シミュレーターでの出来事
葵からの挑戦的な提案を交わした、数日後。蓮と葵は、約束通り大学の敷地内にある最新鋭の「ダンジョン・シミュレーター」の一室へと向かっていた。彼女を自らの最初の駒、最初の『共犯者』として迎え入れるための、最終試験の始まりである。
「よお、神谷!これから訓練か?精が出るな!」
シミュレーター室が並ぶ廊下で、聞き慣れた声に呼び止められた。犬井健人だ。
「ああ。まあな」
蓮が軽く応じると、健人はその隣に立つ葵の存在に気づき、目を丸くした。
「げっ、水谷さんも一緒なのか!? お前ら、どういう関係だよ!?」
蓮がぶっきらぼうに「ただの学友だ」と答えようとするのを遮るように、葵がくるりと向き直り、そつない外面用の笑顔を健人に向けた。
「こんにちは、犬井君。神谷君が自主練にお付き合いしてくださるんです。ね?」
にこりと、有無を言わさぬ笑顔で同意を求められ、蓮は「ああ」とだけ短く応じる。そのそつない対応に、健人は一瞬言葉に詰まった後、ぐいっと蓮の腕を掴んで数歩、葵から離れた場所に引き寄せた。
「おい、神谷! あの水谷さんと2人きりでシミュレーターって、どういうことだよ!? いつの間にそんな仲に……」
声を潜めて問い詰める健人に、蓮は肩をすくめてみせる。
「まあ、色々あってな」
「色々ってなんだよ!」
なおも食い下がろうとする健人だったが、こちらを面白そうに眺めている葵の視線に気づき、慌てて口を閉じる。そして、納得いかない顔で蓮の肩を力なく叩くと、「……隅に置けねえなあ、お前も!」とだけ言い残して、友人たちの元へと去っていった。
その背中を見送りながら、葵が楽しそうに蓮に囁く。
「あーあ、見られちゃった。神谷君のせいで、また私のファンが1人、嫉妬で暴走しちゃうかも。責任、取ってくれる?」
「光栄だな」
蓮が不敵な笑みで返すと、葵は満足そうに喉を鳴らした。
2人は目的のシミュレーター室の前に着くと、中に入った。
中に入ると、そこは現実感を一切排した、真っ白な空間だった。壁も床も継ぎ目なく白で統一され、かすかなモーター音と、消毒液にも似た人工的な匂いが漂っている。
「ここが、最新鋭のシミュレーター室……。ずいぶん、殺風景なのね」
葵が珍しそうに周囲を見回すのに、蓮はコンソールを操作しながら応える。
「ああ。だが、起動すれば、指定したダンジョンの環境が限りなく近い形で再現される。……始める前に、改めて互いの手の内を確認しておこうか」
「ええ、それが合理的ね。私から。使えるのは【アクア・ショット】、【アクアベール】、【ハイドロバインド】。攻撃、防御、妨害が一通りってとこね」
「了解した。俺が今召喚できるのは最大2体まで。種類としては3種類で【クレイゴーレム】が壁役、【スモールウルフ】が遊撃役、そして補助ができる【ピクシー】だ。指揮は俺が執る」
「なるほど。じゃあ、お手並み拝見と行きましょうか」
葵が挑戦的に微笑むのを確認し、蓮はコンソールを操作する。瞬く間に白い空間の様相が変わっていく。壁に映像の亀裂が走り、次の瞬間には湿った石の質感へと変化する。床からは土の匂いが立ち上り、肌を撫でる空気が明らかに重くなった。ひんやりとした石の壁、じめりとした空気、そして遠くから聞こえるモンスターの咆哮。それは、先日の初実習で体験した、光来ダンジョン第1階層そのものだった。
「五感へのフィードバックはかなり精密ね。……でも、本物のダンジョンが持つ、あの肌を刺すようなプレッシャーまでは再現しきれていない、か」
葵が冷静に分析するのに、蓮は頷いた。
「ああ。所詮はシミュレーターだ。死の危険がない分、どうしても緊張感は薄れる。だが、連携の確認には十分だ」
そう言って、蓮は敵の構成を最終確認する。
「敵は初実習の応用編、ゴブリンが3体だ。作戦プランを伝える。まず俺のクレイゴーレムとスモールウルフを出す。ゴーレムで前衛を食い止めている間に、君とウルフで側面から数を減らしていく。各個撃破だ。いいな?」
「了解。お手並み拝見ね」
葵が満足げに頷くのを確認し、蓮はプログラムを開始した。
戦闘開始と同時に、蓮の冷静な指示が飛ぶ。
「――召喚! ゴーレム、前へ! 敵の突進を止めろ!」
分厚い壁となってゴーレムがゴブリンたちの前に立ちはだかる。
「ウルフ、右翼のゴブリンを叩け! 葵は左翼を頼む!」
