二人の食卓
契約が成立した後、しばらく二人は無言で座っていた。
やがて蓮が息をついた時、部屋の時計が目に入った。時刻はすでに午後九時を回っている。寮の食堂が閉まる時間だ。
「しまったな……夕食、どうする」
蓮が独りごとをつぶやくと、葵がくすくすと楽しそうに笑った。
「仕方ないわね。記念すべきパーティ結成の初日なんだし、私の大事なパートナーが飢えてしまったら、先が思いやられるもの」
彼女はそう言うと、悪戯っぽく片目をつむり、軽やかに立ち上がる。
「何か、簡単なものでも作ってあげるわ。これは、女性の務め、じゃなくて? 未来のトップランカーへの、私からのささやかな先行投資よ」
その悪戯っぽい言い方に、蓮も思わず笑みをこぼすが、すぐに現実的な問題に気づく。
「ありがたいが、まともな食材なんて、冷蔵庫には何も入ってないぞ」
「あら、それなら問題ないわ。この寮、地下に24時間営業の購買があるの、知らなかった?」
葵は得意げに微笑む。その情報力に、蓮は少し驚いた。
「じゃあ、ちょっと買い出しに行ってきてあげる。パートナー様は、お部屋で待っててくれる?」
そう言って軽やかに部屋を出て行った葵は、十数分後、両手に食材の入った袋を提げて戻ってきた。
蓮の部屋に備え付けられたキッチンは、学生寮のものとは思えないほど機能的で広々としていた。葵は、まるで自分の家のように自然な様子でそこへ向かうと、買ってきたばかりの食材を手際よく並べ、エプロンもつけずに調理を始めた。
包丁が俎板を叩く、軽快なリズム。彼女の白い指先が、玉ねぎを薄く、均一にスライスしていく。その手つきは驚くほど慣れており、一切の迷いがない。小鍋にオリーブオイルを垂らし、火をかける。じわりと温まる音が、静かな部屋に心地よく響いた。
やがて、ニンニクとハーブの香りが部屋に広がり始める。葵は鼻歌交じりに、鶏肉を焼く音を確かめながら、フライパンを軽く揺する。その姿は、大学で見せるクールな才女の姿とも、SNSで見せる挑発的なインフルエンサーの姿とも違う、年相応の少女が持つ家庭的な温かみを感じさせた。
蓮はソファから、その姿を静かに観察していた。
(面白い女だ。口ではこの社会への反発を唱えながら、その身体には、まるで無意識の領域で再生される映像のように、この国が理想とする『良妻賢母』の型が、指の先にまで染みついている)
葵が、ふと振り返る。その顔には、料理の熱で頬が僅かに紅潮し、髪の一房が額に貼りついていた。いつもの隙なく整えられた姿とは違う、少しだけ崩れた姿。それが、妙に生々しく、そして魅力的に映った。
「何? じっと見られてると、やりにくいんだけど」
葵は少し拗ねたような声で言うが、その口元は笑っている。
「いや、手慣れてるなと思ってな」
「これくらい、できて当然でしょ。……なんてね」
彼女は軽く肩をすくめて、再び鍋に視線を戻す。
蓮は、その興味深いギャップに、思わず口元の笑みが深くなるのを感じた。彼女がもし、先ほど廊下で聞こえてきたような「普通の女子学生」であれば、この料理の腕前を自分の「女性としての価値」として誇らしげに語ったかもしれない。しかし、葵は違う。彼女にとってこれは、あくまで実用的なスキルでしかなく、自分のアイデンティティを規定するものではない。その矛盾を抱えたまま、平然と料理を続ける姿が、彼女の本質を象徴していた。
やがてテーブルに並べられたのは、ハーブの香ばしい香りが立つ鶏肉のソテー、新鮮な野菜のグリーンサラダ、そしてきのこのクリームスープ。手際よく作られたとは思えない、まるでカフェのランチのような食事が湯気を立てていた。
「すごいな、これ全部作ったのか」
「ふふ、どう?」
葵は悪戯っぽく笑って、自分の席に座った。
その言葉とは裏腹に、彼女の作った食事は、この国が理想とする「女性らしさ」そのものだった。そのちぐはぐさが、蓮にはたまらなく魅力的に映った。
二人で向かい合い、食事を始める。口に運んだ鶏肉は、ハーブの香りとジューシーな肉汁が広がり、予想以上の味だった。
「……うまいな」
「でしょ?」
葵は満足げに微笑むと、自分も鶏肉を口に運んだ。
やがて会話は、今後の活動について、より具体的な話へと移った。最初の目標は、ダンジョンの十階層踏破。役割分担は、前衛の壁役を蓮の召喚獣、後衛の火力支援を葵が担う。
「当面はこの二人で潜ることになるが、さっきのシミュレーションの感じなら、低層階は問題なく進めるだろう」
「ええ、そうね。あなたの召喚獣も優秀だし。それに、あの変なスキルもあるし」
葵は楽しそうに言って、クリームスープを一口、スプーンで上品に口に運んだ。しばらく無言で食事を続けた後、彼女がふと顔を上げる。
「……そういえば」
葵は、何気ない風を装いながら言った。
「さっき廊下で、女子学生たちが話してたわね。テレビの、あの理想の家庭がどうとか」
その声には、微かな棘が混じっていた。
「ああ、聞こえていたのか」
「ええ。みんな、幸せそうだったわね」
葵は淡々と言って、再びスープに視線を落とす。その表情からは、軽蔑とも諦めとも取れる、複雑な感情が読み取れた。
「彼女たちが間違っているとは思わないわ。ただ、私には合わないってだけ。……それに」
彼女は少し間を置いて、続ける。
「あの子たちだって、本当に心から満足しているかどうかなんて、分からないじゃない」
その言葉には、自分自身に言い聞かせるような響きがあった。蓮は黙って頷く。彼女がその話題を振ったことの意味を、理解していた。
沈黙が、短く部屋に降りる。しかし、それは気まずいものではなく、互いの距離が一歩近づいたことを確かめ合うような、心地よい静けさだった。
やがて葵が小さく息をつき、いつもの飄々とした笑みを浮かべて、再び食事に視線を戻す。
「まあ、どうでもいいことね。今は、あなたとの計画の方が、よっぽど面白いもの」
蓮も口元に笑みを浮かべ、静かにグラスを傾けた。
戦闘中でも、交渉中でもない、穏やかな時間。このささやかな食事が、二人の「共犯関係」の始まりを告げる、最初の儀式となった。
互いにまだ多くの仮面をつけたままではあったが、その夜の食卓には、どこにでもいる大学生のような、穏やかで自然な空気が流れていた。
やがて食事が終わり、葵が帰り支度を始めた頃には、窓の外はすっかり深い夜に沈んでいた。玄関まで見送る蓮の背後で、ドアが静かに閉まる音がする。
一人になった部屋で、蓮はソファに腰を下ろし、葵が座っていた場所に視線を向けた。まだ僅かに、彼女の体温の名残が残っているような気がした。
(これから、どうなるか)
その答えは、まだ誰にも分からない。だが、確かなことが一つある。今夜、この部屋で交わされた約束は、この先の全てを変える。
これから始まる長く険しいダンジョン攻略。そして、互いの心を読み合う、より複雑なゲーム。その幕が、今、静かに上がった。
蓮は立ち上がり、窓の外の夜景を見つめた。キャンパスの明かりが、遠くに小さく瞬いている。その光の一つが、今頃、寮へ向かう葵を照らしているのかもしれない。
口元に、静かな笑みが浮かぶ。
明日から、全てが始まる。