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葵との契約

 夕暮れのキャンパスを、蓮と葵は並んで歩いていた。


 先ほどまでの喧騒が嘘のように静かな帰り道、シミュレーターでの激しい戦闘と共鳴の鎖(レゾナンスチェーン)がもたらした奇妙な高揚感の余韻が、まだ肌にまとわりつくように残っている。


 その沈黙は気まずいものではなく、むしろ共有した記憶を確かめ合うような、濃密な空気を孕んでいた。


 不意に、蓮が足を止めた。


「このまま、もう少し話さないか?」


 彼の声は、夕暮れの静けさの中に、確かな意志を持って響いた。葵の顔をまっすぐに見つめ、彼は続ける。


「俺の部屋でよければ、誰にも邪魔されず、ゆっくり話せる」


 そのあまりにも大胆で、直接的な誘いに、葵は一瞬、青い瞳を驚きに見開く。しかし、それはすぐに、彼の真意を探るような、全てを面白がるような、挑発的な笑みへと変わった。


「ふふっ、神谷君って、意外と悪い人なのね」


 彼女は楽しそうに、少し芝居がかった仕草で蓮を見上げる。


「こんな時間に女の子を部屋に連れ込むなんて」


 彼女は挑発的な笑みを深めた。


「私が明日、『酷いことをされた』って泣きついても、誰も君の言うこと、信じてくれないかもしれないわよ?」


 その言葉は、蓮の行動の「リスク」を冗談めかして突きつけ、彼の覚悟を試すような、彼女らしい駆け引きだった。蓮は、彼女がこのゲームに乗りたがっていることを確信し、静かに微笑んだ。


 部屋に向かう廊下の途中、開け放たれた談話室から、女子学生たちの声が漏れ聞こえてきた。


「ねえ、見た? さっきのテレビ。あの制圧士の奥さん、本当に素敵だったよね」


「うん、ああいう家庭を築けたら最高だよね。私も、いつかああなりたいな」


 その声は明るく、屈託がない。


 蓮は足を止めずに通り過ぎたが、葵は一瞬だけ、談話室の方へ視線を向けた。


 その横顔には、何とも言えない複雑な表情が浮かんでいた。軽蔑か、それとも羨望か。あるいは、その両方が入り混じったものか。


 しかし、それもすぐに消え、彼女はいつもの飄々とした表情に戻る。



 部屋に入った葵は、意外なものを見るように、きょろきょろと室内を見回した。


 蓮の自室は、一般的な男子学生の部屋を想像していた葵にとって、少し拍子抜けするほど整然としていた。まるでモデルルームのように無駄なものがなく、それでいて、どこか書斎のような知的な空気が漂っている。


 本棚には専門書が分野ごとに几帳面に並べられ、机の上にはノートパソコンと数本のペンが、定規で引いたかのように真っ直ぐ置かれていた。


 ただ一つ、その整然とした空間の中で、読みかけと思しき一冊の本だけが、机の隅に無造作に開かれていた。


 葵がそっと盗み見たその本のタイトルは、ダンジョン攻略とは何の関係もない、古典的な政治思想についてのものだった。


「へえ、本当にモデルルームみたい。面白みがない、って言ったら怒るかしら?」


 葵は面白そうに言いながら、まっすぐソファに向かって腰を下ろす。その言葉には、彼の整然とした一面を意外に感じつつも、それをからかう親しみが混じっていた。


「褒め言葉と受け取っておく。まあ、適当に座ってくれ」


 蓮は口の端を少し上げて、皮肉っぽくそう言うと、コートをハンガーにかけた。


 しばらく無言の時間が流れる。


 会話のきっかけを探すように、蓮はごく自然な仕草でリモコンを手に取り、壁掛けのテレビをつけた。


 画面には、夕方の情報番組が映し出される。


 この時間帯、どのチャンネルを回しても、似たような内容が流れているはずだ。制圧士の活躍を讃える特集、理想の家庭を紹介するドキュメンタリー、あるいは若者向けの就職情報。


