ちんげさん
僕らは彼女のことを、親しみを込めて「ちんげさん」と呼んでいた。
真っ先に断っておくが、イジメのたぐいではない。ちんげさんは自称「ちょっと変わった愛されキャラ」であり、実際に男女問わずちんげさんを嫌っている人は誰もいなかった。
ただ彼女の名字が「沈む華」と書いて「ちんげ」と読む珍名だっただけのことだ。
そうは言っても、センシティブな女子高生をしてその呼び方をするのに抵抗が無かったのかといえば、もちろんそんなこともなかった。
クラス替え後の自己紹介のとき、高2にもなって脳味噌が小2から進化していないと自他ともに認める馬鹿の山田が
「ちんげ!?」
と大声で叫んだときは、まるで肉眼で視認できるような戦慄がクラス内を駆け巡ったが、ちんげさん本人は何処吹く風で
「そうなんス、ちんげさんです。よろしくね」
と返して、ニマニマと笑っていた。決してクスクスやフフフではなかった。
その後、女子たちの手によってちんげさんの可愛らしい愛称の創作が試みられたが、結局どれもこれも「ちんげさん」のインパクトに敵うものはなかった。当時、女子の間では名字の一文字目に「子」を付ける愛称が流行っていたのだが、清楚っぽく可愛い系の外見で男子の人気上位だった「ミナ子さん」こと南野さんが「つい勢いで」かつ「途中で気づいたものの止めることができずに最後まで」口走ったちんげさんの新しい愛称案は、遠巻きに聞いていた一部の男子にとってはある種のご褒美となって、ミナ子さん人気を更に上昇させた。個人的には、インパクトという点ではなかなかだったと思ったけれど、もちろん全会一致で却下された。
また、下の名前で呼べばいいじゃないか、という最も真っ当な解決方法は、ちんげさん本人の強い要望で却下された。本人が嫌がっていたのでここでは明かさないが、下の名前は至って普通で、何故そこまで頑なに拒否するのかは謎だった。何か深いトラウマでもあったのだろうか。
そんなこんなで、クラス内での彼女の愛称は、なかばなし崩し的に「ちんげさん」で確定してしまった。ただし、クラス外で呼ぶときには「よう」とか「ねえ」という、ある種の代名詞を使うことになった。僕らなりの合理的配慮だった。
ちんげさんはというと、そんなやりとりをまるで他人事のように眺めながら、終始ニマニマと笑っていた。
そんなちんげさんだが、本人も自称するとおりの「ちょっと変わり者の愛されキャラ」だった。
外見的には可もなく不可もなくといった感じで、肩口まであるボブカットの髪はいつもどこかが少しはねていて、朝からミナ子さんや木村(愛称はキム子)にブラッシングされているのがよく目撃されたが、大抵放課後にはどこかがはねていた。ちんげさんはオシャレにはあまり頓着しないようだった。
性格は、ひとことで言えば「無邪気」だろう。担任の大倉先生をはじめとする学校の男性教諭陣は、基本的に生徒を男女問わず名字で呼び捨てにするのだが、ちんげさんだけはさん付けだった。
「アタシは嫌われているのだろうか」
と、ちんげさん本人は言葉とは裏腹の例のイタズラっぽいニマニマとした表情で嘆いていたが、周囲の人は
「間違いなく気遣いだろ…」
と予想していた。後に大倉先生が暴露したのだが、実際にちんげさんの入学が決まったときに職員会議の議題に挙がり、大真面目に議論したうえで決まったのだそうだ。教師という職業も大変である。
また、ちんげさんと呼ばれること自体は全く意に介さないちんげさんだったが、表記には拘りを持っていた。「チン毛さん」は言うまでもないが、何故か「沈華さん」や「チンゲさん」もNGで、頑なにひらがな表記に拘った。なんなら非公式な文書での本人の署名も「ちんげさん(敬称込み)」だった。聞けば、中学入学後最初の実力テストで答案の署名に「ちんげさん」と書いて提出し、放課後教師にこっぴどく叱られたという。
「あれには参った。以来、提出書類などには本名を書いてるんだ」
とは本人の談だが、むしろ小学生時代は大丈夫だったのかと問い詰めたかった。
そんなちんげさんだから、普段から奇特な行動ばかりだったかといえば、実はそうでもない。放課後に稀によく開催されるプチ女子会には率先して参加していたらしいが、どちらかというと聞き役だったらしい。また、意外にもゲームに詳しくて、昼休みに男子と対戦プレイする姿も目撃されていた。とあるメジャーなパズルゲームでは全国ランキングに入れるレベルだというから、本当なら大したものだと思う。
