわめきが嘘のように静まった。仕立ての良いグレーのスーツを隙なく着こなした、30代半ばほどの男がゆっくりと学生たちを見渡す。その立ち居振る舞いは、大学教員というよりは、霞が関の本省から派遣されてきたエリート官僚を彷彿とさせた。
「新入生の皆さん、入学おめでとうございます。私は学務部長の長谷川と申します。本日は1組から4組まで、4クラス合同でのガイダンスとなります。これより、皆さんが歩むことになる4年間の道筋について説明いたします」
その抑揚のない、しかしよく通る声に、学生たちの背筋が自然と伸びるのが分かった。長谷川は一つ間を置いて、本題に入った。
「本学は皆さんもご認識の通り通常の4年生大学と大きく異なる部分が多いです。しかしながら大前提として大学である事実は変わりません。卒業には単位の取得が必須となります。なぜ、諸君が戦闘技術だけでなく、高度な教養を身につける必要があるのか。それは、本学が、ダンジョンという脅威から国家を守り抜く、真の指導的人材を育成するために設立された機関だからです」
スクリーンに「一般教養科目」の文字が大写しになる。長谷川は、無機質な光を放つその文字を、レーザーポインターで静かに指し示した。
「まずは、一般教養科目です。どの大学にもある『外国語科目』や、論文執筆の基礎となる『情報リテラシー』などに加え、本学独自の科目も存在します」
講堂の前方で、熱心にメモを取ろうとする学生が数人、顔を上げた。
「例えば、『国家防衛史』では、スタンピートの脅威に対し、国家がいかに国民を守り、勝利してきたかを学びます。また、『社会思想史』では、伝統的な家族観や男女の役割分担が、社会の安定にいかに貢献してきたかを、客観的データと共に学ぶことになるでしょう。これら全てが、将来、国家を担う指導的立場に立つ者として、必須の素養です。ダンジョン攻略に熱中しすぎて単位を落とせば、容赦なく留年します。そのつもりで」
「そのつもりで」という最後の言葉は、静かだが有無を言わせぬ響きを持っていた。何人かの学生が、ごくりと喉を鳴らすのが聞こえる。
そこまでを聞き流しながら、神谷蓮は配られた分厚い紙の束――シラバスを、まるでゲームのスキルツリーを眺めるように、冷静かつ貪欲に吟味していた。
(普遍的な教養科目が並ぶ中に、『国家防衛史』『社会思想史』といった科目も混じっているな。評価項目を見る限り、思想教育的な要素を含んでいる)
蓮は『ダンジョン経済学』の講義計画に目を落とす。脚注に「政策貢献度」「産学連携レポート加点」という文字を見つけ、シラバスの余白にペンで印をつけた。加点要素は押さえておく。
(卒業要件は……一般教養24、発展教養16、専門64、実習40。合計144単位)
要件を頭に叩き込み、次のページへ。
(一般教養は楽に取れる科目で埋める。専門は、教授との接点が作れる科目を優先する。レポートに『国家への貢献』という視点を入れておけば、評価は上がる)
蓮の思考は淀みなく流れ、シラバスの行間から、本来の目的に直結しない単位取得を最小の労力で切り抜ける道筋を抽出していく。
蓮が自分にとっての最適解を弾き出していると、長谷川の声が再び講義室に響いた。スクリーンが「専門科目」へと切り替わる。
「シラバスを見ればわかる通り、本学のカリキュラムは、今説明した『一般教養科目』、より専門的な視点を養う『発展教養科目』、そしてダンジョン制圧士としての専門技術を学ぶ『ダンジョン専門科目』の3つの柱で構成されています。これに、実践的な実地訓練である『ダンジョン実習』が加わります。諸君の学びの核となるのは、もちろん専門科目群です」
「1年次から始まる『ダンジョン学原論』を基礎として、『モンスター生態学』では敵の弱点だけでなく、その習性を利用した戦術を、『パーティ戦術論』では基本的な連携パターンを学びます。さらには、この世界のエネルギー基盤である魔石を扱う『魔石工学基礎』など、その全てが、諸君がダンジョン制圧士として生き抜くための、血肉となる知識です」
先ほどとは明らかに違う、熱のこもった視線が壇上に注がれる。男子学生たちが、前のめりになるのが分かった。何人かの男子学生が、期待に声を漏らすのが聞こえた。
「高学年次には、より専門的な講義が待っています」
長谷川は、まず講堂の右半分、男子学生が固まっている区画に視線を送った。
「男子学生は『マクロ戦略論』や『上級指揮統制論』といった、パーティの、ひいては国家の剣として勝利を掴むための指揮官教育を受けます」
その言葉は、彼らの野心に直接火を点けたようだった。次に、長谷川の視線が、滑るように左半分の女子学生たちへと移される。彼女たちの多くは、緊張した面持ちで、しかし真っ直ぐに壇上を見つめ返していた。
