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初めてのレベルアップ


 初探索を終えた翌日の放課後、蓮と葵は大学の図書館の片隅で、それぞれノート端末に向き合っていた。


 周囲では、試験対策のノートを広げた学生たちがひそひそと相談し合っている。必修科目の小テストが近いらしい。蓮と葵はその科目を履修していないため、彼らの慌ただしさとは無縁だった。


「あれ、神谷と水谷じゃん」


 声をかけてきたのは、同じクラスの二木だった。隣には犬井もいる。二人とも、腕には分厚いテキストを抱えている。


「よう」


 蓮が短く返すと、二木は親しげに笑った。


「お前ら、『ダンジョン生態学』のテスト勉強? 俺ら、過去問コピーしてきたんだけど、見る?」


「ああ、助かる」


 蓮は素直に受け取った。二木が少し驚いた顔をする。


「お、珍しく素直じゃん。神谷って、なんか一人で全部やりそうなイメージあるからさ」


「過去問は効率がいい。自分で一から調べるより、既にまとめられた情報を使う方が合理的だ」


「……お前、そういうとこホント可愛げないな」


 二木は苦笑しながら、ちらりと葵の方を見た。


「まあいいや。また後でな。——というか神谷、お前いつも水谷さんと一緒だよな」


 軽い口調だが、羨望が滲んでいた。隣の犬井も小さく頷いている。


「パーティ組んでんのは知ってるけどさ、勉強まで一緒って……いいよな」


 蓮は特に反応せず、軽く手を上げただけだった。


 二人が別のテーブルへ向かっていく。その背中を見送りながら、葵が小さく笑った。


「羨ましがられてるわよ、神谷君」


「そうか」


「そっけないわね。もう少し、嬉しそうにしたら?」


「別に。事実だろう」


 蓮の淡々とした返しに、葵は一瞬きょとんとした後、くすくすと肩を揺らした。


「……あなたって、本当に変わってるわね。普通の男子なら、もう少し照れたりするものよ?」


「俺に普通を求めるな」


「はいはい。……で、あなたもちゃんとテスト勉強するのね」


「単位を落とす意味がない」


「そういう言い方がまた可愛げないのよ」


 葵は呆れたように言いながら、蓮の手元を覗き込んだ。


「……って、過去問もらったのに、全然違うもの見てるじゃない」


「後でやる。今は別の優先事項がある」


 不意に顔を上げた葵が、思い出したように言った。


 「そういえば神谷君。この前の換金額、やっぱりひどかったわね」


 くすりと笑う彼女に、蓮は視線を上げずに答える。


「ああ、そんなものだ。問題はそこじゃない」


 蓮は、彼女のぼやきには構わず、ディスプレイに表示した、国家ダンジョン機構が公開している公式の安全ガイドラインを指し示した。

 そこには、無数のデータと共に、推奨事項が太字で書かれている。


――【攻略推奨レベル:目標階層Lv + 10】――


「問題は、この『推奨レベル』という名の常識を、俺たちがどう覆すかだ」


 蓮の言葉に、葵は肩をすくめてみせた。


「知ってるわよ、そんな建前。でも、それは中層以上での話でしょう? 特に1階層なんて、実質的には新人のための練習場みたいなもの。そうでなきゃ、大学の実習だって成り立たないわ。教官がいるとはいえ、私たちレベル1だけで放り込まれるんだから」


「その通りだ。死にはしないだろう」


 蓮はあっさりと頷いた。


「だが、他の連中を見てみろ。レベル1のパーティは、ゴブリン数匹が相手でも、それなりに苦戦を強いられる。1体1体を倒すのに時間をかけ、消耗した状態で帰っていくのがほとんどだ。時間の消耗も大きい。あれでは『実績』にも『レベルアップ』にも繋がり辛く今の段階では生存訓練の側面が大きいだろう」


 蓮の視線は、目の前の葵を通り越し、さらにその先を見据えている。


「俺たちの目的は違う。レベル1でありながら、レベル10のパーティに匹敵する戦闘効率を叩き出すこと。そのための武器が、俺たちにはある」


共鳴の鎖(レゾナンスチェーン)〉。


 ゼロタイムでの意思疎通を可能にする、このユニークスキルこそが、彼らの生命線であり、唯一の武器だった。


「……なるほどね。つまり、ただ生き残るんじゃなくて、他の誰よりも効率的に『狩る』ことで、非効率な低層でのレベル上げという常識そのものを、私たちの連携でハックしようってわけね。神谷君らしい、クレバーで、イカれた作戦だわ」


