初めてのダンジョン
作戦会議を終えた学生たちは、班ごとに講義棟から少し離れた場所にある専用駅へと向かった。
そこは大学とダンジョンゲートタワーを結ぶ、関係者専用の「リニアシャトル」が発着するステーションだ。ガラスと白い金属で構成された駅舎を抜けると、ホームドアの向こうに静かな車両が滑り込んできた。車体の側面には、盾と剣をあしらった防衛大学のエンブレムが誇らしげに輝いている。
乗り込んだ車内は機能的な空間で、発車ベルも鳴らず、車両は磁力で浮上したかのように滑らかに動き出す。やがて車両は大学の敷地を抜け、ゲートタワーへと続く専用軌道に入る。その先に、目指す建造物が圧倒的な存在感を放ちながら聳え立っていた。
高さ200メートルはあろうかという巨大な塔――ダンジョンゲートタワーだ。強化コンクリートと黒いガラスで覆われた無機質な外壁には、装飾らしい装飾は何一つない。ただ国家の威信を示すかのように、天を衝くその威容が、近づくほどに現実感を増していく。
シャトルはタワーの基部に併設された、防衛大学専用のターミナルへと滑り込むようにドッキングした。学生たちが降車すると、そこは静かで清潔な空間だった。短い通路を進み、厳重なセキュリティゲートを抜ける。
彼らが足を踏み入れたのは、メインホールを見下ろす二階部分の回廊だった。眼下には、一般の制圧士たちが行き交う、空港の出発ロビーを思わせる広大で無機質な空間が広がっている。防衛大学の学生たちのための専用エスカレーターを降りて一階に合流すると、それまでいた静かな空間とは対照的な、ざわめきと緊張感が肌に伝わってきた。
天井まで吹き抜けになったホールには、100を超える番号が振られたゲートが整然と並び、それぞれが淡い光の膜を張っている。ここが、ダンジョンの一階層に点在する数百もの固定座標へと繋がる、個別転移ゲート群だ。
各班は指定されたゲートの前で待機し、最後の入場手続きを行う。蓮たちの班が割り当てられたのは「117番ゲート」だ。
「よし、行くぞ。ゲートを潜ったらすぐに周囲を警戒しろ。お喋りはそこまでだ」
鬼塚の号令で、班員たちが緊張した面持ちで頷き合う。蓮が先頭に立ち、光来ダンジョンの第一階層へと足を踏み入れた。
ひんやりとした湿った空気が、露出した肌を撫でる。規則的に壁から滴り落ちる水の音。そして、微かに漂う獣と土の匂い。シミュレーターはこれらの環境を極めて高い精度で再現する。だが、モンスターが放つ本物の殺気と、死の危険がもたらす、この肌を刺すようなプレッシャーだけは、どうしても再現しきれない領域だった。
それと同時に、シミュレーターで慣れ親しんだ、ジョブによる身体強化の感覚が全身を包む。だが、本物の魔素に満たされたこの空間では、その感覚がより鮮明で、生々しく、そして重い意味を帯びているように感じられた。
「やっぱり、体が軽くなりますね。シミュレーターと同じ感覚ですけど……本物のダンジョンだと、なんだか少し緊張します」
後衛にいた小野寺が、背負った救急キットの重みを確かめるように、軽く肩を回しながら言った。その声は明るいが、初めてのダンジョンへの不安からか、わずかに上ずっている。
「ああ、この感覚だ。シミュレーターで初めてジョブに触れた時を思い出す。盾など構えたこともなかったのに、体は自然と急所を守る位置を知っていた。……これがジョブの力なのだと、あの時、誰もが驚いたものだ」
リーダーで重戦士の相良が、どこか懐かしむように応じる。