 どれも一見すると普通の番組だが、その根底に流れる価値観は、驚くほど均質だった。


 偶然、流れてきたのは、高名な男性ダンジョン制圧士の特集だった。しかし、カメラが映し出すのは彼の戦闘シーンではなく、自宅のドアを開ける場面からだった。


 そこには、隅々まできれいに整えられた美しい家で、エプロン姿の美しい妻と可愛い子供たちが「お帰りなさい、あなた!」と満面の笑みで出迎える。食卓には温かい手料理。


 ナレーションが、感動的なBGMと共に厳かに語る。


『――彼の強さの源。それは、彼が守るべき、この温かい家庭にあるのです』


(「男は外で国のために戦い、女は家を守り男を癒すのが美徳」。古典的だが、最も大衆受けの良いプロパガンダだ)


 蓮は冷ややかに分析しながらも、その視線はテレビと、ソファに座る水谷葵の間を微かに往復していた。


(英雄譚に重ねることで、その刷り込み効果を最大化する。前世で飽きるほど見てきた手法だな)


 画面の中の妻が浮かべる、庇護されることで完成する恍惚の笑み。それとは対極にある、何にも媚びない葵の挑戦的な横顔。その対比が、彼の根源に渦巻く黒い欲望を明確な形にする。


 あの画面の女が浮かべる『恍惚』。あれを、水谷葵のような女の顔に浮かべてみたい。


 社会の理想を軽蔑する、その気高いプライドを少しずつ解きほぐし、最終的に俺への献身こそが彼女自身の喜びだと、そう思わせる。


 その征服の過程こそが、何よりの充足感を与える。


(この女は、俺の欲望を最も満たしてくれる、最高の素材だ)


 蓮は、葵が冷え冷えとした、それでいてどこか面白がるような目で画面を見つめているのを確認すると、わざとらしく感心したような声色で、彼女に話しかけた。


「なあ、水谷も、ああいうの、憧れたりするのか?」


 その分かり切った問いかけに、葵はテレビを睨みつけたまま、わざとらしく眉を吊り上げてみせる。


「本気で言ってるなら、本気で軽蔑するわよ。誰があんな、よくできたペットみたいな生き方に憧れるものですか」


「ははっ、手厳しいな。だが同感だ。あんたみたいな気性の荒い猫は、とてもじゃないがあの家には収まらない」


「猫で結構よ。誰かのための可愛い置物になるくらいなら、ずっといいわ」


 その皮肉に満ちた言葉は、蓮が期待した通りの答えだった。彼女もまた、この世界の欺瞞に飽いている。


「俺もごめんだ。誰かのための背景で終わるつもりもない」


「じゃあ、あなたはどうしたいの?」


 葵の鋭い視線が、蓮の野心の核心を突く。


 蓮はその視線を受け止め、静かに微笑んだ。


(その鋭い瞳。だが、彼女が抱えている渇望の正体は、俺には見えている)


 この国を覆う息苦しいまでの同調圧力は、特に女性に対して『良妻賢母』という単一の役割を強いる。


 その結果、個人の評価軸は意図的に狭められ、彼女が本当に評価してほしいと願うであろう知性やしたたかさは、『可愛げがない』の一言で切り捨てられるのが常だ。


 蓮は、目の前の女性の青い瞳を観察する。その奥に潜む、誰にも理解されない苛立ちを。


(ほとんどの人間はその理不尽を飲み込み、諦めと共に順応していく。だが、彼女は違った。その飲み込めなかったプライドが、社会への反発心へと姿を変えたのだろう)


 SNSで挑戦的なファッションを見せるのも、俺の前でだけ本音を漏らすのも、その反発が誰かに認められることを前提としている。


 常に『他者からの視線』を意識しているのだ。


 葵は、蓮の視線に気づいたのか、僅かに眉をひそめる。しかし、その表情は、すぐにいつもの余裕を湛えた笑みへと戻った。


(しかし結局のところ、それは有り余る才能を持て余し、決められた未来に収まることを良しとしない、いわば思春期特有の苛立ち)


 蓮はそう冷静に分析する。


(その行き場のないエネルギーが、彼女を突き動かしているに過ぎない)


 俺が抱く、世界の構造そのものへの違和感とは、根本が違う。


(だが、それでいい。単純で分かりやすい動機ほど、御しやすいものはない)