総じて、名前と一部の行動を除けば至って普通、というか、本人の言う通りの「愛されキャラ」という評価には、どこからも異論は出ないだろう。ただし「ちょっと変わった」の部分は「とても残念な」に変更したほうが良さそうだったが。
そんなちんげさんと、夏の校外学習で同じ班になったことがある。行き先は、水がきれいなことで有名な池があり、池を祀る神社があり、池の周りを巡る遊歩道がある、まあ田舎に行けばどこにでもありそうな感じの自然公園だった。学校から池の近所まではバスで移動し、そこから徒歩で池の畔の神社まで行き、隣接する芝生の広場で弁当を食べてからしばらくは自由時間、夕方までに来た道を戻るという、公立高校にありがちな、どの辺が学習なのかよく分からない校外学習だった。
行きのバスで席につくと、隣がちんげさんだった。僕は普段あまりちんげさんと話すことはなかったけれど、その時はこちらから話しかけるよりも先にちんげさんが話し始めた。
「お、隣は君か。よろしくね」
そう言って、ちんげさんは何が面白いのか、ニマニマと笑った。
移動中、ちんげさんとあれやこれやと話をした。話題は忘れてしまったけれど、忘れるくらいだから大した話はしていなかったと思う。ただ、途中でバスガイドさんにちんげさんの名前がバレて、ちんげさんが照れたような顔で立ち上がろうとした時に
「おまえじゃねえ、すわってろ」
と声を掛けたのは、何故か鮮明に覚えている。「おまえじゃねえ」ということはなく、実際張本人なのだが。
ちんげさんは一瞬戸惑った顔をしたあと、ニマニマと笑いながら席に座りなおし、俯きながら声を殺すようにして笑いをこらえていた。どうやら変なツボに入ったらしかった。
ひとしきり笑いをこらえたあと、ちんげさんはお弁当のあと一緒に遊歩道を歩かないかと誘ってくれた。特に誰とも何も約束していなかったので、僕はその申し出に乗ることにした。
僕は急ぎめにお弁当を平らげると、ちんげさんとの待ち合わせ場所の大鳥居の下に向かった。ちんげさんが現れたのは、おおよそ30分ほど経った頃だった。まあ、普通に食べてればそんなもんだよな。
「ごめん、待った?」
と、ちんげさんはまるでデートの待ち合わせに遅れたカノジョのようなことを言った。
「いいや、つい30分くらい前に来たところ」
と、一見爽やかそうで辛辣なカレシのように返す。
うわあ、とちんげさんに大袈裟にドン引きされながら、僕は遊歩道の順路を指さした。
「行こうか?」
ちんげさんはうなずくと、僕の隣に並んで歩き始めた。
自由時間に遊歩道を歩いていたのは少数派だったらしく、僕らはバスの中から引き続いて下らないことを話しながら、ほぼ誰とも出会う事なく歩いていた。残念ながら、というべきか、浮かれた感じはまったくしなくて、本当にただただ雑談をしながら散歩していただけだった。
その日は風がなく、池の表面は鏡のように綺麗に周囲の景色を映していて、少し幻想的ですらあった。二人が並んで歩けば時々肩が触れるような細い道を歩いていくと、池の形に合わせて視界が変わるたびに違った風景が僕らの目を楽しませた。
遊歩道を半分くらい回った辺りに、石造りの橋が架かっていた。池に流れ込む川を渡るその橋の上でちんげさんは立ち止まり、池とは反対の川の方を向いて目を凝らしていた。川の水も池のそれと同じくらい透明度が高くて、川底を覆う水草や、そのところどころに小さな白い粒が付いているのまで見て取れた。
僕はふと気づいて、ちんげさんに声をかけた。
「ちんげさん、あれ、もしかして、花?」
すると、いつものニマニマとは少し違う、ニヤニヤという笑みを浮かべて、ちんげさんは僕の方を振り向いた。
「気づいた? 時期的に微妙だったから、見れて良かったよ」
そして再び川の方に視線を送りながら、
「あれは、バイカモという水草の一種でね、水がきれいな川にしか育たない、この辺ではちょっと珍しいものなんだよ。その特徴は、夏のこの時期に、水中花を咲かせるところなんだ」
「詳しいんだね」
「ほら、ちんげさんは名前がちんげさんなだけにね、水に沈んだまま花を咲かせるこの植物については、小さいころよく調べたんだよ。小学生のころ、夏休みの自由研究にも選んだくらいさ」
