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仮初めの婚約者


 先日、雅から届いたメッセージにあった『お食事でも』という誘いに、蓮が返信してから、数日後の週末だった。


 そして約束の時間より少し早く、彼女が指定したレストランの前に着くと、雅はすでにそこにいた。


「蓮さん、こちらです」


 控えめに手を挙げるその姿に、蓮は一瞬、息を呑んだ。


 見合いの時に纏っていた厳かな訪問着とは打って変わり、今日の雅は、淡いクリーム色のワンピースに身を包んでいた。露出は控えめで、スカートは上品に膝を隠している。


 上質な生地が動くたびに柔らかな光を反射し、彼女の清廉な雰囲気を際立たせていた。小ぶりなハンドバッグを手に、控えめなヒールのパンプスを履いたその姿は、まるで良家の令嬢のためのファッション雑誌から抜け出してきたかのようだった。


(なるほどな。これもまた一つの「正解」というわけか)


 蓮は内心で、獰猛な食指が動くのを感じた。


 彼女の服装は、個性の表現ではない。婚約者候補との初めての会食という場において、相手に最も好印象を与え、かつ貞淑さをアピールするという、社会的に定義された「女性のあるべき姿」の完璧な解答だ。寸分の狂いもなく、その役割を演じきっている。


 その徹底した規範意識の高さに感心すると同時に、体の奥から暗い悦びが湧き上がってくるのを蓮は感じていた。この完璧なまでに作り上げられた淑女を、自分だけの色に染め上げたい。その規範を、俺のためだけに歪ませてみたい。その欲望が、蓮の思考を熱くさせた。


「お待たせしました、雅さん」


 蓮はそんな内心を完璧に隠し、穏やかな笑みを浮かべて彼女の元へ歩み寄った。


「わたくしの好きなお店の一つなのですが、蓮さんのお口に合えば幸いです」


 そう言って微笑む雅に、蓮は「雅さんのお気に入りのお店に招待していただけて光栄です」と返した。


 本来であれば、店選びからエスコートまで、すべて男性側が担うべきなのだろう。しかし、今回は彼女の「お気に入りの店」という言葉に、素直に甘えることにしたのだ。


 外壁に掲げられたメニュープレートには、ランチコース5000円、とある。学生の蓮にも十分に支払える、現実的な価格設定だ。だが、重厚な木の扉と、そこから漏れ聞こえてくる静かで落ち着いた空気は、明らかに一般の学生が足を踏み入れる場所ではないことを物語っていた。ここが、彼女の「日常」なのだ。


 ウェイターに案内され、席に着く。店内は、クラシック音楽が静かに流れ、客たちは皆、品の良い身なりの大人ばかりだった。雅は背筋を伸ばしたまま、少しも音を立てずに椅子に腰を下ろす。その一連の動作は、非常に滑らかだった。


「先日は、ありがとうございました。わたくしの両親も、蓮さんは素晴らしい方だと、そう申しておりました」


 席に着くなり、雅が丁寧にお辞儀をしながら言った。


「こちらこそ。雅さんのような素敵な方とお話しできて、光栄でした」


 蓮もまた、完璧な笑みで返す。


「今回は雅さんにお店まで選んでいただき、恐縮です。この交流期間中は、よろしければ、またこうしてお会いする機会をいただけませんか。次はぜひ、私からお誘いさせてください」


 蓮の丁寧な申し出に、雅は嬉しそうに微笑んだ。


「はい、もちろんです。蓮さんからのお誘い、楽しみにしております」


 二人の間の空気は、お見合いの席の緊張感とは違う、穏やかで前向きなものへと変わっていた。形式的な挨拶から一歩踏み込み、未来に向けた関係を築こうという、双方の意思が確認された瞬間だった。


 やがて前菜が運ばれてくる。そのタイミングを見計らったように、雅が少しだけ躊躇いがちに、それでいて自然な流れで口を開いた。


「ところで、蓮さんは絵画などにはご興味、おありになりますか?」


「専門的な知識はありませんが、美しいものを見るのは好きですよ」


 蓮がそう答えると、雅は嬉しそうに表情を和らげた。


「それでしたら、よかったです。実は先日、とある日本画家の美術展に参りまして」


 雅は少し間を置いてから、言葉を続けた。


「その方の描く絵は、静寂の中に吸い込まれそうになる魅力がありますけれど、特にその『余白』の使い方が素晴らしいと感じたのです」


 彼女は銀のカトラリーを優雅に手に取りながら、言葉を続ける。その指先は、まるで蝶が舞うように繊細だった。


「描かれていない空間にこそ、意味がある。満たされていることだけが豊かさではないのだと、改めて教えられた気がいたします」


 彼女はそこで言葉を切り、蓮の反応を窺うように、静かに彼を見つめた。無理に同意を求めるでもなく、ただ、どう感じるかを知りたい、という純粋な好奇心がその瞳には宿っていた。


「余白、ですか。なるほど……」


 蓮は、彼女の視線を受け止めながら、ゆっくりと頷いた。


「確かに、描かれていない部分を想像するからこそ、絵の世界がより深く、広く感じられるのかもしれませんね。静かな絵なのに、不思議と雄弁に語りかけてくるような……。そんな力があるように思います」


 蓮の言葉に、雅は心から嬉しそうに目を細めた。


「まあ、嬉しい。そのように感じてくださる方とお話しできて。多くの方は、ただ『綺麗ですね』だけで終わってしまいますから」


 その笑顔は、お見合いの席で見せた礼儀的なものではなく、素の感情が滲んだ、年相応の可憐さを感じさせるものだった。


 彼女の知的好奇心と感性を的確に刺激できたことを確認しながら、蓮は内心でほくそ笑んだ。彼女との会話は、高度なゲームに似ていた。相手の興味の在り処を探り、的確なカードを切り、信頼という名のポイントを稼いでいく。