 蓮の口元に、微かな笑みが浮かぶ。


(彼女が求める「特別」を与え、その反発心を俺の野望のために使ってやればいい)


 蓮がリモコンを操作すると、作られた理想の家族像はノイズもなく闇に消えた。


 部屋の主役は、もはや画面の中の英雄ではない。ソファに座る蓮と葵、たった二人だ。


 先ほどまでの皮肉の応酬で温まった空気は急速に冷え、これから交わされる言葉だけが、この空間の温度を決める。


「今日のシミュレーターで確信した。君はやはり、俺と同類だ」


 蓮は静かに告げる。


 その声は、先日カフェで交わした会話の続きを、そして最終的な答えを求める響きを持っていた。


「この退屈な世界でトップに立つには、ルールに従うだけじゃ足りない。その隙を見つけ、利用し、出し抜くしたたかさが必要だ」


 蓮は一拍置いてから、さらに続けた。


「……だから、改めて君に問う。俺の最初のパートナーとして、その反骨心を貸してくれないか。君の力は、俺の野望に不可欠だ」


 その言葉に、葵はすぐには答えなかった。


 彼女は一度ふっと視線を逸らし、目の前の男が描く野心の大きさと、そこに飛び込むことのリスクを冷静に天秤にかける。


 決められたレールを走り続けるだけの、色褪せた未来。それと引き換えに手に入るかもしれない、まだ誰も見たことのない景色。


 思考すればするほど、退屈な日常を壊してくれるかもしれないというスリリングな予感が、期待となって血を沸き立せるのが分かった。


 ここで背を向けることは、自分自身の魂を裏切ることと同義だった。


(この男の隣にいれば、きっと誰も見たことのない景色が見られるだろう。その結末は、果たして……)


 沈黙が、部屋の空気を重くする。


 葵は視線を逸らし、窓の外の闇に何かを探すように目を細めた。窓ガラスに映る自分の顔を見つめているのか、それとも、その向こうの見えない未来を探しているのか。


 彼女の細い指が、無意識にソファの肘掛けを軽く叩く。一定のリズム。思考が巡っている証だ。


 蓮はただ静かに待つ。


 まるで彼女の思考の重みを受けているかのように、部屋の空気がぴんと張り詰めていた。焦ってはいけない。


 彼女は今、自分の人生の分岐点に立っている。その重さを理解しているからこそ、彼女は慎重になっている。


(――この女は、馬鹿ではない。俺の提案の意味を、正確に理解している。それでも悩んでいるということは、答えはもう出ているということだ)


 そして、ふっと空気が緩む。


 指の動きが止まり、葵は深く、静かに息を吐いた。まるで、長い潜水から浮上したような、解放された呼吸。


 彼女が再び蓮へと向き直ったとき、その顔にはもう、いつもの掴みどころのない、全てを面白がるような妖艶な笑みが浮かんでいた。


 迷いの霧が晴れ、進むべき道を決めた者の顔だった。


 しかし、その青い瞳の奥には、何か別の感情も揺らめいていた。期待か、それとも覚悟か。


「いいですよ、その提案」


 その声は、先ほどまでの沈黙が嘘のように軽やかだった。


「あなたとなら、この退屈な世界も、少しは面白くなりそうだから」


 あくまで、彼の仕掛けるゲームに乗ってあげるのだ、と。そんな余裕を漂わせながら、彼女はあえて最後まで丁寧な言葉を選んで、はっきりと頷いた。


 だが、その口の端には、隠しきれない満足そうな色が、確かに浮かんでいた。


 そして、頬にも、ほんの僅かに紅が差している。それが部屋の照明のせいなのか、それとも――。


 蓮は、静かに息をついた。


 窓の外では、夜がゆっくりと深まっていく。そして、この長い夜は、まだ終わらない。












あと一話でプロローグ的な章が完結となります。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!(ブクマいただいた方はさらに感謝)


次の章も毎日投稿予定ではありますが、本小説が面白いと思っていただいた方はブクマ/評価/リアクションなど何でもいいので反応いただけると今後の執筆の励みとなります!



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