歪んだ癒やし
ある日の講義が終わった直後、蓮のタブレット端末が短く震えた。ディスプレイには、大学の管理システムからの通知が表示されている。
『辞令:『戦場精神衛生学演習』の演習パートナーが決定しました』
その無機質なタイトルをタップすると、さらに詳細が表示された。相手は聖アレイア女子学院の2年、名前と学生番号、そして演習場所として指定された個室の番号が記載されているだけだ。蓮はそれを一瞥すると、指先が少し面白がるように通知をスワイプし、カバンに端末をしまった。
* * *
指定された演習室は、学生寮とは別の、講義棟の最上階にあった。防音仕様の重いドアを学生証で解錠し、中に入る。そこは、簡素なベッドと小さなローテーブルが置かれているだけの、殺風景な空間だった。壁には監視カメラこそないが、入退室のログがすべて記録されていることは言うまでもない。
部屋には、すでに相手の女子学生が待っていた。大学生には珍しいその制服は、彼女が聖アレイア女子学院の生徒であることを示している。清楚な白いブラウスと紺色のスカートに身を包んだ彼女は、ゆるいウェーブのかかった栗色の髪を片側に流した、おっとりとした雰囲気の美人だった。彼女は蓮の姿を認めると、人懐っこい笑みを浮かべて立ち上がった。
「神谷蓮くん、ですよね? 噂は聞いていますよ、期待の新人さん。わたしは2年の中野沙織です。よろしくお願いしますね。……うふふ、沙織お姉さんに何でも任せて」
(最初は丁寧語だったのが、急にくだけた口調に……。意図的に距離を詰めて、主導権を握ろうというわけか)
その口調は親しげだったが、蓮を値踏みするような視線は隠されていない。彼女が、自分の希少ジョブや入学時の成績を事前に調べ上げた上で、ここにいることは明らかだった。
「よろしくお願いします」
蓮が当たり障りなく返すと、沙織は満足げに頷き、手にしたタブレットでシラバスを指し示した。
「それじゃあ早速始めよっか。今日は、どのカテゴリの演習にする?」
「カテゴリBでお願いします」
蓮が事務的に答えると、彼女は「カテゴリBは身体的緊張の緩和ね。まずは肩から揉んであげるわ」と慣れた手つきで蓮の肩に触れ、ベッドに座るよう促した。そのごく自然なボディタッチに、彼女がこの演習を何度もこなしてきたことが窺える。
蓮がベッドに腰を下ろすと、沙織はその後ろに回り込み、彼の両肩をゆっくりと揉み始めた。その手つきは驚くほど滑らかで、的確に凝りのポイントを捉えている。だが、それはスポーツマッサージのような実用的なものではない。指の動き一つひとつが、明らかに男性を喜ばせるために最適化されていた。
「ダンジョン実習はどう? 最近始まったと思うけど、1年生は慣れるまで大変だよね」
「ええ、まあ。大変ですけど、いい経験になります。実習以外でも、個人的に潜ったりしてますし」
蓮が事もなげに言うと、沙織は肩を揉む手を一瞬だけ止め、感心したように息を呑んだ。その瞳の奥で、(やっぱりこの子は当たりだ)という計算高い光が強く輝く。
「え、すごーい! 1年生なのに、もう個人で潜ってるんだ。やっぱり、噂通りの期待の新人さんなんだね。……そんな頑張り屋さんには、お姉さんが特別サービス、してあげようか?」
吐息がかかるほど近くで囁かれ、蓮は一瞬、純粋な1年生がするように目を丸くして見せた。それから少し照れたように、しかし期待を隠せないといった表情で彼女を振り返る。
「え、いいんですか? 沙織先輩の『特別』、ぜひお願いしたいです」
その、あまりにも分かりやすい反応に、沙織は内心で(ふふ、可愛い。やっぱり男の子ね)と、完全に彼を御しやすい年下だと判断した。
「うふふ、いいよ。お姉さんに任せて。……このブラウス、少し動きにくいから脱いじゃうね。その方が、もっとリラックスさせてあげられるから」
そう言うと、沙織は蓮の目の前で、ゆっくりとした仕草で自らのブラウスのボタンに手をかけた。一つ、また一つとボタンが外されていく。やがて白いブラウスがはだけると、その下から現れたのは、体のラインにフィットした黒いキャミソールだった。彼女は脱いだブラウスを丁寧に畳み、ベッドの端に置いた。
さらに沙織は、キャミソールの肩紐に手をかけた。「これも、もっと密着感を出した方が効果的なのよね……」そう言い訳のように呟くと、キャミソールを少しずらし、その下の黒いブラジャーのホックを外した。ブラジャーを抜き取り、キャミソール越しに柔らかな感触が強調される。彼女は再びキャミソールを整える。
