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水谷葵の二つの顔

 4月が過ぎ、大学生活は緩やかに軌道に乗り始めていた。


 蓮と水谷葵は、いくつかの一般教養や専門基礎の講義で顔を合わせるようになっていた。


 例えば、教室移動の廊下でばったり会った時。


「あ、神谷君。次の講義室、同じ方向みたいですね」


「ああ。水谷もか」


「ええ。一人で歩くのも退屈ですし、少しお話ししませんか?……もちろん、邪魔でしたら、すぐに消えますけど」


 そう言って、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。断るという選択肢を与えながら、その実、蓮の反応を試しているのが見て取れた。


「光栄だな」


 蓮がそう返すと、彼女は満足そうに頷き、二人は並んで歩き始めた。周囲に他の学生がいる場面では、葵は隙のない「学友」として、常に丁寧な言葉遣いを崩さない。


 しかし、講義室の隅の席で、ふと二人きりになる瞬間があると、彼女の纏う空気は不意にその色合いを変えた。まるで、仮面を一枚、すっと外すように。


 その日、二人が並んで受けていたのは「ダンジョン学原論」。白髪の老教授が、国家編纂の公式テキストを抑揚なく読み上げるだけの、退屈な講義だった。


(……ダンジョンの分類、第一種から第五種。魔素濃度の遷移モデル。どれもこれも、一度潜れば身体が覚えることを、なぜこうも長々と……)


 蓮が内心でため息をついた、まさにその時だった。


「ねえ、神谷君」


 不意に、彼女がタメ口で囁く。その声には、悪戯っぽい響きがあった。


「うん?」


「退屈そうな顔、隠すの上手だよね。私、少しは見習わないと」


「……見てたのか」


 蓮が少し驚いて返すと、葵はわずかに目を細め、「さあ、どうでしょう?」と、質問には答えず、ただ意味ありげに微笑むだけ。その笑みは、まるで蓮の反応を一つ一つ品定めするように、どこか楽しげだった。そして、何事もなかったかのように、すっと視線を前に戻し、破綻のない優等生の横顔になる。だが、その唇の端には、まだかすかに笑みの名残が残っている。


 彼女は、時にこうして、蓮の内側を探るような、それでいて本心は決して見せない言葉を投げてくる。まるで、計算されたタイミングで手札を見せびらかし、すぐに隠してしまうポーカープレイヤーのようだ。その掴みどころのない言動が、蓮にとっては心地よい焦燥感となり、彼女という存在への興味をさらに掻き立てていた。


(水谷葵。面白い女だ。こうして時折、俺の内側を探るような言葉を投げかけてくる。その本心がどこにあるのかは、まだ読み切れない。だが、それがいい。簡単に手に入る駒では、興が醒めるだけだ。あの掴みどころのない澄ました顔が、俺の前だけで崩れるところを想像すると、ゾクリと背筋を何かが駆け上がる)


(どうすれば、この気まぐれな猫を懐柔できるか。まずは彼女が求める「共犯者」の役を隙のない仕上がりで演じ、じっくりと内側に入り込んでいく。彼女が自ら、俺の腕の中に堕ちてくるその日まで、このスリリングなゲームを楽しむとしよう)



 ある日の午前、大講義室は必修科目である「国家防衛史」の講義を受講する学生で埋め尽くされていた。


 壇上に立つのは、背筋の伸びた壮年の教授だった。退役した高級官僚だという彼は、穏やかな口調ながらも、確固たる信念を感じさせる声で語りかける。スクリーンには、ダンジョン出現からの年表と、過去のスタンピート被害統計が映し出されている。


「……本日は、我が国が歩んできた40年の歴史を振り返ります。諸君もご存じの通り、約40年前、世界の主要都市に突如としてダンジョンが出現しました。我が国は、混乱の中でも比較的冷静に対処し、初期の適性者たちと協力しながら、手探りでダンジョンの調査を進めていました」


 教授は一度言葉を切り、学生たちの表情を見渡した。


「しかし、ダンジョン出現から5年後。北米大陸で史上初の『スタンピート』が発生しました。大都市1つが地図から消えるという、悪夢のような大災害です。この悲劇をきっかけに、各国が協力して国際的な調査を開始しました」


 スクリーンには、当時の被害状況を記録した映像が映し出される。廃墟と化した街並み。


「そして、その調査により、『ダンジョンは放置すると内部の魔素濃度――活性値が上昇し、一定値を超えるとスタンピートを引き起こす』という、世界の命運を左右する重大な事実が、初めて公式に発表されたのです」