 葵は、呆れたように笑いながらも、その瞳には挑戦的な光が宿っていた。


「いいわ。乗ってあげる。そのイカれた作戦に」


 この数日間、2人は講義の合間を縫って、その「イカれた作戦」を愚直に実行し続けた。


 昨日と同じ、ひやりと湿った空気が肌を撫でる。第1階層の洞窟に転移した2人は、すぐさま〈共鳴の鎖(レゾナンスチェーン)〉を発動し、意識を接続した。


「昨日より、少しだけ楽になった気がするわね」


 流れ込んでくる蓮の思考の奔流に、葵は2度目にして既にある種の慣れを感じながら言った。


「ああ。経験が、無意識の恐怖を和らげているんだろう」


 彼らは昨日よりも、明らかに効率的に、そして冷静にゴブリンの群れを処理していった。蓮が召喚した【クレイゴーレム】を前衛に、葵が《アクア・ショット》で敵の体勢を崩し、その隙を【スモールウルフ】が正確に突く。一連の連携には、昨日よりもさらに無駄がなく、洗練されていた。


 数時間の狩りを続け、既にバックパックがずしりと重くなり始めた頃。1体のゴブリンをスモールウルフが仕留めた、その瞬間だった。


「……あれ?」


 不意に、葵が小さく声を漏らした。蓮もまた、ほとんど同時に、自らの内側に起きた微細な変化を捉えていた。

 それは、身体がほんのわずかに軽くなったような、あるいは体内の魔力の巡りが、ほんの少しだけ滑らかになったような、ごく曖昧な感覚。だが、それは間違いなく、確かな「向上」を示していた。


 蓮は意識を集中させ、適性者だけが持つ情報媒体を脳裏に思い浮かべた。念じるだけで空間に投影できる、自らの魂の証明書。――ステータスカード。


 【神谷かみや れん

 ジョブ:召喚師

 レベル:2

 キャパシティ:5

 スキル:召喚

 召喚可能モンスター:

  - Fランク:【クレイゴーレム】

  - Fランク:【スモールウルフ】

  - Fランク:【ピクシー】

 ユニークスキル:〈共鳴の鎖〉


 表示されたジョブレベルの数字が「1」から「2」へと変わっている。これが、この世界における「成長」の証だった。


 葵もまた、自分のステータスカードを確認したのだろう。驚きと喜びが混じったような、複雑な感情が〈共鳴の鎖(レゾナンスチェーン)〉を通じて伝わってくる。


「……これが、レベルアップ」


 だが、蓮の口から漏れたのは、感嘆ではなく、むしろ失望に近い呟きだった。


「……この程度、か」


 レベルが1つ上がったことによる能力の向上は、確かにあった。身体がほんの少し軽くなったような、あるいは体内の魔力の巡りが、ごく僅かに滑らかになったような感覚。世界が、昨日よりもほんの少しだけ鮮明に見えるような、そんなごく曖昧な手応え。だが、それは劇的な変化ではない。ゴブリンを数百体と狩り続けて、ようやく得られたのが、このささやかな前進だった。


 そして、次にレベルが上がるまでに必要な経験値は、今回とは比較にならないほど多くなるだろう。1体のモンスターから得られる経験値はごく僅かであり、レベルが上がるほど、その要求値は指数関数的に増大していく。それが、この世界の揺るぎない法則だった。


(先は、長いな)


 蓮は、手にしたばかりの小さな達成感を、冷静な思考で塗りつぶした。


* * *


 その日の攻略を終え、素材を預けると、さすがに腹が減っていた。


「何か食べていくか」


 蓮が言うと、葵もこくりと頷いた。


「そうね。ささやかだけど、初めてのレベルアップ祝い、ってところかしら」


 2人が向かったのは、ゲートタワーのレストランフロアだった。ラーメン、定食屋、カフェ、ステーキハウスなど、様々なジャンルの店が軒を連ね、昼時を過ぎても多くの制圧士たちで賑わっている。武骨な鎧を身につけたまま豪快に肉を頬張る男たち、今日の戦果について語り合うパーティ、1人で静かに端末を眺める者。プロの制圧士たちの日常が、そこにはあった。


 2人は、手頃な定食屋に入り、遅い昼食をとることにした。

 運ばれてきた生姜焼き定食を口に運びながら、葵がふと呟く。


「レベルが1つ上がったところで、劇的に何かが変わるわけじゃないのね。もっとこう、全身に力がみなぎるような、すごい変化があるのかと思ってた」


「そんなゲームみたいな話はないさ。地道な積み重ねだ。だが、この積み重ねが、いずれ大きな差になる」


 蓮が淡々と告げる。


 ダンジョン制圧士にとって、レベルアップによる基礎能力の向上は、長期的に見れば最も重要な成長要素だ。だが、レベルが1つ上がることで得られる能力の伸びは決して大きくはない。


 一方で、短期的に戦闘能力を底上げする最も有効な手段が、装備の更新だった。質の良い武具や防具は、時にレベル差すら覆すほどの効果をもたらす。


「少し、装備でも見てみるか」

 