「……じゃあ、こっちに横になって?」
沙織は艶然と微笑み、蓮が言われるがままに横になると、彼女は彼の頭を優しく持ち上げ、自らの豊かな胸の谷間に、その顔をうずめさせた。
「これで、全身の力が抜けるでしょ?」
薄いキャミソールの布1枚を隔てて、ブラウス越しよりもずっと直接的に伝わってくる柔らかな感触と肌の温もり。ふわりと漂う甘い香りに包まれながら、彼女はゆっくりと体重をかけ、蓮の顔に自らの胸を押し付けてくる。
(……悪くない)
シラバスという建前を、実に巧みに利用している。そして率直に言えば、この感触は心地良かった。
だが、沙織はそこで止まらなかった。
しばらくの後、彼女はゆっくりと身を離すと、今度は蓮の隣にさらに密着するように座り直した。吐息がかかるほどの距離で、その柔らかな身体のラインが蓮の腕に押し当てられる。
「ねえ、蓮くん……。もっと、特別な癒やし、してあげようか?」
囁くような声で言いながら、沙織の手が蓮の太ももに置かれた。その指先がゆっくりと、しかし明確な意図を持って内側へと滑っていく。蓮の視線は自然と下へ向けられる。目の前には、キャミソール越しに強調された彼女の胸元と、太ももに這う白い指先。
(手慣れているな)
蓮は内心でそう判断しながらも、初心な1年生らしく、期待と戸惑いの混じった表情を浮かべてみせる。その演技に、沙織は満足げに微笑んだ。
「うふふ、素直でいい子ね。……じゃあ、こっちに座ってて?」
沙織は蓮をベッドの端に座らせると、その前にゆっくりと跪いた。上目遣いに蓮を見上げる瞳には、計算された色気と、獲物を見定めた捕食者の光が宿っている。その視線が、蓮の身体のある一点に注がれた。
「シラバスの範囲、少し超えちゃうかも……。でも、期待の新人さんには、もっと深い癒やしが必要でしょ?」
艶然とした笑みとともに、沙織の手が伸びてくる。
(彼女の思惑は分かっている。だが——こんな役得、楽しまないのは損だ)
――そして、時間が流れた。
◇
沙織はテーブルに置いてあったペットボトルの水を手に取り、静かに口に含んだ。ゆっくりとゆすぎ、そのまま喉を鳴らして飲み込む。その一連の仕草には、どこか妖艶な色気が漂っていた。彼女の頬は上気し、瞳は潤んでいる。蓮を見つめるその表情には、確かな達成感と、自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
(……なるほど。これが経験を積んだ聖アレイア生の奉仕か。予想以上だったな。打算でやっているにしては、十分に満足できる内容だった)
ちなみに、これが2度目となる演習だった。初回の相手は、シラバスの規定通りに対話によるカウンセリングと、ごく軽いマッサージを行っだけの、真面目そうな女子学生だった。
だが、目の前の女は明らかに違う。
(聖アレイアの学生気質は、大きく4つに分類されるという。国家への盲目的な信奉者、安全を求める現実主義者、そして受動的な順応者……。だが、彼女はそのどれでもなかった。あれは疑いようもなく、最も野心的な『階級上昇者』のやり方だ。自らの性的価値を武器に、将来有望な男に投資し、最高の寄生先を確保するための行動。実に結構なことだ)
沙織は満足げに小さく微笑むと、蓮に語りかけた。
「どうだった、蓮くん? 気持ちよかった?」
「……まあ、悪くなかったな」
(本当は、かなり満足したのだが、それを認めてやる必要はない)
蓮の返答は、それまでの初心な口調とは明らかに違っていた。淡々とした、感情の乗らない声。本心を隠し、わざと冷淡な態度を取る。沙織の笑顔が、一瞬だけ硬直する。
「そ、そう。よかった……」
沙織は戸惑いを隠しきれない様子で、不安げに蓮の顔を窺った。だが、蓮はそれ以上何も言わず、ただ静かに服を整えている。
規定の演習時間が終わると、沙織は「あら、もう時間。続きは、また今度かな?」と、少し強引に明るい声を作って、名残惜しそうに身を離した。彼女はすかさずスマートフォンを取り出す。
「もしよかったら、連絡先……」
だが、蓮はそれを穏やかに、しかし決定的に遮った。ゆっくりと身を起こした彼の表情から、先ほどまでの初心な色は消えている。
「いえ、演習は演習ですから」
