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10/21

本物の戦場へ

 時は流れ、5月初旬。世間がゴールデンウイークを迎える中、蓮は、ついにその実習の日を迎えた。


 この大学では、卒業までに計7つの「ダンジョン実習」と、最終関門である「卒業演習」が必修となっている。各学年の前期・後期に1つずつ配置された、まさに大学生活の核となるカリキュラムだ。


 そして今、彼らはその最初のステップである、1年前期必修科目「ダンジョン実習I」(5単位)の初日を迎えていた。その目的は「基本的なパーティ戦闘技術と、各自のジョブに適した基礎的な戦い方の習得」にある。


 入学から一か月、学生たちは座学でダンジョンの基礎理論、モンスターの生態、パーティ戦術の基本を徹底的に叩き込まれてきた。その上で、ようやく実際のダンジョン実習が始まる。大学は学生の安全管理を重視していた。


 実習は学年が上がるほど比重が増す造りだ。まず1・2年次は週6コマ(たとえば月・水の午後3コマずつ)で基礎を叩き込み、3年前期は週9コマへと拡張。3年後期以降は座学が消え、泊まり込みでのダンジョン活動も含む実践中心に移行する。


 ダンジョン実習では、1学年約1000名を50名ずつ20クラスに編成する。このクラスは実力別に分けられ、半期ごとに再編成される(到達階層や評価を総合判定)。ただし入学直後の1年前期だけは例外で、学生間の実力差がほとんどないため、ホームルームクラス単位でそのまま実習を行う。実習のパーティは原則として同じクラスから大学側がジョブバランスを考慮して指名する6人、そこに教官が1名同行する。


 「ダンジョン実習I」は、第四防大に併設する光来ダンジョン1階層のみを舞台に、週2回・午後の全コマを使って行う。1階層のモンスターは新人でも一撃で致命傷を負うことはなく、経験豊富な教官が一人いれば最悪の事態は確実に回避できる。教官は安全管理と評価に徹し、戦闘には原則不参加。評価は定性重視で、「パーティ内の基本連携」と「各自のジョブの基礎的な使用」が軸になる――それが初日の頭に叩き込まれる約束事だった。


 蓮の割り振られたクラスの実習の集合場所は、大学の深部に位置する「第八実習準備室」。金属的で機能的なデザインの広大な空間には、壁一面に設置されたモニターに各班の編成メンバーや注意事項が映し出され、フロアの中央には装備の貸与やメンテナンスを行うためのカウンターが設置されている。ここから専用の連絡通路を通って、ダンジョンと世界を隔てる巨大施設「ゲートタワー」へと向かうのだ。


 モニターに流れる班一覧の中に、自分の名前と水谷葵の名前が同じ列に並んでいるのを見つけ、蓮は内心でわずかに口角を上げた。


(……なんて都合がいい)


 準備室に整列した新入生たちを前に、壁際に並んだ数名の教官たちが腕を組んで立っている。その中から、一際体格のいい男が代表して一歩前に出た。


「1年生、全員揃っているな。俺はこの実習の統括を担当する、鬼塚だ。ジョブは重戦士。お前らが卒業するまで、地獄の釜の底まで付き合ってやるから、覚悟しておけ」


 厳つい顔に刻まれた古傷が、その言葉に説得力を持たせている。


「いいか、諸君、よく聞いてくれ。これからお前たちが足を踏み入れるのは、ただの石ころの洞窟じゃない。そいつは、生きている。そして、腹を空かせている」


 教官――鬼塚は、学生たちの顔に浮かんだ困惑と緊張を満足げに見回し、言葉を続ける。


「ダンジョンは放置すれば、内部の魔素濃度――『活性値』が勝手に上がり続ける。一定値を超えれば、あのクソ忌々しい『スタンピート』が起きる。ガキでも知ってる常識だが、これだけは頭に叩き込んでおけ。あれを防ぐ方法はただ一つ。お前たちのような適性者が、その身を賭してダンジョンに潜り、モンスターを狩り、活性値を抑制することだ。これはお前たちに課せられた、最も根源的で、絶対的(・・・)な義務だ。忘れるな」


