カフェテリアの価値観
第四国立ダンジョン防衛大学校、通称「第四防大」。その広大な敷地には、国の潤沢な予算を投じて建設された、近代的で壮麗な校舎が立ち並ぶ。日本の未来を担うダンジョン制圧士を育成する最高学府として、その設備は文字通り世界最高水準を誇っていた。
初のレベルアップから数日後の昼休み。神谷蓮は、メインディッシュの乗ったトレイを手に、キャンパスにいくつもある学生食堂の中でもひときわ規模の大きい、中央カフェテリアを歩いていた。
ガラス張りのモダンな内装からそう呼ばれるこの場所は、高い天井まで届く窓から柔らかな光が差し込む開放的な空間が特徴だ。昼時ともなれば、多くの学生の活気で満ちあふれる。武骨な装備の話で盛り上がる男子学生のグループや、熱心に戦術書に読み耽る学生の姿。男女が談笑するテーブルでは、ある女学生がセルフサービスコーナーからお茶を運び、かいがいしく配る姿が見て取れた。
ここは単なる食事の場ではない。講義を終えた学生たちが集い、情報交換を行い、あるいは束の間の休息を貪る、大学生活の中心地とも言える場所だった。
蓮が手にしている今日のランチも、和洋中からエスニックまで揃う豊富なメニューの中から選んだものだ。味も量も、そこらのレストランに引けを取らない。これも、将来有望な学生たちへの国家からの手厚い投資の一環なのだろう。
そんなことを考えながら席を探していると、少し離れたテーブルから快活な声が飛んできた。
「よう、神谷! こっちこっち!」
声の主は、犬井健人だった。蓮とは受けている講義がほぼ同じで、こうして昼食を共にすることも多い、数少ない友人の1人だ。蓮が彼の向かいの席に腰を下ろすと、犬井は何か面白いものを見つけたように目を輝かせ、身を乗り出してきた。
「おい蓮、マジかよ! お前、あの水谷葵とパーティ組んだって本当か?」
その声は、周囲の喧騒の中でも妙によく通った。近くのテーブルにいた男子学生たちの間で、さざ波のように視線と囁きが広がる。
「まあ、そんなところだ」
蓮が曖昧に返事をすると、犬井はテーブルを叩いてさらに興奮した。
「『そんなところ』ってお前なあ! あの水谷だぞ!? どういう手を使ったんだよ、教えろって!」
犬井は心底不思議そうに、そして少しの羨望を滲ませて蓮の顔を覗き込む。周囲から突き刺さる、羨望や嫉妬が混じった視線も無理はなかった。入学以来、その容姿と快活な性格で常に人の輪の中心にいる彼女は、SNSでも多くのフォロワーを抱える有名人でもある。誰にでも人当たり良く振る舞う一方で、どこか飄々として本心を見せない。そんな水谷葵という存在は、この学内の情報に明るい多くの学生たちの間では、どこか自分たちとは縁遠い特別な存在として、うっすらと認識が共有されていたのだ。
「別に、大したことじゃない。たまたまそういう機会がめぐってきただけだ」
その時だった。
「神谷くん、犬井くん、お疲れ様です」
凛とした、しかし柔らかさを感じさせる声が、2人の会話に割って入った。声のした方に目を向けると、同じクラスの女子学生が3人、トレイを持って立っていた。
蓮は持ち前の人当たりの良さで講義の合間に言葉を交わすうち、このようにタイミングが合えば食事を共にする程度の関係性を築いていた。
1人は明るい茶髪のミディアムヘアで、いつも笑顔の多い社交的な雰囲気の園田麻衣。
もう1人は地味な黒髪セミロングにメガネをかけた、控えめな小野寺芽依で、最初のダンジョン実習で同じパーティを組んだ。
そして3人目は、黒髪をポニーテールにした、背筋の伸びた真面目な優等生タイプの夏目椿だった。
「ああ、もちろん。どうぞ」
蓮が頷くと、3人は嬉しそうに微笑んで、犬井の隣や向かいの席に腰を下ろした。
先ほどの2人の会話が聞こえていたのか、あるいは単に気づかなかったのか、社交的な園田がごく自然に新しい話題を口にした。
「最近、やっと実習にも慣れてきたよね」
その言葉に、控えめな小野寺も深く頷いた。
「うん、そうだよね。最初は正直、怖かったけど、だんだん自分にもできることがあるんだなって思えるようになってきた」
「そうそう。怖がってばかりもいられないしね。私たちも、選ばれた者としての責任を果たさなくちゃ」
園田がそう決意を口にした後で、ふっと息をついた。
「でも、ああいう緊張感の中にずっといると、少し疲れちゃうよね」
「それはあるね」
小野寺が柔らかく微笑んで、続けた。