蓮の意図を過不足なく汲み取り、葵は左翼のゴブリンに【アクア・ショット】を放つ。ウルフが右翼のゴブリンの足を噛み砕き、1体が突出した一瞬の隙を、彼女は見逃さない。
「【ハイドロバインド】!」
葵の詠唱に応え、突出してきたゴブリンの足元から迸った水の鎖が、その動きを完全に封じ込める。言葉と視線だけで成立する、滑らかなコンビネーション。蓮は、自らの戦術のピースが、まるで予め定められていたかのようにピタリと嵌まる感覚に、確かな手応えを感じていた。一方の葵もまた、蓮の意図が手に取るようにわかるこの状況に、胸が高鳴るのを抑えられなかった。そこには、他の学生との訓練では味わえない、特別な一体感が存在していた。
数回の戦闘を繰り返し、シミュレーター内のモンスターを全て掃討した後、蓮は「少し、休憩しようか」と声をかけた。それと同時に、役目を終えたゴーレムとウルフの姿が掻き消える。
額に浮かんだ汗を拭い、息を整える葵に、彼は切り出す。
「実は、試したいスキルがあるんだ」
「試したいスキル……?」
葵は、蓮の言葉に小首を傾げる。その反応を見ながら、蓮は続けた。
「ジョブとは別に、俺が個人的に持っているもので、な」
「……!」
その言葉に、葵は一瞬、息を呑むが、すぐに興味深そうに目を細めた。
「ユニークスキル……。なるほど、道理で、ただの召喚師ではないと思っていました。……いいわ、見せてもらおうかしら。あなたが、どれほどのものか」
驚きよりも好奇心を、そして値踏みするような挑戦的な光をその瞳に宿して、彼女は蓮を促す。その反応に満足しながら、蓮は謙遜するように言った。
「ああ。少し扱いが難しいスキルでな。申告は済ませてあるが、ジョブと違って現状ことさらに吹聴してはいない。パーティメンバーとの連携スキルで、どうやら絆が深いほど効果が上がるらしい。先日の実習で、自分の召喚獣に使ってはいたが……人に対しては、まだ誰にも使ったことがない。君となら、高い効果を得られる気がする」
特別感を強調するその言葉に、葵の表情がわずかに動く。蓮は、彼女の返事を待たずに、静かに目を閉じて意識を集中させた。自らの魔力の一部を、蜘蛛の糸のように細く、それでいて強靭な繋がりとして練り上げる。その先端を、目の前にいる少女の魔力へと、慎重に、しかし確実に接続するイメージを思い描く。
「――【共鳴の鎖】!」
スキルが発動した瞬間、葵は思考が停止するほどの衝撃を受けた。
それは彼女にとって初めての、コントロール不能な体験。
自らの身体能力や魔力が少し増す感覚とともに、蓮の思考や感情が、じんわりと流れ込んでくる。それは温かく、少しだけくすぐったいような、今まで経験したことのない未知の感覚だった。普段、彼女が意識的に構築している思考の壁が、溶かされていくような気がした。
その抗いがたい快感と、自分の内側を暴かれるような感覚に、彼女は潤んだ瞳で蓮を見つめ、無意識に、本音を漏らすように呟いた。
「……なに、これ……。あったかい……。あなたの考えてることが、流れ込んでくる……みたい……」
「これが俺のユニークスキルだ」
蓮は静かに告げた。葵が小さく息を呑み、頬を染めて潤んだ瞳でこちらを見つめている。
同時に、蓮は自らの魔力と絡み合う彼女の魔力を、はっきりと感じていた。
(――これが、人との繋がり)
召喚獣に使った時とは、明らかに違う。意思を持たぬ召喚獣は、ただ従順に魔力を受け入れるだけだった。だが今、彼女の魔力が、まるで戸惑うように震えながら、それでもゆっくりと蓮の魔力に絡みついてくるのを感じる。人の内側に踏み込むというのは、こういうことなのか。
蓮は、混乱する葵にそれ以上の説明はせず、その有用性を実戦で示すため、再びコンソールを操作した。最後の仕上げとして、ゴブリンを3体、あえて2人の死角である背後に出現するようにプログラムする。それと同時に、彼は静かにピクシーを1体召喚し、葵の死角に控えさせた。
葵が背後に湧いた魔力の気配に気づき、驚きに目を見開く。
「――ッ! 後ろ!」
葵が声を発するより早く、蓮の意図が流れ込んできた。背後からの脅威、そして、右へ動くべきだという強い衝動。それは命令ではなく、もっと直感的な確信だった。葵は無意識に、その感覚に導かれるように動いていた。
蓮もまた、葵の焦燥と、魔法を放つ瞬間の集中力を肌で感じ取っていた。言葉は不要だった。彼女が何をしようとしているのか、手に取るようにわかる。
