二人での初陣
転移ゲートをくぐった瞬間、空気が変わった。ひやりと湿った、洞窟特有の匂い。本物のダンジョンの空気だ。
「この間のスキルを使う。共鳴の鎖だ」
使用に際して大きなデメリットもなく、ダンジョン内での安全確保を考えれば、まず接続しておくのが定石だ。蓮にとっては当然の、合理的な判断からの言葉だったが、葵は一瞬、息を詰めた。
脳裏に、あのシミュレーター室での感覚が蘇る。思考の壁が溶かされ、彼の思考や感情がじんわりと流れ込んできた、あの未知の感覚。自分の内側を暴かれるような無防備さと、抗いがたい温かさが同居する、コントロール不能な体験。
「……あの、人の心に土足で踏み込んでくる、最悪のスキルね」
葵が、わざと棘のある言い方で返す。
「最高の連携を生む、最良のスキルだ。実戦では、コンマ1秒の判断が生死を分ける。これ以上に合理的な手段はない」
蓮は、彼女の挑発を意にも介さず、事実だけを淡々と告げた。
「……分かってるわよ、それくらい」
葵は小さくため息をつくと、覚悟を決めたように蓮を見据えた。
「いいわ。ただし、変なこと考えてたら、あなたを水責めにするから」
「光栄だな」
不敵な笑みで応じる蓮に、葵は軽く顔をしかめながらも、意識を集中させた。
蓮がスキルを発動すると、シミュレーターの時と同じように、2人の間に微かな光の粒子が揺らめいて消えた。
直後、葵の身体を、あの独特の感覚が再び駆け巡った。ダンジョンのひやりとした空気に反するように、内側からじんわりと広がる温かさ。自らの能力が底上げされる感覚と、すぐ隣にいる蓮の、冷静で揺らぎない思考が流れ込んでくる。
シミュレーターの時のような、不意を突かれた衝撃はない。だが、本物の危険が満ちるこの空間では、彼の存在をすぐそばに感じるこの繋がりが、得も言われぬほどの安心感をもたらしていた。
「……接続、完了」
葵は1度、短くそう告げた。その声は、ほんの少しだけ上ずっていたかもしれない。だが、次の瞬間には、彼女は常の、どこか掴みどころのない妖艶な笑みを浮かべていた。
「ふふ……なるほど。これが『本物』のあなた、というわけね。思ったより、熱くて、貪欲。……嫌いじゃないわ、そういうの」
流れ込んでくる蓮の思考の、どの部分を捉えてそう評したのか。彼の野心か、あるいは別の何かか。蓮には判別がつかなかったが、彼女がこの状況を、単なる戦術的連携以上の何かとして、分析し、愉しんでいることだけは確かだった。
(やはり、読めない女だ)
蓮は内心で舌打ちしつつも、口元に浮かぶ獰猛な笑みを抑えることはできなかった。この女は、予測不能で、挑発的で、そして何より――退屈させない。
「準備はいいな」
「ええ、いつでもどうぞ」
短いやり取りで意識を切り替え、2人は改めて周囲を警戒した。
目の前に広がるのは、広大な地下空洞。天井は高く、所々に自発光する青白い苔が群生しており、それがぼんやりと周囲を照らしている。遠くからは、滴り落ちる水の音と、どこかから響く低い唸り声が聞こえてきた。
蓮は召喚獣を呼び出すしぐさを見せた。
ここで、召喚師というジョブの基本的な仕組みについて触れておく必要があるだろう。召喚師が使役するモンスターには、最下級のFランクから上はSランクまで、明確な序列が存在する。そして召喚師自身には、魂の許容量とも言える「キャパシティ」というリソースがあり、各ランクのモンスターに設定された「コスト」の合計が、自身のキャパシティを超えない範囲でしか召喚を行うことができない。
現在の蓮のジョブレベルは1。与えられたキャパシティは、わずかに「4」。
この数値で彼が召喚できるのは、1体あたりのコストが「2」であるFランクのモンスターのみ。具体的には、3種類。敵の攻撃を受け止める使い捨ての壁となる【クレイゴーレム】。高い敏捷性を活かして斥候や奇襲を担う【スモールウルフ】。そして、直接的な戦闘力は低いものの、小魔法で探索や戦闘を補助する妖精【ピクシー】だ。
つまり、今の彼が同時に戦力として使役できるのは、Fランクモンスターが2体まで。これが、彼の全力だった。
さらに、召喚獣が1体でも倒されれば、そのコスト分のキャパシティが一定時間ロックされるというペナルティもある。限られた手駒をいかに失わず、最大の戦果を上げるか。それこそが、召喚師というジョブの本質であり、蓮の知性が最も活きる領域だった。
一方、葵のジョブである水魔法士のスキルシステムは、蓮の召喚師とは対照的だ。召喚師のような特殊なレアジョブを除き、ほとんどの基本ジョブはこちらの形式に近い。
水魔法士が習得するスキルは、いくつかの「基本スキル」と、そこから発展する「上位スキル」で構成される。具体的には、攻撃用のアクア・ショット、防御用のアクアベール、そして敵の動きを封じる補助用のハイドロバインドという3つの基本スキルだ。
スキルの威力や効果は、キャラクターのジョブレベルに大きく依存する。ジョブレベルが上がるにつれて、基本的なスキルの性能が向上するだけでなく、より高度な「応用技」を編み出したり、強力な「上位スキル」を習得したりすることが可能になる。これにより、同じ水魔法士でも、その成長過程や戦闘スタイルに応じて、異なる戦術をとるダンジョン制圧士へと成長していくのだ。