「ああ、そうだよな! 俺も剣道なんてやったことなかったのに、不思議と剣の振り方が体に入っててさ。あの時はマジでびっくりしたよ」
犬井が、緊張した面持ちながらも、どこか明るさを残した口調で応じた。その声には、硬くなった空気を少しでも和らげようとする、彼なりの気遣いが滲んでいる。
◇
それから、パーティは慎重に第一階層の通路を進んだ。相良が先頭で盾を構え、その後ろに犬井と二木、最後尾に蓮、葵、小野寺が続く。教官の鬼塚は少し離れた位置から、無言でその様子を見守っている。
薄暗い通路の奥から、獣の唸り声が響いた。
「――ッ、来るぞ!」
相良の警告に、全員の体が硬直する。闇の中から姿を現したのは、一体のゴブリンだった。人間の子供ほどの背丈だが、筋肉質な体躯と、鋭い牙を剥き出しにした醜悪な顔。その手には、粗雑だが人間の頭蓋を砕くには十分な太さの棍棒が握られている。
シミュレーターで何度も戦った相手のはずだった。だが、本物のゴブリンが放つ殺気は、データでは再現できない生々しさを持っていた。
「犬井、二木、合わせろ! 小野寺は後方で待機だ!」
相良の指示に頷きながらも、犬井の剣を握る手が微かに震えている。二木も呪文を唱える準備をするが、その動きはシミュレーターでの訓練ほど滑らかではない。
ゴブリンが咆哮を上げて突進してきた。相良が盾でその棍棒を受け止める。ガギィン、という鈍い金属音。その衝撃に、相良の顔が歪む。
(重い……! シミュレーターとは、まるで違う――)
犬井が横から斬りかかるが、緊張で踏み込みが浅く、剣先がゴブリンの腕を掠めるだけに終わる。ゴブリンが怒りの声を上げ、体勢を立て直した相良に再び棍棒を叩きつけた。
「くっ……!」
二撃目を受け止めるが、相良の足が半歩後ろに下がる。このままでは押し切られる。
「【ハイドロバインド】」
その時、葵の冷静な声が響いた。ゴブリンの足元に水が湧き出し、その脚にまとわりつく。ゴブリンの動きが一瞬鈍り、三撃目を振り下ろそうとした棍棒の軌道が僅かにぶれた。
「今だ!」
相良の叫びに、二木が掌を前に突き出す。ようやく落ち着きを取り戻した彼の手から放たれた雷撃が、動きの鈍ったゴブリンの肩を正確に貫いた。ゴブリンが苦悶の声を上げる。そこに犬井が踏み込み、今度は深く剣を突き刺した。
ゴブリンが断末魔の叫びを上げ、その巨体が地面に崩れ落ちる。静寂が戻った。
「はぁ……はぁ……」
相良が荒い息をつきながら、倒れたゴブリンを見下ろす。犬井も剣を下ろし、信じられないという表情で自分の手を見つめている。小野寺は震える手で胸を押さえ、二木は魔力を放った手をじっと見つめながら、その場に立ち尽くしていた。
「……これが、本物のダンジョンか」
相良が呟く。葵だけが、どこか余裕のある表情で倒れたゴブリンを一瞥すると、視線を蓮に向けた。
蓮は、その一部始終を後方から冷静に観察していた。クレイゴーレムを一体召喚していたが、あえて前には出さず、万が一の保険として待機させていただけだ。
(相良の盾捌きは堅実だが、衝撃への耐性が足りない。犬井は体の動きは悪くないが、本番での緊張に弱い。二木は落ち着けば仕事をする。小野寺は……まだ出番がないからわからないが、あの震え方では不安だな。そして葵は、やはり別格か)
「よくやった」
鬼塚が短く声をかける。その声には、わずかな安堵の色が混じっていた。
「だが、慣れるな。一瞬の油断が命取りになる。それがダンジョンだ」
その言葉に、全員が居住まいを正した。相良が深呼吸をし、再び盾を構える。
「……行くぞ。次だ」
パーティは、ゆっくりと前へ進み始めた。