葵の立ち位置が変わるのを待って、蓮はピクシーに【閃光】を詠唱させる。その眩い光がゴブリンたちの目をくらませるのと、彼女が振り返り様に放った【アクア・ショット】が1体のゴブリンの胸を貫くのは、全くの同時だった。鎖で繋がったことで底上げされた魔力が乗った一撃は、普段のそれより明らかに威力を増している。2人の動きは、打ち合わせなど不要とばかりに、恐ろしいほどに噛み合っていた。これが、【共鳴の鎖】の真価だった。
葵は、自らの魔法が、まるで蓮の手足のように動く感覚に、快感と同時に、得体の知れない恐怖を感じていた。
(これが、ユニークスキル……)
蓮が何を考え、次に何をしようとしているのか、言葉にされる前に、じんわりと流れ込んでくる。彼女が魔法を放とうとした瞬間、蓮の意図が――右へ動け、という衝動が――自分の判断よりも先に体を動かしていた。いつも冷静にコントロールしてきた自分の行動が、初めて、他者の意図と溶け合っている。
それは少し怖い。でも同時に、不思議と心地良かった。まるで、ずっと1人で立っていた場所に、初めて誰かが隣に来てくれたような。
蓮は、葵の魔法の威力がわずかに向上したことと、彼女が頬を染め、潤んだ瞳でこちらを見つめ、明らかに混乱している様子に気づいていた。その混乱の中に、拒絶ではなく、戸惑いながらも受け入れようとする何かが混じっているのを、彼は見逃さなかった。スキルが強力であることはもちろん、葵に対して自身の有用性を十分に示せたと、彼は改めて確信する。
戦闘後の休憩中、葵はまだ動揺を隠せないでいた。先ほどの感覚が、まだ肌に残っているようだ。しかし、ただ防衛的になるのではなく、深呼吸を1つして心を落ち着かせると、彼女は逆に主導権を握り返そうと試みるように、蓮の目を真っ直ぐに見つめた。
そして、わざと平然と、しかしどこか挑発的な口調で言う。
「……すごい、スキル。でも、最悪ね。人の心に、土足で踏み込んでくるなんて」
その言葉に、蓮は動じることなく、余裕の笑みで返す。
「さあな。俺も初めて使った。だが、身体能力が底上げされた感覚はあったはずだ。それだけじゃない。【感覚共有】という効果で、言葉を交わさずとも、互いの次の動きが手に取るように分かっただろう? ……これも、俺たちの相性が良い証拠だな。ちなみに、このスキルは互いの信頼関係が深まるほど効果が上がるらしい。つまり、俺と君が仲良くなればなるほど、君はもっと強くなれるってことだ」
彼の返答は、彼女のネガティブな表現を、いとも簡単にポジティブな関係性の証へとすり替えていた。その切り返しに、葵は一瞬、悔しそうな顔をするが、すぐにふっと妖艶に微笑む。
「相性、ね……。だとしたら、神谷君も、私の考えてること、分かっちゃった? ……私が今、あなたをどうしたいか、とか」
意味深に囁き、彼女は会話の主導権を完全に奪い返しにきた。
(面白い……)
蓮は、彼女のその予測不能な反応に、口元に笑みが浮かぶのを感じた。動揺を隠すために、逆に相手を翻弄しようとする。その姿勢こそが、彼女を他の女とは一線を画す存在にしている。葵は、単に体制に疑問を持つだけの少女ではない。自分との関係性において、対等以上のプレイヤーであろうとする、手強い相手だ。それが、ひどく魅力的だ。
この日を境に、2人の関係は「ただの学友」から、「秘密を共有する共犯者」へと、確実にその形を変えた。葵は、初めて経験したコントロール不能な繋がりに動揺しつつも、その危険な感覚と、それをもたらした蓮という存在に、これ以上ないほどのスリルと期待を感じていた。この「ゲーム」を、もっと続けたい。その渇望が、彼女の中に確かに芽生えていた。
シミュレーター室を出て、夕暮れのキャンパスを2人並んで歩く。先ほどまでの喧騒が嘘のように、静かな時間が流れていた。
「ねえ、【共鳴の鎖】……使い方次第では、とんでもないことになるわね。あなたの言う『サクセスストーリー』とやらの、切り札かしら」
葵が、ふと問いかける。
「切り札は、最後まで見せないものだ。……だが、君が俺の隣にいるなら、話は別だがな」
蓮は、夜の闇に紛れるように、不敵な笑みを浮かべた。
「……本当に、口のうまい人」
その思わせぶりな言葉に、葵は呆れたように、しかしどこか楽しそうに吐息を漏らす。隣を歩く男の横顔を見つめ、その底知れなさに、改めて武者震いするような興奮を覚えていた。