「始めるぞ」
蓮の短い言葉に応じ、彼の影から音もなく2体の召喚獣が姿を現した。1体は、粘土を固めて作られたような、無骨な人型の【クレイゴーレム】。もう1体は、しなやかな体躯を持つ灰色の【スモールウルフ】だ。盾役と遊撃役。蓮がこの2体を選んだ時点で、彼の戦術は既に定まっていた。
「索敵は任せるわ。私はいつでも撃てるように準備しておく」
葵も短く応じ、その手に水の魔力を集中させる。彼女の周囲で、空中の水分がキラキラと輝き始めた。
蓮はスモールウルフに思考だけで「索敵」と命じた。共鳴の鎖の恩恵は召喚獣にも及ぶらしく、ジョブレベル1の召喚師に可能なはずのない、声なき命令が獣へと伝わる。獣は音もなく駆け出し、先行するクレイゴーレムの周囲の闇へと溶けていく。
葵とクレイゴーレムを伴い、蓮は慎重に歩を進める。今はただ、斥候の帰りを待つしかない。数分が、永遠のように感じられた。
やがて、闇の先からスモールウルフが音もなく戻り、蓮の足元に擦り寄った。そして、3度、低く喉を鳴らす。
(……3体か)
蓮はすぐにその意図を理解した。ゴブリンの数だろう。
(距離や装備までは不明だが、奇襲はこちらが仕掛けられる。問題ない)
蓮は瞬時に状況を分析し、脳内で指示を組み立てる。共鳴の鎖による意思疎通は、まだ単純な単語や意図の伝達が限界だ。だが、奇襲を仕掛けるにはそれで十分だった。
(左を頼む。――行け)
視線だけで合図を送ると、葵はこくりと頷いた。
次の瞬間、クレイゴーレムが、重い足音を響かせながらゴブリンたちへと突進した。その鈍重な動きに油断したゴブリンたちが、嘲笑うように棍棒を振り上げる。その一瞬の隙を、葵は見逃さなかった。
「――アクア・ショット」
圧縮された水の弾丸が、寸分の狂いもなく、最も左にいたゴブリンの膝を撃ち抜いた。甲高い悲鳴を上げてゴブリンが体勢を崩す。
その動きに他の2体が気を取られた瞬間こそが、蓮の狙いだった。
クレイゴーレムが、中央のゴブリンが振り下ろした棍棒を、その頑丈な腕で受け止める。鈍い衝撃音が響き、ゴブリンの体勢が崩れる。その背後を、影のように駆け抜けたスモールウルフが、無防備な喉笛に鋭い牙を突き立てた。
断末魔の叫びすら上げさせない、冷徹なまでの連携だった。
「グルァッ!」
残った1体が、仲間の死に逆上し、クレイゴーレムに殴りかかる。だが、その大振りな攻撃は、分厚い粘土の装甲に弾かれ、ほとんどダメージを与えられない。そして、そのゴブリンが次の攻撃に移るより早く、蓮の指示を受けたスモールウルフが、その背後から飛びかかり、喉を正確に掻き切っていた。
戦闘開始から、わずか数分。3体のゴブリンは、その場に崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。その輪郭がぼやけ始め、1分も経たないうちに完全に光の粒子へと変わって霧散していく。後には、直径6センチほどだろうか、鈍い光を放つ半透明の球体――魔石が3つと、運良くドロップしたらしい1枚の汚れた皮だけが残されている。
ダンジョン内のモンスターは、討伐されると死骸を残さず、その存在を構成していた要素の一部だけをこの世に残して消滅する。生命活動の核であった「魔石」は1体につき1つ確定でドロップするが、その肉体を構成していた「物理素材」は、10分の1程度の確率でしか残らない。
そして、こうしたモンスターを評価するための指標は、大きく3つ存在する。
1つは、モンスターが内包する純粋なエネルギー量を示す「活性値」。国家がスタンピート対策で最も重要視するこの指標は、討伐時に得られる経験値と1対1で対応する絶対的な数値であり、同じゴブリンでも個体差がある。
2つ目は、社会的な危険度を示す「脅威度」。これは活性値に、特殊能力や知性といった「厄介さ」の補正を加えて算出される、より実用的な指標だ。例えば、物理攻撃が効きにくいスライムなどは、活性値が低くとも脅威度は高く設定される。
そして3つ目が、その脅威度を一定の範囲で区切った「カテゴリ」という分類だ。今しがた倒したゴブリンは、平均活性値「12」脅威度「15」であり、当然最も弱い「カテゴリ1」に属する。制圧士たちの間では、このカテゴリという言葉が最も一般的に使われている。
蓮はおもむろにステータスカードを取り出し、確認した。これまでの累計の活性値にゴブリン3体分の「36」という数値が確かに加算されていた。
「見事なものね。まるで、あなた自身が2人いるみたいだわ」
葵が感心したように言う。
「お前のサポートがあってこそだ。最初の牽制が的確だった」
2人は手早くドロップアイテムを回収すると、休むことなく次の獲物を探してダンジョンを周回していった。彼らの狩りは、その後も淡々と、そして効率的に続いた。
2人での初めての実戦は、順調だった。




