九条院雅(前編)
見合い当日、蓮はあつらえた上質なスーツに身を包み、鏡の前に立っていた。寸分の狂いもなく結ばれたネクタイ。磨き上げられた革靴。そこに映るのは、いつもの大学寮にいる「神谷蓮」ではない。社会という戦場に臨む、野心に満ちた一人の男だった。
蓮は、これから始まるゲームの駒を思い浮かべ、静かに口角を上げた。
指定された場所は、光来市に隣接する福岡市の中心街から少し外れた格式高い料亭だった。入り口で名前を告げると、着物姿の仲居に案内され、静かな檜の廊下を進む。どこからか、琴の音色が微かに聞こえてくる。
通されたのは、手入れの行き届いた庭園の景色が一望できる、広々とした個室。障子越しに差し込む柔らかな光が、畳の上に淡い影を落としていた。
すでに部屋には、壮年の紳士と上品な婦人、そして――一枚の写真でしか知らなかった少女が静かに座っていた。
その傍らには、柔和な笑みを浮かべた中年の女性が一人、控えるように座している。彼女が、国のお見合いシステムから派遣された担当者なのだろう。
(……やはり、ご両親も同席か。制度の基本は当人同士の顔合わせのはずだが、先方から強い要望があったと事前に聞かされている)
蓮は、頭の中で状況を整理した。
(娘を一人で顔合わせの席には出せない、ということか。まあいい。最初の挨拶だけで席を外すと聞いている。ここで無下に断って、家の格式とやらに傷をつけたと判断されるのも面倒だ)
蓮の姿を認めると、その女性がすっと立ち上がり、深々と一礼した。
「お待ちしておりました、神谷蓮様。わたくし、本日のお席を進行させていただきます、担当の佐藤と申します。どうぞ、お掛けください」
佐藤と名乗る女性に促されるまま席に着くと、彼女は向かい側へと視線を移した。
「神谷様、こちらが九条院忠久様、奥様の美津子様、そして三女の雅様でいらっしゃいます」
蓮と忠久たちが、互いに軽く会釈を交わす。
見合い相手の雅は、事前に見ていた写真よりも、実物は数段、いや、比較にならないほど美しかった。
白磁の肌。整った鼻筋。そして、深い青色の瞳は、静かな水面のように澄んでいながら、その奥に強い意志を秘めている。
だが何より、蓮の視線を釘付けにしたのは、その髪の色だった。
光を吸い込んで淡く輝く、絹糸のように滑らかな銀髪。
(……俺と同じ、色か)
写真では光の加減か、これほどはっきりとした銀色だとは気づかなかった。適性者として選ばれた者に、ごく稀に現れるという人ならざる色。蓮がそうであったように、彼女もまた、かつての黒髪黒目を塗り替えるようにしてこの色を得たのだろう。
その色が、彼女の現実離れした美しさをさらに際立たせていた。
銀色の髪をモダンなハーフアップに結い上げながら、身に纏っているのは、淡い藤色の訪問着。現代的な髪型と、古風な着物という組み合わせは、一見するとちぐはぐなはずだった。だが、彼女が纏うと、それは奇跡的な均衡で調和し、一種の神々しささえ感じさせた。
(……なるほど。これが九条院の血か。磨き上げられた所作の隅々に、育ちの良さが滲み出ている)
蓮は、雅の一挙一動を観察した。
(だが、それだけではない。人形のように整った顔立ちの奥に、強い意志を秘めた青色の瞳。この、触れることすら許さないというような気高さ)
この静かな水面のような心をかき乱し、俺の色に染め上げた時に、彼女はどんな表情を見せるのか。
想像するだけで、腹の底に暗い熱が灯る。それは徐々に全身へと広がり、指先まで痺れるような興奮が駆け巡った。
蓮は深く息を吸い、その熱を冷静さの下に押し込める。そして、湧き上がる暗い欲望を柔らかな笑みの下に隠し、部屋へと一歩踏み出した。
全員が改めて席に着き、静寂が戻ったのを見計らって、佐藤は改まった口調で口上を述べ始めた。
「皆様、本日はお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。ダンジョン制圧士として将来の国を担うことになる神谷蓮様と、由緒正しき九条院家の雅様との、初めての顔合わせの席を設けることができましたこと、大変喜ばしく思います」
一呼吸置いて、彼女は続けた。
「ご承知の通り、私どもが運営いたしますこの『特別適性者縁組支援制度』は、国にとってかけがえのない宝であります皆様のようなダンジョン制圧士の方々が、その活動に専念できますよう、そして、素晴らしい家庭を築き、次代へとその力を繋いでいっていただくために設立されたものでございます」
佐藤は、まるで原稿を読むかのような流暢さで言葉を紡ぎ続ける。
「データによる合理的なマッチングと、家柄や個人の資質を考慮した上で、我々は最良の縁を結ぶお手伝いをさせていただいております。本日のお席が、両家にとって、そして国の未来にとって、実り多きものとなりますことを心より願っております」
淀みなく、それでいてどこか感情の乗らない口上だった。
「それでは、わたくしの役目はここまでとさせていただきます。あとは皆様で、どうぞごゆっくりとご歓談くださいませ」
佐藤はそう言うと、再び深々と一礼し、静かな足取りで個室から退出していった。
仲人という名の監視役がいなくなり、部屋にはわずかな安堵と、新たな緊張感が漂う。その沈黙を破り、会話の口火を切ったのは忠久だった。
「さて、神谷殿。改めまして、今回の件。国のシステムが、娘に素晴らしいご縁を運んできてくれたと期待しておりましてな」