 蓮はそこで、あえて少し間を置いてから、穏やかに話題を変えた。


「お見合いの際に少し伺いましたが、鳳華女子大学での大学生活はいかがですか?」


 蓮がそう尋ねると、雅は「ふふ」と可憐に微笑んだ。


「女子大といっても、学んでいることの基本は普通の大学と大差ありませんよ。一年生の前半は一般教養が中心ですから」


 雅は少し微笑みながら、続けた。


「例えば、歴史学の概論や法学の基礎といった、蓮さんにも馴染みのありそうな科目も多いかと思います。今は、レポートなど課題にも追われています」


「なるほど。専門課程は大きく違うのでしょうが、基礎となる教養科目には聞き馴染みのあるものが多いですね。俺たちの大学でも、一年次はそういった座学が多いですから」


 蓮が頷くと、雅は嬉しそうに微笑んだ。共通の話題を見つけられたことに、少しだけ安堵したようだった。


「ええ。ただ、わたくしたちの大学では、将来パートナーとなる方を支えるための、女性ならではの講義も多いのです」


 雅は誇らしげに、しかし自然な口調で続けた。


「例えば『高等社交術』や『育児論』、それから資産家のファイナンシャルプランニングに特化した講義まで、その内容は多岐にわたります」


 その言葉には、何のためらいもなかった。彼女はそれを、女性として学ぶべき当然の教養だと信じ、むしろ誇りに思っているようだった。蓮は、感心したように相槌を打つ。


「なるほど、専門的で実践的な内容なのですね。私の大学でも、女子学生には『生活デザイン論』という必修科目がありますね」


 蓮は少し間を置いてから、続けた。


「将来、社会の指導的立場になる男性を支えるための、総合的な子女教育の講義だと聞いています」


 蓮の言葉に、雅は嬉しそうに目を細めた。


「まあ、第四防大でもそのような教育を大切になさっているのですね。さすがは、将来の国家を担う方を育成する最高学府です。わたくしたちも、見習わなければなりません」


「雅さんご自身は、何か特に好きな講義はあるのですか?」


 蓮が尋ねると、雅は少しだけはにかむように微笑んだ。


「そうですね……。『伝統文化演習』でしょうか。華道や茶道といった、古くから伝わる淑女の嗜みを学ぶ講義です」


 雅は少し照れくさそうに、言葉を続けた。


「わたくし、昔からお花に触れるのが好きでして。家の稽古とはまた違う、友人たちと和気あいあいと楽しむ時間は、良い息抜きになっております」


「それは素敵ですね。雅さんが生けたお花は、きっと素晴らしいでしょうね」


 蓮の言葉に、雅は嬉しそうに「ありがとうございます」と小さくお辞儀をした。


 共通の価値観を確認できたことに心から満足している様子の雅を見て、蓮は静かに内なる笑みを深めた。


(呼び名こそ違え、本質は同じだな。この国では、女性は男性を支えるために最適化された教育を受ける。それがエリート層であればあるほど、より専門的で、高度になる)


 実に合理的で、好ましい世界だ。蓮は静かにそう思った。


 そうしたやり取りを挟みつつ、食事は和やかに進んだ。メインディッシュが運ばれてきた頃、蓮はふと、真っ直ぐに雅の瞳を見つめて口を開いた。


「雅さん。こうしてお話ししていると、あなたとは本当に価値観が合うと感じます」


 その言葉に、雅は静かに目を伏せ、それから柔らかく微笑んだ。


「もったいないお言葉です。わたくしこそ、蓮さんのようなお考えをお持ちの方とお話しできて、大変光栄に思います」


 控えめな、しかし丁寧な言葉だった。その微笑みが社交の作法なのか、それとも本当に喜んでいるのか、蓮には判然としなかった。ただ、相手の男性を不快にしない、心地の良い微笑みであることは確かだった。


「この半年の交流期間で、あなたのことをもっと深く知りたい。次はどこか、雅さんが行きたい場所はありますか?」


 蓮の問いに、雅は少しだけ考えるように視線を落とし、それから控えめに答えた。


「それでしたら……もしお時間がございましたら、美術館などはいかがでしょうか。先日お話しした日本画家の作品が、常設展示されている美術館がございまして」


「それは素晴らしいですね。ぜひ、ご一緒させてください。楽しみにしています」


 蓮の即答に、雅は嬉しそうに目を細めた。


「ありがとうございます。わたくしも、とても楽しみです」


 その穏やかなやり取りに、蓮は内心で満足げに微笑んだ。


(順調だ。彼女は俺を信頼し始めている。この交流期間で、徐々に彼女を俺のペースに引き込んでいく)



 和やかな雰囲気のまま食事は終わり、二人は店の出口へと向かう。伝票を手にしたウェイターが隣についたタイミングで、蓮がごく自然に財布を取り出した。


「蓮さん、あの……」


 雅が、少しだけ申し訳なさそうに声をかける。学生である蓮にとって、二人で1万円という金額は決して安いものではない。それを理解しているからこその、気遣いだった。


「いえ、ここは当然、私に払わせてください。素敵な時間を過ごせましたから」


 蓮が穏やかに、しかし有無を言わせぬ口調で言うと、雅はそれ以上何も言わなかった。ただ、深く頭を下げて「ごちそうさまでした。とても、美味しかったです」と、心からの感謝を伝えた。その素直な振る舞いに、彼女の育ちの良さが滲み出ていた。


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