「おお、なるほど。言われてみれば、沈んだ花、か」
「いわば、本家のちんげさんだ」
「本家って……」
そこで会話が途切れ、僕とちんげさんは小さな白い花をたくさん抱えた水草を眺めていた。
立ち止まってからどれくらいの時間が流れたころだっただろうか。視界の端をトンボのような虫が飛んでいるのを見つけた。
「トンボだ」
「んー、多分、『極楽とんぼ』だね」
何気につぶやいた僕の言葉に、ちんげさんは静かに答えた。
「極楽とんぼ?」
「正しくは、ウスバカゲロウっていうのかな。トンボとは別の昆虫」
「へえ」
「トンボの幼虫は、ヤゴっていって、水の中にいるでしょ? ほら、季節外れの濁ったプールの中にいるヤツ」
「それは知ってる」
「ウスバカゲロウの幼虫はほら、アリジゴクだよ」
「ああ! へえ、アリジゴクが成長するとトンボになるのか、それは知らなかった」
「だからトンボじゃないって。それはともかく、幼虫は地獄で成虫は極楽って、なんだか浮き沈みの激しい人生だよね。いや、虫生かな?」
「その着眼点は僕にはなかったな。アリジゴクは、まあ、アリにとっての地獄だからなんとなく分かるけど、成虫はなんで極楽とんぼなんだろ?」
「普通のトンボと違ってヒラヒラと飛ぶから、お気楽者と思われたんじゃないかな? 知らんけど」
「あー、なるほどね」
「なんだか、アタシみたい」
ちんげさんがつぶやくように小さく答えたの聞いて、僕は少し驚いて黙り込んでしまった。ちんげさんの口調に、いつものニマニマした感じは一切なかったのだ。
思春期の女性に対してこの形容はどうかと思うけれど、いまいちピントが合っているのかよく分からない、少し濁ったような淀んだようなちんげさんの瞳は、多分ウスバカゲロウではなくて、その向こうの景色を見ているようだった。
「……おまけにさあ、別に本人が望んだわけでもないのに、『薄馬鹿』で『下郎』って、なんだか可哀想な名前だよね」
「……そこで切ってやるなよ」
と、なんとか反応できたけれど、少し重くなりかけた空気を流すように言っただろう、ちんげさんのそんな言葉は余計に空気を重くして、再度僕の胸の奥に引っかかった。
なんだか可哀想。
それは、さっきの「アタシみたい」にも掛かっているのではないか。
そんなことを考えながら、次の言葉を出せずにいると、ちんげさんはゆっくりと手のひらを上にして目の前に差し出した。すると、それまでヒラヒラと飛んでいたウスバカゲロウがやって来て、その手のひらの上に止まった。
「……おおう。すごいね」
僕は少し乾いた声でそう言うと、ちんげさんは自分でも驚いたように、
「やってみといて何だけど、本当に止まるとは思わなかった。ほら、普通のトンボと違って、翅をたたんで止まってるでしょ?」
そう言ったちんげさんの声は、いつものニマニマした感じに戻っていた。
ほんの1分ほどそうしていて疲れてきたのか、ちんげさんの腕が少し下がってきたタイミングで、ウスバカゲロウは再び飛び立ち、ヒラヒラとした軌道で池の方に飛び去っていった。
「疲れたわ」
ちんげさんはわざとらしく腕を振り、それから体ごと僕の方を向いて、行こうか? と言った。僕は頷いて、散歩を再開した。
遊歩道を一周して、バスに乗って帰途につく間、僕らは相変わらず下らない話をしていたと思う。でも僕はその日、彼女をちんげさんと呼ぶことはなかった。
そして、秋も深まってきた今朝だ。
遅刻には厳しい大倉先生が、珍しく時間になっても現れない。ホームルーム開始時刻から5分ほど遅れて、副担任が教室に入ってきた。平常時から目の下にクマのある顔だったが、今朝はいつにも増して不健康そうな表情をしていた。日直の起立の掛け声を手で制して「みんな座ってくれ」と言い、深く息をついてから、話し始めた。
「今朝、ちんげさんの親御さんから連絡があった。ちんげさんが昨晩、亡くなったとのことだ」
一瞬で教室内の空気が凍り、みんなが一斉にちんげさんの席を探して、そこが空席であることを確認すると、女子を中心にざわつき始めた。
「静かに。静かにしてくれ。今朝、時間になっても起きてこなかったので、親御さんが起こしに行ったら、ベッドで亡くなっていたそうだ。詳しいことはまだ分からないが、病死らしいとのことだ。今、大倉先生がちんげさんのお宅に向かっている」