忠久は探るような、それでいて真摯な目で蓮を見つめた。
「私どもとしましては、いずれこの国を背負って立つであろう、志の高いダンジョン制圧士の方に、娘を託したい。そう考えておりました」
彼は少し間を置いてから、言葉を続けた。
「その点、国が運営なされるこの制度は、最も信頼がおけるもの。その制度を通じてご紹介いただいた神谷様であれば、と期待しておるのです」
「恐れ入ります。ですが、私はまだ学生の身。皆様のご期待に沿えるかどうか」
蓮が謙遜すると、今度は母親の美津子が優しく言葉を添えた。
「まあ、ご謙遜なさらないで。神谷様は、大学ではどのようなことを学ばれているのですか? ダンジョンでの活動ばかりでは、お疲れになるでしょう」
「お気遣い痛み入ります。大学では、ダンジョンに関する講義の他に、一般教養として法学や経済学も履修しております。どちらも、この世界で生きていく上で不可欠な知識だと考えておりますので」
蓮の澱みない答えに、忠久はほう、と小さく息を漏らし、美津子は感心したように頷いた。
「素晴らしいですわ。若いうちから、そこまで考えていらっしゃるとは」
「ダンジョン制圧士という職業は、常に危険と隣り合わせ。だからこそ、確固たる信念が必要になる」
忠久が、まるで自分に言い聞かせるように呟く。
「我々が神谷様に期待するのは、単なる戦闘能力の高さだけではない。その力で何を成すか、という気概だ。……失礼、少し、語りすぎてしまいましたかな」
「いえ。勉強になります」
美津子は、柔らかな笑みを浮かべながら、蓮に問いかけた。
「神谷様は、将来はどのようなことをなさりたいとお考えですか?」
「そうですね……」
蓮は少し考える素振りを見せてから、静かに答えた。
「まずは、制圧士として確固たる実績を積むこと。そして、その先にある可能性を広げていくことです。ダンジョンという存在が、この国の社会基盤を支えている以上、その中で自分がどう貢献できるか。それを常に考えております」
「立派な心構えですわ。では、ご家庭については、どのようにお考えですか?」
美津子の質問は、徐々に核心へと近づいていく。蓮は、彼女の意図を察しながら、丁寧に答えた。
「家庭は、人生の土台だと考えております。どれほど仕事で成功しても、帰る場所が安らげないのでは意味がない。互いを尊重し、支え合える関係を築くことが理想です」
蓮の言葉に、美津子は満足げに微笑んだ。忠久もまた、その答えに頷いている。
忠久は満足げに頷くと、ふと表情を和らげ、隣に座る娘に目をやった。
「娘の雅は、高校までは伝統を重んじる女子校で学ばせておりましてな。今は、鳳華女子大学におります。親の口から言うのもなんですが、おかげさまで、誰に出しても恥ずかしくない、素直で器量の良い娘に育ってくれたと自負しております」
(……鳳華女子大学)
蓮は内心で情報を整理した。
(確か、良妻賢母教育の最高峰とされ、上流階級の令嬢たちが集う、現代の花嫁学校……なるほど、徹底している)
蓮は、九条院家の用意周到さに内心で感心しつつ、両親に笑みを返した。
「素晴らしいお嬢様ですね。お父上がそうおっしゃるのもよく分かります」
蓮は少し間を置いてから、丁寧に言葉を続けた。
「もしよろしければ、雅さんはどのようなことに興味をお持ちなのか、お聞かせいただけますでしょうか」
忠久は、蓮の問いかけに満足げな表情を浮かべた。
「雅は、絵画や美術といったものに興味を持っておりましてな。特に日本画に魅力を感じているようで、よく美術館や展覧会に足を運んでおります。また、読書も好きで、古典から現代文学まで幅広く読んでおります」
「それは素晴らしい。教養と感性を兼ね備えた方なのですね」
美津子が、優しく付け加える。
「ええ。雅は、物静かな性格ですが、芯の強い子です。一度決めたことは、最後までやり遂げる。そういう意志の強さを持っておりますの」
蓮は、その言葉を聞きながら、静かに座る雅へと視線を移した。彼女は、両親の言葉に表情を変えることなく、ただ静かに座っている。
(……なるほど。親の言葉を否定することなく、かといって恥じらうこともない。この落ち着きは、相当な訓練の賜物か)
蓮の言葉に、忠久は満足げに頷いた。
その後も、しばらく会話は続いた。大学での講義の話、ダンジョン活動の実情、九条院家の家訓について。時折、美津子が蓮の人柄を探るような質問を挟み、忠久は制圧士としての心構えについて語った。蓮は、彼らの言葉一つ一つを丁寧に受け止め、適切な距離感を保ちながら応答した。
雅は、その間もほとんど口を開かなかった。ただ静かに座り、時折、蓮の言葉に小さく頷くだけ。だが、蓮は気づいていた。彼女の青い瞳が、自分の一挙一動を静かに観察していることに。
やがて、忠久が時計に目をやり、切り出した。
「さて、神谷殿。本日は我々の我儘にお付き合いいただき、感謝いたします。約束通り、我々はこれで失礼させていただきますので、あとは若いお二人で、どうぞごゆっくり」
席についてから、まだ一時間も経っていない。言葉通り、彼らは長居することなく、速やかに席を立つつもりのようだった。
両親が席を立つと、広い個室に蓮と雅の二人だけが残された。静寂の中、庭から聞こえる鹿威しの音が、やけに大きく響く。
蓮は雅の横顔を静かに観察した。両親の前では寡黙だった彼女が、二人きりになった今、どんな言葉を口にするのか。
この女性の本質を、これから知ることになる。