「対して女子学生は『高等支援学』、『戦況分析(補佐官視点)』といった、リーダーの判断を最適化し、勝利を盤石にする最高のパートナーとなるための支援教育を受けることになります。詳細は、シラバスで各自確認してください」
その言葉に、講義室の前方に座る女子学生たちが反応した。何人かは、しっかりと頷いて前を向いている。その表情には、確かに誇りのようなものが浮かんでいた。
一方で、視線を手元の資料に落としたまま、ただ静かに話を聞いている者もいる。彼女たちの表情は落ち着いていて、疑問を口にする様子はない。ただ淡々と、示された道を受け入れているように見えた。
「――そして、最後に最も重要な点を伝達します」
長谷川の少しだけ厳しくなった声が、蓮の思考を遮る。講堂の空気が、再びピンと張り詰めた。
「我々が皆さんに求める、卒業までに達成すべき最低ラインについてです。これは卒業要件でもありますから、正確に記憶してください。第一に、ジョブレベルを35まで到達させること。第二に、本学隣接の『光来ダンジョン』25階層を踏破すること」
その言葉に、学生たちの表情が一斉に引き締まる。静寂の中、誰かが息を呑む音がやけに大きく響いた。
レベル35。蓮は、その数字の重みを理解していた。多くの制圧士が、キャリアの中間目標としてようやく掲げるような、一つの大きな壁だ。
25階層となれば、危険度指標「カテゴリ6」のモンスターが闊歩する危険地帯――十分な準備と実力なしには、決して踏み込めない領域だ。
だが、周囲の学生たちは、その数字の意味を正確には理解していないかもしれない。何人かは、ただ漠然と「高い目標」として受け止めているようだった。
長谷川は、学生たちの間に漂う緊張を正確に読み取り、言葉を続けた。
「無論、これは容易な目標ではない。民間の制圧士が10年かけても到達できるかどうか、という領域です。しかし、諸君は全国から選び抜かれた人材であり、本学には、民間の比ではない効率的な育成環境と、40年分のデータに裏打ちされた教育体制がある。例年、ほとんどの学生がこの基準を達成している。要は、我々の指導に真摯に従う覚悟があるか、というだけの話です」
彼はそこで一度言葉を切り、さらに鋭い視線を学生たちに注いだ。
「しかしこれは決して楽な道ではありません。諸君はレベルという指標の重みを、これから身をもって知ることになるでしょう。1つレベルを上げるということが、どれほどの血と汗を要求するかを。本学は、いかなる状況でも自ら最適解を導き出し、仲間を勝利に導ける、真の指導者と補佐官を育成するための場所です。そのための、長くも短い4年間となるでしょう」
長谷川はそこで学生たちの反応を確かめるように静かに見渡した。その目に、わずかな同情の色も浮かんでいない。
「また、理解しておいていただきたいことがあります。本学には国の大きな期待が寄せられ、多額の税金が投入されているということです。単なる怠慢によって留年するような事態は許されません」
長谷川は、一度言葉を切って学生たちを見渡した。
「そのために、諸君の達成状況は学内ポータルの到達管理票に自動で記録され、時期に応じた目標の未達が続けば、面談の呼び出しが届くことになります」
その言葉が、学生たちに課せられた現実の重みを突きつける。何人かの学生が、無意識に背筋を伸ばし、隣の者と顔を見合わせる。講義室全体に、先ほどまでとは比較にならない緊張が張り詰めた。
「そして、その道のりの第一歩となるのが、5月から開始されるダンジョン実習です。当初は教官の監督下、万全の体制で低階層から実施されます。しかし、実習において負傷は日常的に起こりうると認識してください。座学で得た知識が、そのままでは通用しない現実を、諸君は身をもって知ることになります」
周囲の学生たちの間に、期待と不安の入り混じった緊張が走る。その中で、最前列に座っていた1人の男子学生が、すっと手を挙げた。
「質問よろしいでしょうか。今安全性や負傷に関する話をいただいたと思いますが、在学中のダンジョン活動における、公式な死者数を伺うことはできますか」
その生々しい問いに、講義室の空気が凍りつく。
前のめりになっていた男子学生たちの何人かが、わずかに身を引いた。隣の席の者と、無言で視線を交わす者もいる。国家のためにその身を捧げる覚悟を決めた学生たちであっても、「死」という現実を突きつけられれば、動揺は隠せない。
長谷川は、そうした学生たちの反応を一瞥すると、表情を変えずに答えた。
「良い質問です。事実をありのままに伝えましょう。ゼロではありません」
その一言で、講義室のざわめきが一段と大きくなる。
「全国に10校ある防衛大学校全体で、過去5年間の公式カリキュラム中の死者は7名。ただしカリキュラム外の個人的なダンジョン活動まで含めると、その数は107名にも膨れ上がります」
