見合いと嫉妬の行方
九条院雅との見合いの日取りが、数日後に決まった。
蓮は、北条から送られてきた相手のプロフィールを眺めながら、思考を巡らせる。これをどう水谷葵に伝えるか。いや、どう「利用」するかを考えていた。
蓮は寮の自室から、葵に短いメッセージを送った。
『次の作戦会議をしたい。俺の部屋まで来てくれ』
すぐに『了解』とだけ、素っ気ない返事が来た。そのいつも通りの反応に、蓮は口元を緩める。
数分後、部屋のドアが軽くノックされ、葵が姿を現した。ラフな部屋着姿だが、薄手の白い生地は下のキャミソールをかすかに透けさせ、豊かな胸のラインを際立たせている。警戒心のかけらもないその様子は、この部屋が彼女にとっても半ば自分の領域になりつつある証拠だった。
「で、次の作戦って何? また面倒なこと思いついたんじゃないでしょうね」
葵はベッドの縁に腰掛けながら、面白がるような視線を蓮に向ける。
蓮は椅子に深く座り直し、まるでチェスの次の一手を告げるように、落ち着き払った声で切り出した。
「今度、見合いをすることになった」
葵の表情は変わらない。ただ、蓮の言葉を吟味するように、わずかに沈黙が落ちた。
「見合い? あなたが? ……ふふ、面白いことを言うのね」
蓮が黙って自分を見つめ返してくるのを確認すると、葵の口元から笑みが消えた。どうやら冗談ではないことが分かったようだ。
「……本気で言っているの? どうしてあなたが、お見合いなんて」
「担当官から打診があってな。面白そうだから、付き合ってやることにした」
蓮は肩をすくめてみせる。その言葉とは裏腹に、彼の目には面白がるような色が浮かんでいた。葵は、その真意を測るように目を細める。
「断ることもできたでしょうに。もしかして、急に結婚でもしたくなった?」
「まさか。国が有望な適性者と有力な家系を結びつけようとする、例の政策の一環だ。無下に断れば、俺の経歴に傷がつく。実質、強制だよ。そこに俺個人の意思が介在する余地はない」
「……国家様からのご命令、ね」
葵は冷ややかに呟いた。その声には、個人の意思を軽んじるシステムへの、静かな反発が滲んでいた。
「それで? その国が押し付けてきたお相手は、どこのどなたかしら。せいぜい、家柄だけが取り柄の、退屈な箱入り娘じゃないといいけど」
努めて冷静に、探るような視線を蓮に向ける。その瞳の奥に、焦りの色がわずかに揺らいだのを、蓮は見逃さなかった。
「退屈かどうかは、会ってみてからのお楽しみだな」
蓮はそこで初めて、口元に楽しげな笑みを浮かべた。
「相手は、九条院家の三女だ」
その家名に、葵は思わず息を呑んだ。
「……九条院家、ですって?」
予想以上の大物の名前に、一瞬、葵の表情からいつもの余裕が消える。だが、それも束の間だった。彼女はすぐに唇の端を吊り上げると、何かを思い出したように、わざとらしく頷いてみせた。
「ああ、そういえば。三女がいると噂で聞いたことがあるわね。鳳華女子大学に通う、現代のやまとなでしこ……だったかしら。あなたには勿体ないくらい、完璧なお嬢様だそうじゃない」
蓮は、楽しそうにその言葉を受け止めた。彼女が必死に平静を装っていることなど、お見通しだった。
「それで、どうするつもり?……その完璧なお嬢様を前にして、いつものように値踏みでもするつもり?」
その挑発的な視線を受け止め、蓮は不敵に笑った。
「値踏み、か。面白いことを言う。まあ見ていろ」
蓮は不敵に笑うと、真剣な口調で続けた。
「だがその前に、前提を共有しておく。まず、この見合いからは逃げられない。逃げれば俺の経歴に傷が付き、成り上がりの道が閉ざさされてしまうからな。何事もなければ、婚約まで進むだろう」
その淡々とした口調に、葵は眉をひそめる。
「……本気で受け入れるつもり? 国に決められた相手と、そのまま結婚するとでも?」
「現状、俺に拒否権はない。腹立たしいがな」
蓮の声に、初めて苛立ちの色が混じる。
「こういう理不尽を覆すために、社会的な力がいるんだろう。俺たちのやろうとしていることは、そのためのものだ。これは、その覚悟を試されてるのかもしれないな」
蓮はそこで言葉を切り、再び葵の目を真っ直ぐに見つめた。
「だが、悪いことばかりじゃない。むしろ、好機だ」
彼の声に、いつもの自信が戻る。
「九条院家の力は、今の社会でも無視できない。この三女を手玉に取り、九条院家を後ろ盾にできれば、俺たちが取りうる選択肢は格段に増える。これは政略だ。俺が主導権を握る」
その言葉は、明確に葵に向けられたものだった。これはお前との関係を揺るがすものではない、と。これは、俺たちの野望のための駒を増やす行為なのだ、と。蓮は、そう無言で伝えていた。