「だから、私は『生活デザイン論』の時間が、最近すごく好きで」
「あー、あれな」
と犬井が口を挟んだ。
「女子だけ必修のやつだろ? 実際、どんな内容の講義なんだ?」
犬井の素朴な疑問に、真面目な優等生タイプの夏目が目を輝かせて答えた。
「それが、本当に素敵なんですよ! 座学だと、将来のパートナーのための資産管理論や栄養学も学びますし、実習だと、華道や茶道みたいな伝統的なお稽古もあるんです。女子力が磨かれるって感じで、すごく充実してます」
「へぇ、すげえな」
犬井が素直に感心すると、夏目は誇らしげに頷いた。
「はい! あんなに手厚い講義を受けられるなんて、本当にありがたいことだと思います。卒業する頃には、きっと、どんな方の隣にいても恥ずかしくない、立派な奥さんになれるんじゃないかなって」
彼女はそう言って、ふふ、と柔らかく微笑んだ。
「はは、女子も色々頑張ってるんだなあ」
犬井が感心したように言うと、小野寺は一瞬だけ視線を落としてから、静かに応じた。
「そうですね」
そして、少しだけ遠い目をして、個人的な想いを付け加えるように続けた。
「実は私、本当は早くに結婚して子供も欲しいなって思ってたんですけどね……。けど私たちダンジョン制圧士は、ダンジョン活動の義務があるので25歳までは産めませんし。まあ、そういうものですから……仕方ないですよね」
すると、夏目が明るく言葉を継いだ。
「でも、それも国を守る大事な役目の一部だよね! 私たち女性だからこそできる、貢献の形だと思うな」
小野寺は彼女の言葉に、小さく「……そうだね」とだけ返した。
彼女たちは、何の悪意もなく、純粋な善意と常識としてこの会話を続けている。蓮は黙ってその会話を聞きながら、カトラリーを動かしていた。
「そういえば」
と、不意に園田が声を潜めた。
「私の高校の同級生で、適性が出たのにダンジョン制圧士にならないって言い張ってた子がいてさ。信じられる?」
その言葉に、犬井が驚いた声を上げた。
「え、マジで? そんな奴いるんだ。俺の高校にはいなかったな」
すると今度は、控えめな小野寺が珍しく眉をひそめて続けた。
「私の学校でも何人かいるって聞いたことあります。中には女子もいましたね。せっかく国のために貢献できる機会をいただいたのに……」
園田が、いつもの明るさを潜めて声を落とした。
「そうなの……。それで結局、その子、ご両親からほとんど勘当みたいになっちゃったらしくて……」
「え、本当?」
夏目が驚いたように声を上げた。
「でも、それは仕方ないと思います。適性があるのに活かさないなんて、やはり『女性らしい献身性』に欠けていると思われても、仕方がないですよね」
彼女の真摯な口調が、この世界の価値観の深い浸透を物語っている。
「まあ……そうなっちゃうよね」
小野寺は、一瞬だけ箸を持つ手を止めてから、淡々とした口調で相槌を打った。
一連の会話の間、蓮はほとんど口を挟まなかった。ただ静かに話を聞き、時折穏やかに相槌を打つだけ。
会話が一段落したとき、ふと小野寺がカフェテリアの壁に設置された巨大なディスプレイを見上げた。
「あ、見て、1年生の学内ランキングが更新されてる。ええと……」
園田が、自分の名前を探すようにディスプレイに視線を走らせていたが、不意に信じられないものを見たかのように、その動きを止める。
「……え、ちょっと待って」
呆然と呟かれたその言葉に、他のメンバーもディスプレイに顔を向けた。そして、次の瞬間、テーブルが驚きに包まれた。
「ご、5位に神谷さん……!? それに、6位が水谷さん……!?」
普段は控えめな小野寺が、裏返った声でランキングの上位を読み上げる。犬井が弾かれたように蓮の方を振り返った。
「はあ!? おい蓮、お前ら学年トップ10入りしてんのかよ!」
興奮してテーブルを叩く犬井に対し、蓮は特に表情を変えることもなく、ただスープを一口すすっただけだった。
「騒ぎすぎだ。ただの学内、それも1年だけのランキングだろう」
彼のあまりに落ち着いた反応に、逆に全員が言葉を失う。
「ただのって……お前なあ!」
「でも……」と、社交的な園田が珍しく遠慮がちに口を挟む。
「すごいことですよ。私たち、まだ実習が始まったばかりで、みんな横一線のはずなのに……」
「ああ、そうだな」蓮はあっさりと頷くと、淡々と続けた。
「とはいえ、これは学内ランキングだ。公式の日本ランキングで見れば、俺たちはまだ最下層にいる。まだ始まったばかりだからな」