ここまで聞いた女子、おそらくキム子が奇声とも悲鳴ともつかない声を上げて泣き出したことで、教室内は一気に騒然とした。
副担は再度教室内を落ち着かせようとしたが、無理だと悟って大きめの声で一限が中止になること、詳細が分かり次第改めて報告に来ることを告げて足早に教室を去っていった。入れ替わるようにやってきたのは女性の養護教諭だったが、無理に静かにさせるような事はせず、気分が悪くなった者がいれば声をかけるように、とだけ告げた。
騒ぎ出す人はおらず、女子は半数は泣きながら、残りの半数は小声で話し合っていた。男子はほぼ全員が沈痛な面持ちで押し黙ったままだった。あの山田ですら、机の一点をじっと見つめたまま固まっていた。
午前中、1時限ごとにやってくる教師は学年主任だったり教頭だったりとその度に違ったが、次の授業も中止になったことと、詳細はまだ分からないことを告げて、教室の隅に置かれたパイプ椅子に座ったまま、ただ僕らを見守っていた。
昼休み、誰も席を立たないまま半分が経過した頃、大倉先生が教室に入ってきた。そして、ちんげさんの死因は睡眠中に心臓が止まったらしいということ、生まれつき心臓に軽い障害があったらしいが、それが関係しているかは分からないということ、詳しい原因を調査するため遺体は司法解剖に回されるということ、葬儀の日程などは決まり次第改めて知らせがくる予定だということなどを告げた。
結局、その時点で午後の授業もすべて中止となり、うちのクラスだけ下校することが許されたが、明日からは通常授業が再開されること、養護教諭とスクールカウンセラーによるカウンセリングが行われることが記載されたプリントが配られた。
許可はされたものの、すぐに帰ろうとする生徒はいなかった。
しばらくの間、教室内では各々が何かを話し合っていたが、突然ミナ子さんが普段なら出さないような大きな声で誰にともなく話し始めた。
「ちんげさんは! ……『あの子』は、自分がちんげさんって呼ばれることを、どう思ってたんだろう」
その声を聞いて、教室中がスッと静かになった。
「『あの子』は……いつも笑っていたし、気にも留めていないように見えたけど……本当にそうだったのかな」
「私はね、私は、『あの子』のことをちんげさんって呼ぶとき、本当はちょっとだけ気持ちがチクチクしてたの」
「そりゃ、さ。イジメとかで無理矢理つけられた、本人が望まないようなあだ名とかではなかったけど、でも、なんていうか……」
ミナ子さんがそこまで言ったとき、僕は食い気味に言葉を重ねてしまっていた。
「本名だって、別に本人が望んでその名前になったわけではないだろう」
「……」
「女子だから、将来結婚でもすれば名前も変わるだろうけど、現時点でちんげさんはちんげさんだよ」
「……あなただって『あの子』のこと、ちんげさんって呼んでたじゃない」
「そりゃあ呼ぶさ。少なくとも表面上は本人がそれを望んでいたし、本名で呼ぶことを避けるほうがよっぽどひどいと思わないか?」
「それは……そうかもしれないけど……」
「本当に本心から、本人がそれを望んでいたのか、そんなのはちんげさん本人にしか分からないよ」
「……」
それからまた、沈黙が教室を支配した。しばらくして山田が先陣を切って教室を出ていったのをきっかけに、一人、また一人と帰途についた。ミナ子さんは去り際にこちらにやってきて、突っかかるような態度になってしまったことを謝罪した。僕はこちらこそ配慮が足りなかったと告げた。
僕は最後まで教室に残って、窓の外やちんげさんの席を眺めたりしながら、あの日ちんげさんと話した事や、ちんげさんの表情を思い出そうとしていた。けれど、思い浮かぶのは決まって、あのイタズラげなニマニマとした笑顔だけだった。僕は、それが少しだけさびしかった。
水中花の名前も、思い出せなかった。検索しても引っかかるのは昭和の時代に流行した車用のアクリル製のシフトノブ、それも無駄にケバケバしい色をした造花ばかりだった。なんだか無性に気に障ったので、僕はそのシフトノブをポチッた。届いたら机に献花してやろうと思うと、少しだけ気が晴れた。いや、気が触れた、かもしれない。
それから僕は、ちんげさんのニマニマ笑いを再現しようとして、おそらくぎこちない笑顔を浮かべながら、教室をあとにした。
(了)