葵はしばらく黙って何かを考えていた。やがて、彼女はふっと息を吐き、腕を組む。
「……ずいぶん、自信があるのね。そのお嬢様を、そこまで手玉に取れると?」
「さて、どうだろうな」
蓮は楽しそうに肩をすくめた。
「だが、お前が心配するようなことにはならないさ。これはビジネスだ」
「ビジネス、ね。そのお嬢様が、あなたの思い通りになるような、つまらない女だといいわね」
葵は棘のある言葉で、なおも食い下がる。蓮がその『九条院雅』という女をどう見ているのか、その本心を探るために。
「つまらない女かどうかは、会ってみてのお楽しみだ。だが、もし彼女が本当に『完璧』なら、それはそれで面白い」
蓮は葵の目をじっと見つめ、挑戦的に笑った。
「完璧なものほど、壊してみたくなるだろう?」
その言葉に、葵は一瞬息を呑んだ。彼の歪んだ本質が、垣間見えた気がしたからだ。同時に、その言葉が自分にも向けられているような気がして、背筋がぞくりと粟立った。
「……最低ね」
「褒め言葉と受け取っておく」
蓮は満足そうに頷くと、葵に向き直った。
「とにかく、これは決定事項だ。だが忘れるなよ、葵。俺の隣に立つのは、お前だけだ。九条院家は、俺たちの野望を達成するための道具に過ぎん」
強い視線でそう告げられ、葵はしばらく黙った後、ふいと顔をそむけた。耳がわずかに赤い。しかし、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべ、蓮に向き直った。
「へぇ。それって、あなたの『第二夫人』にでもなれっていう、プロポーズのつもり?」
この国では、ダンジョン適性を持つ優秀な男性は、複数の妻を持つことが公に認められている。第一夫人が正妻として家を取り仕切り、第二夫人以下はそれに次ぐ立場となる。葵の言葉は、その制度を皮肉ったものだ。
「だとしたら、受けてくれるのか?」
蓮が面白そうに切り返すと、葵は心底呆れたようにため息をついた。
「冗談じゃないわ。誰があなたの二番目になんてなるものですか」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼女は立ち上がった。
「せいぜい、そのお嬢様を上手くエスコートなさい。私たちの、目的のために」
「ああ、もちろんだ」
「もししくじって、私たちの足を引っ張るようなことになったら、分かっているでしょうね?」
最後に鋭い視線を投げかけ、葵は部屋を出て行った。
ドアが閉まる音を聞きながら、蓮は静かに息を吐いた。
(少し、やりすぎたか)
あのプライドの高い彼女のことだ。内心、穏やかではあるまい。だが、これでいい。彼女は、俺が手綱を緩めればどこへ飛んでいくか分からない猫のような女だ。時折こうして、俺の腕の中にいることを思い出させてやる必要がある。
九条院家という大きな駒を手に入れるためには、まず足元を固めなければならない。共犯者である彼女との絆は、何よりも優先されるべきだった。
◇
自分の部屋に戻る廊下を、葵はゆっくりと歩いていた。
(第二夫人、ね……)
先ほど自分が口にした言葉を思い出し、葵は自嘲の笑みを浮かべた。最悪の軽口だった。あの男は、きっとすべて見抜いている。自分の動揺も、苛立ちも、そして、隠しきれない嫉妬心も。
自室のドアを開け、鍵をかける。静まり返った一人きりの空間で、鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、悔しさにわずかに唇を噛む、見慣れない自分の顔だった。
面白いはずのゲームの盤面が、ぐにゃりと歪む。いつの間にか、自分もそのゲームの「駒」の一人に過ぎなかったのだと、突きつけられた気分だ。彼が用意した『共犯者』という名の、快適な檻の中で、踊らされていたに過ぎない。
「……なるほど、ね」
だが、鏡の中の瞳の奥には、確かな闘志の炎が灯っていた。
葵の口元に、ふ、と自嘲的な笑みが浮かぶ。そして、その笑みはすぐに、獰猛なものへと変わった。
(いいじゃない。まんまと駒にされたって、盤面をひっくり返すことはできる)
神谷蓮が、九条院雅を手に入れるというなら、それでもいい。
けれど、彼の隣で最終的に笑うのは、誰か。彼の心を本当に支配するのは、誰か。
「新しいゲームの始まり、ね」
鏡の中の自分は、いつもの不敵な笑みを取り戻していた。
それは、蓮に向けた宣戦布告であると同時に、自分自身にかけた、新たなゲームの開始を告げる、スリリングな呪いでもあった。




