三等航海士の嘆き
三等航海士の俺は、上甲板から凪の海を見つめていた。
商船第二豊栄丸、四千トン。
この船は現在、海底の砂山に乗り上げて動かない状態にある。航路設定の甘さと操舵ミスが原因だった。
座礁の程度は軽い。
積荷の移動を行い、満潮を待ってスクリューを逆回転させれば、タグボートに頼らなくても脱出できそうに思える。
しかし、座礁してから一時間以上経過したものの、未だ上からの指示はない。
しびれを切らした俺は、二等航海士へ相談するため食堂へ向かった。俺は業務で何か困ったことがあると、直属の上司であるその男に相談することが多かった。
食堂へ入ると、二等航海士は漫画本を片手にカップラーメンを食べていた。
彼は俺に気付き顔を上げた。
「先輩、これからどうするんですか?」
俺は尋ねた。
「どうって、何が?」
間延びした声に拍子抜けする。
「座礁からの脱出についてですよ。うまくやれば自力で戻れると思うんですが。船長からの指示は何かありましたか?」
「自力脱出? 無理無理」
二等航海士は顔の前で手を振った。
「どうしてですか?」
「安易なスクリューの逆回転は事故につながることもあるんだ」
彼は座礁した船舶が自力脱出を試みて失敗した事例を語った。
そして、こう続けた。
「あーあ。もっと慎重に航路を計画しとけばよかったのにな。この辺りは難所なんだ。まあ、航路を決める会議で適当に同意しちゃった俺も悪いんだけどね。もしもあの会議に戻れたら、航路の計画に反対するのになあ」
「今更そんなことを言っても意味なくないですか。この状況を何とかして打開する、建設的な議論をすべきかと」
「お前の言う通りだ」
二等航海士は頷いた。
「ま、権限の無い俺じゃどうしようもない。一等航海士に聞いてみるんだな」
確かに。
職業意識の低い二等航海士では話にならない。
俺は一等航海士の元へ向かった。
一等航海士はブリッジにいた。
頬杖を突いたまま、虚ろな目で水平線を見ていた。
「やあ」
一等航海士が俺に気付いて言った。
「何やっているんですか?」
「海を見てるのさ」
「それは見ればわかりますよ。今後のことについて具体策はありますか?」
「今後のこと?」
「座礁した本船を動かそうとはしないんですか?」
「ああ。そのことね」
他に何があるというのだろうか。
「本当に申し訳ないと思ってるよ。航路を設定したのは私だし、あのとき舵を握っていたのも私だ。もっと気をつけて操舵していれば防げた事故さ。責任は私にある」
「今それを言っても仕方ないじゃないですか」
俺は指摘した。
一等航海士は悲壮感漂う口調で、こう語った。
「あーあ。なんであのときもっと慎重に操舵しなかったんだろ。航海士に向いてないのかなあ。いや、そもそも私に向いてる仕事なんてあるのでしょうかねえ。思えば私の人生は後悔の連続だった。小学生の頃はゲーム三昧で全く勉強しなかった。中学では同級生のいじめを見て見ぬふりをした。高校生の頃、女の子にラブレターをもらったのに、返事をしないままうやむやになってしまった。先月、妻は子供を連れて家を出て行った。原因は私のDV。もしあのとき私がしっかりしていたら。人生を振り返ってみて、そう思うことばかりだ。私は本当にだめ人間さ。私なんて生まれてこなきゃよかった。そうすれば今回の座礁も起こらなかったのになあ」
俺は、一等航海士のあまりにも後ろ向きな言葉にうんざりした。
しかし、さすがは一等後悔士だ。二等後悔士とは後悔のレベルが違う。
生まれてきたこと自体を後悔しているとは。人間にとってこれ以上の後悔はあろうか。
いや、待てよ。
彼は一等航海士である。この船の実質ナンバー2だ。トップには船長がいる。一等後悔士ですら三等航海士の俺には考えもつかない後悔スキルを持っている。その上に君臨する船長は、一体どれほどの卓越した後悔力を見せてくれるのだろうか。
まだ一人で呟いている一等後悔士を尻目に、俺はブリッジを後にした。
船長室の扉を開けると、案の上船長は塞ぎこんでいた。
「船長」
「ああ、君か」
「座礁した本船を動かすための指示をお願いします」
「そんなものはないよ」
ここまでは想定済みの返答だった。
「あーあ。わしは本当に船長失格だ。何で座礁させちゃったんだろ。船長なんかになるんじゃなかった。後悔だ後悔だ。わしなんて存在しなければよかったのに。元をたどると祖父母が両親を生んだのが失敗だった。さらに遡ると人類など誕生しなければ、こんなことにはならなかった。いや、原始の哺乳類、無脊椎動物、多細胞生物、真核生物……。35億年前、地球上に生命が誕生したこと自体が後悔に値する。生命なんて存在しなければ、船が座礁することもなかったのに」