(寄生先を探す目だ。まあ、美人だし奉仕の技術も悪くなかった。だが——俺が本当にコレクションしたいのは、もっと特別な女だ。それに、この手の野心家は都合よく使うにしても、常に見返りを計算し、面倒な要求を重ねてくる。彼女では、その座には届かない)
蓮はただ、事務的な口調で続けた。
「単位のためにお互い頑張りましょう、先輩」
その言葉に、沙織の笑顔が完全に凍り付いた。自分が完全に手玉に取られ、奉仕だけさせられたことに気づき、その美しい顔が屈辱に歪む。しかし、彼女はすぐさま貼り付けたような笑みに戻すと、「……ええ、そうね」とだけ返して、足早に部屋を出ていった。
(ふん、ご苦労なことだ)
1人になった部屋で、蓮は満足のため息を漏らした。
これが、防衛大学校で週に1度行われる必修科目『戦場精神衛生学演習』。ダンジョン攻略がもたらす精神的負荷を、男女ペアによる相互ケアを通じて緩和・克服するための、最新の精神衛生学に基づいた実践的演習とされている。
だがその本質は、ダンジョン活動で溜め込んだ男子学生のストレスを安全に発散させるための『ガス抜き』――男子にのみ与えられた優遇措置であり、同時に「女は男に奉仕するものだ」という歪んだ価値観を骨の髄まで叩き込むための、巧妙でくだらない洗脳装置だ。
だが、蓮にとって、それは最高に利用価値のあるシステムに他ならなかった。ご丁寧なことに、この演習のパートナーは毎回大学のシステムがランダムに割り当てることになっている。
(くだらない。だが、実によいシステムだ。カリキュラムの一部という体裁で毎回違う女子学生に奉仕してもらえるのだ。こんな役得、存分に楽しまないともったいないな)
システムの意図を完全に理解した上で、それを自らの快楽と利益のために徹底的に遊び倒してやる。蓮は、口の端に愉悦の笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。
* * *
演習室を出て無機質な廊下を歩いていると、向かいから見慣れた姿が現れた。水谷葵だ。彼女も、別の演習室から出てきたところらしかった。その表情は硬く、美しい顔には隠しきれない嫌悪の色が浮かんでいる。
「お疲れ様」
蓮が声をかけると、葵は一瞬驚いた顔をし、すぐにいつもの皮肉っぽい笑みを浮かべた。そして、探るような目で蓮を見る。
「……あなた、変なことやってないでしょうね?」
「シラバスの範囲内だよ。まあ、あの公式活動リスト自体、ずいぶんと解釈の幅が広い代物だがな」
シラバスの範囲内という、全くの嘘とは言えないしかし限りなく嘘に近い回答を、蓮は堂々と口にした。
そして、肩をすくめてみせる。「カテゴリBの『身体的緊張の緩和』も、相手次第ではただのマッサージじゃ終わらない」
その言葉に、葵は忌々しげに顔を歪めた。
「私は、そんなことまで要求されたことはないわ。シラバスを盾にすれば、最低限の接触以外は拒否できるはずよ。……本当に、最低のシステムね。単位のためじゃなければ、やってられないわ。でも、あなたみたいな人は、こういうのも楽しんでるんでしょう?」
「役得は最大限利用する主義だ」
蓮は、彼女の期待を裏切るように、事実をそのまま口にした。そして、続ける。
「だが、お前が他の男に奉仕するのは面白くない」
「……!」
予想外の言葉だったのだろう。葵は一瞬、息を呑んだ。その白い頬が、わずかに赤らむのを蓮は見逃さなかった。彼女はすぐに俯いて、長い前髪で表情を隠してしまう。
「……善処するわ」
絞り出すような、小さな声だった。
2人の間に、気まずいようで、どこか甘い沈黙が流れる。この歪んだ制度の中で、互いが互いにとって特別な存在であることを、この短いやり取りだけで再確認するには十分だった。
(……そうだ。それでいい)
蓮は、去っていく葵の後ろ姿を見送りながら、胸の奥で黒い独占欲が渦巻くのを感じていた。
(水谷葵は、コレクションの第1号候補として俺が選んだ女だ。あの気高さも、美しさも、俺だけが独占し、味わうことを許される。他の男が、たとえ演習という名目であっても彼女に触れるのは、正直、虫唾が走る)
だが、と彼は自嘲する。
(今の俺は、それを止める力も権限も持たない、ただの1学生に過ぎない。……だからこそ、成り上がる必要がある。誰にも文句を言わせない、絶対的な力と地位を手に入れる。そのためなら、俺はどんな手段も厭わない)
その決意が、彼の瞳に冷たい光を宿らせていた。




