都合のいい関係
演習の翌日。蓮は4限目の講義が終わると、スマートフォンを取り出した。
画面に表示された連絡先リストを数回スクロールし、「早瀬由香」の名前をタップする。
メッセージアプリが開く。既読のついた過去のやり取りが並んでいる。どれも短く、事務的な文面ばかりだ。
蓮はキーボードを軽快に叩いた。
『今日もいつもの場所でトレーニングしようか。夕方で』
送信。
既読がつくまで、わずか数秒。そして即座に返信が届く。
『はい、お願いします』
蓮は画面を閉じ、スマートフォンをポケットにしまった。
(この一か月で、随分と扱いやすくなった)
最初の数回は、彼女を説得するのに多少の手間がかかった。だが今では、メッセージ一つで完璧に機能する。
週に一度、ちゃんとトレーニング指導もしてやっている。早瀬の体力は実際に向上しており、彼女も成果を実感している。契約は履行している——少なくとも、表面上は。
それに、俺が学内ランキング5位に入ったことも、彼女は知っているはずだ。召喚師という肩書きだけでなく、実力も証明されている。
「便宜を図る」という約束の信憑性は、確実に上がっている。
(実に都合がいい)
蓮は廊下を歩きながら、内心で満足げに笑った。
* * *
夕方。第三体育館の個室トレーニング室。
蓮が扉を開けると、早瀬は既に到着していた。黒いスポーツブラとレギンスというトレーニングウェア姿で、マットの端に立っている。束ねた黒髪が、室内の照明を受けて艶やかに光る。
「お疲れ様です」
早瀬が小さく頭を下げる。その声には、感情の起伏がほとんどない。
蓮は軽く頷き、バッグを床に置いた。
「この前の実習で、前より動けるようになった気がします。神谷君の指導のおかげです。ありがとうございます」
早瀬が報告する。その言葉には確かに感謝の響きがある。嘘ではないのだろう。
「そうか」
蓮は短く返す。
「じゃあ今日も続けよう」
早瀬は小さく頷いた。
(一応、契約は履行している)
蓮はトレーニングメニューを組み立てながら、冷静に思考する。
週に一度、1時間。効率的なトレーニング指導を行う。早瀬の身体能力は確実に向上している。彼女が最初に抱いていた「体力面で落ちこぼれる」という不安は、実際に解消されつつある。
それが、彼女を繋ぎ止める理由の一つだ。
もう一つは、俺自身の実績。学内ランキング5位という客観的な数字が、「便宜を図る」という約束に説得力を与えている。
(完璧な構図だ)
トレーニングが始まった。
蓮はフォームを確認し、的確に修正を加えていく。スクワットの姿勢、体幹の使い方、重心の移動。一つ一つの動作に無駄がないよう、効率的なメニューを指示する。
早瀬は真面目に取り組んでいる。汗が額に浮かび、呼吸が荒くなっていくが、弱音は一切吐かない。
時折、蓮が腰や肩に触れてフォームを修正する。早瀬の身体は一瞬だけ強張るが、すぐに力を抜く。もはや、この程度の接触に動揺することはない。
(慣れたものだ)
1時間が経過した。
早瀬は肩で息をしながら、タオルで汗を拭っている。頬が紅潮し、トレーニングウェアは汗で肌に張り付いている。
蓮は冷静に彼女を観察した。
華奢な身体。整った顔立ち。控えめな雰囲気。
だが、俺が感じるのは性的な魅力ではない。それは、完璧に機能する「道具」を眺める時の、冷徹な満足感だった。
「今日はここでいいか?」
蓮が短く言う。
早瀬の手が、一瞬だけ止まった。
そして、小さく頷く。
言葉は交わされない。もはや、説明は不要だった。
(トレーニング室、準備室、更衣室の奥……色々な場所を使ってきた)
蓮は内心で振り返る。