 教授の声が、わずかに重くなる。


「我が国政府も、この発表を受けてすぐに動きました。国内ダンジョンの活性値抑制を最優先課題として、対策本部を設置したのです。しかし――」


 教授は、そこで言葉を切った。スクリーンが切り替わり、「金沢」の文字が浮かび上がる。


「時既に遅く、対策が本格化する直前に、我が国でも初となるスタンピートが発生しました。金沢です。甚大な被害が出ました。しかし、黎明期からダンジョンで活動し、高いレベルに到達していた適性者たちが、その命を賭して戦い、辛くも鎮圧に成功したのです」


 スクリーンには、殉職した適性者たちの名前が、静かに流れていく。教授の声には、敬意と哀悼が込められていた。


「多くの犠牲の上に、今日の管理体制が築かれました」


 そして、その口調がわずかに熱を帯びる。


「あれから40年。我々は、多くの試行錯誤を経て、ようやくダンジョンを『管理』できる体制を築き上げました。5年前の地方での小規模なもの以降、大規模なスタンピートは1度も発生していません。社会は、確実に安全になっています」


 スクリーンには、年を追うごとに減少していくスタンピート発生件数のグラフが映し出される。


「しかし、この平和は決して当たり前のものではない。これは、諸君の先達たちが、そして今もなお最前線で戦い続ける適性者たちが、その身を賭して守り抜いているものなのです。このような悲劇を、二度と繰り返してはならない。そのためには、諸君のような新たな適性者の力に、頼らざるを得ないのです」


 教授は、一人一人の顔を見るように、ゆっくりと視線を巡らせた。そして、その声に、これまでにない熱が込められる。


「諸君は、同世代150万人の中から選ばれた者たちだ。選ばれたということは、重い責任を背負うということでもある。だが、同時に、それは諸君にしかできない使命があるということだ。この日本の、いや、次の世代の未来を守る力が、諸君の手の中にあるのです。どうか、その力を、この国の平和のために使ってほしい。日々戦いに挑み、後に続く者たちのために、道を切り拓いてほしい!」


 その言葉には、確かな熱量があった。過激さはない。だが、巧みに学生たちの自尊心をくすぐり、犠牲への負債感を植え付け、国家への奉仕へと誘導していく。


 教室は、静かな熱気に包まれていた。多くの学生が、教授の言葉に心を動かされたように、真剣な眼差しでスクリーンを見つめ、熱心にペンを走らせている。中には、拳を握りしめて決意を新たにする者もいた。一方で、義務的に、淡々とノートを取るだけの者や、ただ静かに教授の言葉を聞き、何も書かない者もいる。それでも、全体としては、教授の熱意が学生たちに確かに届いている様子だった。


 その中で、蓮の隣の席に座る葵は、ペンを回す退屈そうな仕草すら、どこか様になっている。彼女は、講義の内容ではなく、蓮の横顔を観察することに集中しているようだった。


 彼はその視線に気づかないふりをした。


 授業が終わり、学生たちがそれぞれのグループで雑談を交わしながら講義室を出ていく中、蓮は少しタイミングをずらし、葵と二人きりになった瞬間を狙って、わざと軽い調子で話しかけた。


「今日の先生、特にいい話だったな。先達の犠牲に報いるため、涙を流しながら戦場に向かう決意が固まった」


 蓮が白々しくそう言うと、葵は一瞬だけ目を丸くした。そして次の瞬間、堪えきれないという風に、小さく肩を震わせて笑う。


「ええ、本当に。でも、講義の内容より、神谷君の横顔の方がずっと面白かったですよ?」


 悪戯めいた笑みを浮かべていた彼女の表情が、ふと冷めた色を帯びる。視線は、もう誰もいない教壇へと向けられた。


選ばれた者の使命(・・・・・・・・)、か。随分と美しい言葉で包んでくれるのね」


 その声には、皮肉とも諦めともつかない、乾いた響きがあった。葵は教授の「熱意」を嘲笑っているのか、それとも自分たちの立場を哀れんでいるのか。蓮には判然としない。


 だが、むしろ都合がいい。彼女もまたこの美しい言葉の欺瞞に気づいている。表の顔と本音を使い分ける、聡い女だ。


 ならば、この共通点を最大限に利用しよう。「共犯者」として彼女の警戒を解き、じっくりと内側に入り込んでいく。


 彼女が自ら俺の腕の中に堕ちてくるその日まで、このゲームを楽しむとしよう。




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