 その言葉は、これまで座学で聞いてきたどの説明よりも、圧倒的な現実感をもって学生たちに突き刺さった。


 鬼塚は一度間を置き、学生たちの顔を見回してから、声のトーンを落として続けた。


「いいか、勘違いするな。昔に比べれば、管理体制は格段に向上した。だが、それでも毎年、全国で1000人近い制圧士が命を落としている。そのうち3割は、お前たちのような新人だ。油断、準備不足、判断ミス。理由は様々だが、結果は同じだ。帰ってこない」


 その言葉に、準備室の空気が一瞬、凍りついた。


「まあ、この1階層で死ぬやつは滅多にいない。だが、『滅多にいない』は『絶対にいない』じゃない。去年も、他の大学で新人が一人亡くなった。詳しい経緯は伏せられているが、結果として死んだ。ダンジョンは、そういう場所だ」


 鬼塚はそこで一度言葉を切り、今度はわずかにトーンを和らげた。


「だが、今日は気負いすぎるな。目的は試験じゃない。シミュレーターとは全く違う、本物のダンジョンの空気に慣れること。それが第一だ」


 そして、学生たちの表情を確かめるように視線を巡らせてから、続けた。


「各班には、ここにいる教官が一人ずつ同行し、安全管理と評価を行う。どの教官もこの階層のモンスターに後れを取ることはないから、その点は安心しろ。だが、これもあくまで『実習』だ。安全が保証されているからといって、思考を止めるな。仲間とどう連携するか、常に自分の頭で考えることを学んでほしい。いいな!」


「「「はいッ!」」」


 腹の底からの返事が、準備室に響き渡る。その声には、恐怖と武者震いが混じっていた。


 ブリーフィングが終わり、装備の貸与が始まる。自前の装備がない学生は、カウンターで実習用の装備を無償でレンタルできる。カウンターには、重戦士向けの金属プレートから、魔法士や召喚師向けの軽量な革鎧まで、ジョブ特性に合わせた様々な官給準拠の装備が並んでいる。


 蓮も躊躇なく申請し、召喚師に必要な視界と手の自由を確保するため、肩と胸を守る薄いプレートを中心とした最小限の一式を受け取った。


 受け取った装備を一つずつ確認していく。胸部プレートの固定ベルトの摩耗具合、革手袋の縫い目の強度、肩プレートの可動域。官給品は確かに整備されているが、それでも最終的に自分の命を預けるのは自分自身だ。


 周囲を見渡すと、他の学生たちも同様に、真剣な表情で装備の点検を行っていた。ある者は革紐の結び目を何度も確認し、ある者は関節部の可動を試している。初めて受け取る実戦用装備の重みが、彼らの表情を引き締めている。


 隣では葵が胸部と前腕のプロテクターを選び、肩の可動を試すように二度ほど腕を回してから、固定具合を入念にチェックしている。その動作は慣れたもので、彼女もまた、装備の重要性を理解しているようだった。


 蓮は葵の横顔をちらりと見た。いつもの飄々とした雰囲気は健在だが、プロテクターの固定ベルトを締める彼女の指先が、ほんの一瞬だけ、通常よりも強く引かれたように見えた。そして装備を確認し終えた後、彼女は小さく息を吐いた。それは、緊張を解こうとする、ごく自然な仕草だった。


(……面白い。水谷葵でも、緊張するのか)


 その発見が、蓮にとっては何よりも興味深かった。普段は余裕を見せる彼女が、本物のダンジョンを前に、ほんのわずかに平静を乱す。その人間らしさが、逆に彼女の魅力を際立たせていた。


 蓮は装備の最終確認を終え、左手の甲に浮かぶ紋章をちらりと見下ろした。


(シミュレーターとは違う。今度は、本物だ)


 準備室の喧騒の中で、蓮の内側には静かな期待が渦巻いていた。本物のダンジョン。本物のモンスター。そして――本物の、経験値。


 装備を整え終えた学生たちが各班ごとに集まり始める。いよいよ、次の段階が始まる。




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