ランキングには2種類ある。ダンジョン固有のシステムにより、全適性者が生涯に倒したモンスターの合計活性値が自動的に集計され、全世界に公開されている「公式ランキング」。そして、学内ランキングのような「派生ランキング」は、その差分データを用いて短期間の成長を可視化するもので、企業のスカウトや学内評価に影響する。どちらにも意味はあるが、今はまだ全てが始まったばかりだ。
その冷静な物言いに、周囲は一瞬言葉を失う。しかし、犬井が「いや待てよ!」と声を張り上げた。
「謙遜しすぎだろ! 確かに公式ランキングじゃまだ下の方かもしれないけどさ、学内ランキングだって重要だぞ! 上位に入れば大手企業からのスカウトが来るし、学内での扱いも全然違ってくるって聞いたぞ!」
「そうそう」と園田が興奮気味に続けた。
「先輩から聞いたんだけど、1年で学内トップ10に入ると、優良企業から早々に声がかかるらしいよ。それに、教官たちの目も変わるって」
「それだけじゃないです」夏目も目を輝かせて話に加わった。
「この防大に集まってるエリート揃いの1年の中で、もう上位に食い込んでるってことは、同世代でもトップクラスってことですよね。すごいことだと思います!」
その言葉に、周囲のテーブルからもざわめきが広がり始める。「おい、1年ランキング見ろよ」「神谷と水谷って、あの2人か」「もう上位にいやがる……」畏怖、嫉妬、驚嘆。様々な感情を含んだ視線が、蓮と葵という2人の「規格外の新人」へと突き刺さった。
その視線の中心で、蓮は静かに食事を終えると、内心で一人ごちた。
(学内ランキングも、使いようによっては利用価値がある。企業のスカウト、学内評価……確かに、悪くない副産物だ。だが……それでもまだ5位か。全ての空き時間をダンジョンに費やしているわけではないが、葵とのパーティではそれなりに効率的に立ち回れているつもりだったが……なるほど、上には上がいるということか。さすがは防大、面白い)
彼は何でもないようにトレイを持って席を立った。
「じゃあ、俺はこれで」
唖然とする犬井たちにそう告げて、彼はその場を後にする。その背中を見送る女子学生たちの瞳には、もはや単なる学友を見るのとは違う、畏れと強い興味の色が浮かんでいた。
* * *
その日の夕方、講義棟の廊下で、蓮は前方を歩く見慣れた後ろ姿を見つけた。濃い青のボブカットが、夕陽に照らされて艶やかに光っている。
「水谷」
声をかけると、水谷葵はゆっくりと振り返り、蓮の姿を認めると、猫のようにしなやかな笑みを浮かべた。
「あら、神谷くん。奇遇ね」
「少し、お前の意見が聞きたくなった」
蓮がそう切り出すと、葵は「なに、哲学の授業でも始まったの?」と面白そうに小首を傾げた。
「女性にとっての幸福とは、何だと思う?」
唐突な問いに、葵は一瞬きょとんとした後、くすくすと喉を鳴らして笑い出した。
「ずいぶん、大きく出た質問ね。……そうねえ」
彼女は艶のある唇に指を当て、少し考えるそぶりを見せる。
「『生活デザイン論』的に答えるなら、『愛する男性を影で支え、彼の成功を共に喜び、その遺伝子を次代に繋ぐこと』、かしら? カフェテリアにいた女の子たちなら、きっと満点の回答をくれるわよ」
まるで、昼間の会話を見ていたかのような的確な答えに、蓮はわずかに目を見開いた。
「けど」と葵は続けた。その瞳に、悪戯っぽい光が宿る。
「私個人の意見を言わせてもらうなら、『そんな退屈なことを考えなくても済むくらいの、圧倒的な力とお金を手に入れること』、かしらね。誰かを支えるより、大勢に支えられる方が、ずっと楽しそうじゃない?」
その答えは、いかにも彼女らしい、不遜で、本質を突いたものだった。
「……違いない」
蓮が短く応じると、葵は満足そうに微笑んだ。
「でしょ? そのためには、優秀なビジネスパートナーが必要なの。……これからも、期待してるわよ、神谷君」
そう言ってウインクを残し、彼女はヒールを鳴らして去っていく。
蓮はその背中を見送りながら、昼間のカフェテリアの光景を思い出していた。純粋な善意と常識に満ちた、あの穏やかな空間。そして、その全てを「退屈」の一言で切り捨てる、目の前の共犯者。
(やはり、こいつは最高だ)
蓮の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。この歪な世界で成り上がるための最高のゲームは、まだ始まったばかりだった。