最初は、この個室トレーニング室だった。だが、人の出入りが増える時間帯もある。リスクを分散するため、場所を変えるようになった。
今日は、多目的トイレがちょうど空いている。
蓮は先に部屋を出た。早瀬が数秒遅れて続く。
廊下を歩く。すれ違う学生たちは、トレーニングウェア姿の早瀬と、ジャージ姿の蓮を一瞥するが、特に気に留める様子はない。この時間帯、トレーニング後の学生が廊下を歩くのは珍しくない。
体育館近くの多目的トイレ。
蓮が扉を押し、中を確認する。誰もいない。
蓮が先に入る。早瀬が続く。
ドアが閉まる。ロックの音。
狭い密室。白い壁、洗面台、鏡。清潔だが無機質な空間。
蓮は壁に寄りかかり、何も言わずに早瀬を見た。
早瀬はその視線を理解する。
一瞬だけ、躊躇するように視線を落とす。だが、すぐに覚悟を決めたように、淡々と蓮の前に膝をつく。
もはや指示は不要だった。
早瀬の手が、蓮のジャージのウエストに伸びる。その動作は慣れており、迷いがない。
蓮は目を閉じ、身を任せた。
早瀬が「作業」を始める。
その手つきは正確で、無駄がない。表情には何の感情も浮かんでいない。恐怖も、嫌悪も、諦めすらも。ただ無表情で、目の前の作業をこなしている。
まるで、講義のノートを取るのと同じような、機械的な動作。
蓮は目を閉じたまま、頭の中で明日のダンジョン攻略のことを考えていた。
第一階層の効率的なルート。召喚獣の配置。葵との連携のタイミング。
(早瀬は、実に優秀な「道具」だ)
蓮は冷徹に結論づける。
(召喚獣と同じだ。指示を出せば従う。それ以上でもそれ以下でもない)
数分が経過する。
ふと、葵の顔が脳裏に浮かんだ。
濃い青のボブカット。冷めた瞳。挑発的な笑み。
(あの女なら、こんな風に簡単には屈しない)
蓮の口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。
(だからこそ、価値がある)
水谷葵を完全に俺のものにする。
そのためなら、この程度の「つなぎ」など、いくらでも利用する。
数分後。
蓮は小さく息を吐いた。
早瀬は何も言わず、立ち上がる。洗面台に向かい、水を出す。口をゆすぐ。その動作も、まるでトレーニング後に汗を拭うのと同じような、淡々としたもの。
鏡に映る早瀬の顔。
虚ろな目。どこか遠くを見ているような、焦点の合わない視線。
だが、蓮はそこに何の興味も抱かなかった。
「今日はこれでいい」
蓮が告げる。
早瀬は小さく頷いた。
「ありがとうございました」
その言葉すら、感情が抜け落ちている。まるで、店員が客に言う定型文のように。
蓮は先にトイレを出た。
廊下を歩く。すれ違う学生たちの声が、遠くから聞こえる。
数十秒後、早瀬もトイレから出てくるだろう。時間をずらす。これも、リスク管理の一環だ。
蓮はスマートフォンを取り出した。
画面に、新着メッセージの通知。
水谷葵からだった。
『明日、装備のメンテナンス行く?』
軽い文面。絵文字は使わないが、彼女らしい飄々とした雰囲気が伝わってくる。
蓮は口元に笑みを浮かべた。
『ああ、行くよ』
返信を送る。
(明日は葵と過ごせる)
蓮は廊下を歩きながら、内心で満足げに思う。
(あの女との時間は、早瀬のような「作業」とは違う)
水谷葵。
あの飄々とした態度、本心を見せない性格、社会の欺瞞を見抜く鋭い知性。
あの女を完全に俺のものにするまで、このゲームを楽しんでやる。
夕焼けの光が、廊下の窓から差し込んでいる。
オレンジ色に染まった廊下を、蓮は満足げな表情で歩いていった。
背後で、トイレの扉が開く音がした。
蓮は振り返らなかった。