107名――その数字が、学生たちの間に重く沈む。何人かは、配布資料を握る手に、わずかに力が入った。女子学生の中には、唇を噛み締めて俯く者もいる。
長谷川は、学生たちの動揺を確認するように間を置いてから、続けた。
「この数字をどう捉えるかは、皆さん次第です。しかし、だからこそ、ここで徹底的に学ぶ必要があるのです」
長谷川の声に、わずかに力がこもる。
「我々は皆さんを死なせるために教育するのではありません。無用な負傷を避け、諸君が国家の戦力として、長期的に、安定して活躍できるようにするために教育するのです」
「ガイダンスの主な内容は以上です。詳細については、各科目の講義で確認してください。履修登録は、ポータルサイトから1週間後の金曜17時までに各自で済ませること。別途、履修相談会も開催されますので、不明点があったり履修選択に悩んでいる学生は参加を推奨します」
長谷川はそこで一度、大きな区切りを入れるように息をついた。張り詰めていた学生たちの肩から、わずかに力が抜ける。
「ああ、それから。最後にいくつか事務連絡があります」
「まず、配布物について。諸君の手元にある紙のシラバスと、机の上のタブレットです。タブレットは入学特典として本学から諸君に譲渡されたもので、2in1タイプですのでPCとしても使用可能です」
学生たちの視線が、一斉に手元へと落ちる。
「今後の講義資料の配布やレポート提出の多くは学内システムを通じて行うことになります。なのでその際に存分に利用してください」
長谷川は、淡々と事務的な説明を続ける。
「ただし、卒業前に破損した場合の再支給はありません。その場合は自身で新しいPCの購入などをお願いします。必要なソフトウェアのセットアップ手順などはシラバスと共に配布した資料に記載されています。ガイダンス後に各自で済ませ、大学のポータルサイトにアクセスできるようにしておくこと」
「何か他に質問はありますか?……よろしい。では、以上でガイダンスを終了します。改めて、第四防大へようこそ」
他の学生たちが、国家から課された具体的な目標の重さに表情を硬くする一方、蓮は冷静に数字の意味を咀嚼していた。
レベル35、25階層踏破。民間の制圧士が10年かけて到達できるかどうかという領域に、わずか4年間で到達させる。
この大学は、国家がその総力を挙げて作り上げた、最高の「育成機関」だ。ここで圧倒的な力を手に入れれば、権力者たちの目に留まる可能性も格段に上がる。それこそが、この社会で影響力を手にするための、最も確実な足掛かりになる。
1年前、この場所を選んだ自分の決断は、やはり正しかった。
(この社会のルールを理解し、それに沿って最適に行動する。それだけで、道は開ける)
蓮の視線は、すでに次のステージへと向いている。
5月から始まる実地研修。それは、自らの価値を証明し、将来利用価値のある人間関係を構築するための、最初のステージに過ぎない。
周囲の学生たちの顔には、それぞれ異なる表情が浮かんでいた。
前方の席で、拳を握りしめている筋骨隆々とした男子学生。おそらく前衛向きのジョブだろう。熱意は買えるが、思考が単純そうだ。
その隣で、冷静な目で長谷川を観察している眼鏡の男子学生は、後衛か支援系か。こちらの方が、利用価値は高そうだ。
女子学生の区画では、誇らしげに前を向いている者もいれば、資料を見つめたまま表情を硬くしている者もいる。彼女たちがこの先、どのような道を選ぶのか――それを観察するのも、また興味深い。
蓮は、その一人一人の顔を、まるで駒の性能を確かめるように冷静に観察しながら、具体的な計画の第一歩を練り始めていた。
蓮が席を立とうとした、その時。壇上から降りようとしていた長谷川が、ああ、忘れていた、とでもいうように学生たちに向き直った。
「男子学生は以上で解散となりますが、女子学生諸君は、この後、女子学生会主催の『新入生歓迎オリエンテーション』があると聞いてますので、もうしばらくこの場に残ってください。時間は30分ほどと聞いております」
その言葉に、男子学生たちが一斉に立ち上がる音が講義室に響いた。一方、女子学生たちは席に残ったまま、それぞれ異なる反応を見せている。
前方の席では、何人かの女子学生が「女子学生会」という単語に顔を輝かせ、隣の者と小声で何かを話し合っている。一方、中ほどの席の女子学生は、ため息混じりに資料をめくり直している。その隣では、無表情のまま淡々と次のスケジュールを確認している者もいた。
けれど、それに違和感を抱く様子はない。いつものことという空気が、女子学生たちの間に流れていた。
蓮はそのアナウンスを聞き、自分に関係がないことを確認すると、すぐに他の男子学生と共に講義室を後にした。扉の向こうから、再び静まり返った講義室の気配が伝わってくる。