 蓮の言葉に、葵も頷いた。


「そうね。そうしましょう」


 食後、2人は腹ごなしに、武具店が立ち並ぶフロアを歩いてみることにした。そこは、さながら電気街のように、様々なメーカーの直営店や中古品を扱う個人商店がひしめき合う、制圧士たちのための専門店街だった。


「やっぱり、大学から支給された官給品とは全然違うわね」


 ある店のショーウィンドウに飾られた、流線形の軽鎧を見ながら葵が言う。


「官給品は、どんな状況でも最低限の性能を発揮する信頼性が売りだが、面白みはない。市販の企業モデルは、尖った性能のものが多いな」


 蓮が指さした先には、『対スライム特化』『アンデッドからの物理攻撃を15%軽減』といった、特定の状況下での性能を謳う装備が並んでいた。価格も数万円からと、学生でもなんとか手が届きそうなものが中心だ。


「なるほど。自分のジョブや、挑む階層に合わせて装備をカスタマイズしていくのが、プロの戦い方ってことね」


「ああ。装備への投資は、生存確率を上げるための最高の生命保険だ。それに……」


 蓮は、専門店街の中でもひときわ大きな面積を占める、1軒の店舗に視線を向けた。ガラス張りの壁の向こうには、眩いほどの照明に照らし出された、芸術品のような武具の数々が並んでいる。


【八洲兵装 -YASHIMA ARMAMENTS-】


 国内最大手の総合武具メーカー。その直営店だった。


 2人が吸い寄せられるようにショーウィンドウの前に立つと、そこに飾られていたのは、先ほどまで見ていた装備とは次元の違う、プロ向けのハイエンドモデルだった。


「……綺麗」


 葵が、思わずため息混じりに呟いた。

 蓮は、その隣で、白銀に輝く杖の下に置かれた小さなプレートを凝視していた。


【八洲兵装製 Type-S3 "天狼" / 価格:2,000,000円】


「にひゃくまん……」


 葵は思わず声を漏らした。自分たちの数日分の稼ぎを全て合わせても、全く歯が立たない金額だ。


「高級武具が車に例えられるのは知ってたけど、目の当たりにすると……やっぱり現実感がないわね」


「現実的じゃない、か。だが、その価格には明確な理由がある。大きく分けて3つだ」


 蓮は、ガラスに映る自分たちの姿を見ながら、冷静に分析を始めた。


「1つは、素材そのものの希少性。あの杖身に使われているのは、おそらく中層上位の魔法獣からしか採れない『月光木』だ。それを手に入れるためのリスクとコストが、まず価格の土台になる」


 蓮は、ガラス越しに杖を指差しながら続けた。


「2つ目は、加工技術。プレートをよく見ろ。『魔力循環効率30%向上(特許第XXXXXX号)』と書いてある。ヤシマが莫大な研究開発費を投じて独占している、門外不出の特許技術だ。その価値が上乗せされる」


 葵が目を凝らして、小さな文字を読み取る。蓮は、さらに言葉を重ねた。


「そして3つ目が、ブランドだ。『八洲兵装製』というだけで、最高の品質と信頼性が保証される。その安心感にも、当然値段がつく。武具は、この世界じゃ巨大な資本と技術力が支配する工業製品なんだ」


 蓮の淡々とした説明に、葵はどこか納得感を含んだような息を吐いた。


「……なるほどね。でも、こんなもの、普通のダンジョン制圧士に買えるわけ? トップランカーはみんな、大金持ちなの?」


「いや、少し違うな」


 蓮は首を振った。


「まず大前提として、国から支給される官給品は、それだけで中層まで十分に通用するほど高性能だ。最低限の安全は国家が保証している。だから、それで満足して、堅実に稼ぎ続ける制圧士も多い」


 蓮は一呼吸置いて、さらに続けた。


「だが、より深層を目指すなら話は別だ。上を目指す連中は、官給品で実績と資金を稼ぎ、自分のスタイルに合った市販品に買い替えていく。企業所属の中堅になれば購入補助も出るし、トップの1握りになればスポンサー契約でこういうプロトタイプを無償で手に入れる。俺たちみたいな学生がいきなり手を出す代物じゃない。地道にステップアップしていくのが、一流の制圧士になるためのモデルケースというわけさ」


 蓮は、ガラスの向こうの装備から目を離さずに言った。その声は、悔しさでも、羨望でもなく、ただ未来への道筋を確認するような、冷静な響きを持っていた。


「……なるほどね」


 葵もまた、蓮の言葉に静かに頷いた。2人の視線は、手の届かない憧れの武具に、そしてそれを手に入れるに足る実力をつけるための、長く険しい道のりに、確かに向けられていた。


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