四季折々のショッピングを、貴方と
毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字程度の百合短編を投稿しております。
今回は、シンプルに、
『文句を言いつつも、気になり合う二人』というテーマで作成しました。
何かと堅い文章になってしまう自分ですが、
今回は、比較的読みやすくなったのではないかと思います。
時間が許すのであれば、是非立ち寄っていってください!
では、拙い文章にはなりますが、週末の暇つぶしにでもどうぞ!
(1)
私は、『ヤバい』という言葉が嫌いだ。
この世の中には、あらゆる気持ちを的確に説明できる素敵な言葉が、山のようにあるのに。
『ヤバい』という一言は、それらの活躍の場を奪ってしまう。
それと同じ理由で、『エモい』も、大嫌いである。
女子中学生や女子高生が使っているまでなら、まぁ、許そう。
学校や家族、習い事ぐらいしか、外との関わりがないことを考えれば、無理もない話だろうから。
だが…。
眉間に皺を寄せ、私――箱崎言音は、ゼミ室の真ん中にいる騒がしい一団を見やった。
そこには、派手な見た目をした生徒が複数名いた。
どいつもこいつも、頭を馬鹿の一つ覚えみたいに金色に染めて、耳にはギラギラしたピアスを着けている。
見た目だけでも相当、視覚的にうるさい。そのうえ、大きな口を開けて、ゲラゲラ笑い、プライベートを撒き散らすことに抵抗がない、厚顔無恥な生き物。
その中でも、私が特に気になってしまう女が、机の上にぽん、と尻を乗せた。
理解不能なほど丈の短いスカートからは、白い太ももが大胆にさらされており、そのうえに足を組んでいるため、下着が見えないのが不思議なほどだ。
上に着ている白のシャツも、意味不明なくらい胸元が開いている。純潔を象徴するはずの白が、汚されてしまったかのようで、酷く哀れだ。
イライラした気持ちのまま、横目で女の太ももを見ていると、偶然、彼女と目が合ってしまった。
彼女はゆっくりと、私の目線の先を追った。正確には、私が見ている方向だった。
瞬間、女の白い顔が真っ赤に染まった。
バッ、と女はだらしなく開いた太ももを閉じ、スカートの裾を伸ばす。それから、射殺すような視線を私に向けてくる。
火花が弾けるみたいな眼差しに、思わず目を細め、視線を逸らす。
…なんだ、あの目は。まるで、私があの女の下着でも見ていたみたいではないか。
(別に、今日は見えていないのだけれど…)
私は、大きなため息を吐きながら、たいして使わないテキストの文字に目を落とした。
――許すまじ、矢場純歌。
未だに私のほうを睨んでいる、矢場の視線を感じる。
人には視線を感じる能力はない、というのが科学的根拠に基づいた通説だそうだが、私はそんなことはないと思う。
頬にジリジリと刺さる、矢場の視線。これが、私の錯覚だというのか?
一つ、試すつもりで首をほんの少し傾け、矢場の様子を窺う。
やっぱり、彼女はまだ私を見ていた。
恨めしい目つきで顔を赤く染めている矢場に、周囲のホストみたいな男が、それを揶揄する。
「おい、矢場ちゃん。顔赤くね?」
「はぁ?赤くなってねぇし」ようやく、矢場は私から目を逸らした。
「いやいや、真っ赤だって。なに?照れてんの?」
また違う男子がふざけてそう言った。
矢場は明らかに不愉快そうな顔をして、即座に否定する。
「意味分かんないし。アンタたち、目悪すぎ、ヤバくね?」
出た。『ヤバい』。
むくむくと、苛立ちが胸の奥から込み上げてきた私は、すぐさまイヤホンに手を伸ばした。
流すのは、ジャズミュージック。別に造詣が深いわけではないが、そんな自分にも聞く権利はあるだろう。
管楽器の鼓動を震わす音が、無意識のうちに私の指先を操る。
糸で上から吊られるマリオネットみたいに、リズミカルに、跳ねる。
そんな音の奔流に流されながらも、頭の中は、矢場の鬱陶しい喋り方と、真っ白い太もも、胸元でいっぱいだった。
そもそも、破廉恥すぎる。
ああいう、貞操の緩い輩は、きっと、夜な夜な違う人間とベッドを共にしているに違いない。そうに決まっている。
頭の軽さをアピールする服装が、何よりもの証拠だ。物的証拠ではないが、尻軽な女というのは、得てしてああいう服装を好むのではないか。
かき鳴らされる音楽は、私の頭の中から、そうした毛嫌いすべき痴態を追い出すことは出来なかった。そのせいで、また視線は、矢場のほうに吸い込まれていた。
今度は、矢場の際どいラインを鑑賞する、もとい、見咎める暇もなかった。
いつまでもこちらを監視していたらしい矢場は、すぐに私の視線に気が付いて、机の上から体を下ろした。
それから、ついてもいない埃を払うかのごとく、ミニスカートの裾を叩く。
またも、じぃっと彼女が私を見てくる。今度は周囲のお仲間もこちらを見ており、数による圧力に押され、私は意味もなく正面を向いた。
やがて、教授が入ってきて、ゼミが始まった。どうでもいい講義だ。
ゼミの時間のほとんどが、テキストを読み上げて、感想を言うだけのナンセンスなものとして浪費された。
初老の教授だったが、これは、本来希望していた教授によるゼミではない。抽選で落ちたのだ。
ぐるりと四角形に並んだ席を順々に、読み上げの役目が回る。そして、例の騒がしい集団の一角に差し掛かった。
簡単な漢字でさえまともに読めない連中に、虫唾が走る。一番頭に来るのは、自由時間は教室中に響き渡る声を上げているのに、一人で舞台に上げられると、蚊の鳴くような声になることだ。
一人では怯えて縮こまる、羊の群れみたいな連中。
本当に、彼らは軽蔑するに値する存在だ。
ただ…、矢場純歌は違った。
自分の順番が回ってきても、縮こまるどころか、すっ、と背筋を伸ばし、つむじから抜けるような凛とした強い声音で読み上げを行った。いや、読み上げというよりも、朗読といったほうが相応しいクオリティだ。
読み終わり、教授にその堂々とした態度を褒められる。それに対し、満面の笑みで応じた後、仲間にピースサインを向ける矢場は、私の目に格好良く映った。
それがまた、気に入らない。
つい、その感情が表に出ていたのか、再度、矢場と視線が交差してしまう。
直前まで、明るくお調子者らしい笑みを浮かべていたのに、まるでスイッチでも切り替えたかのように、渋面を作ってこちらを見返す。
とんだご挨拶だ、と私は心のなかだけで悪態を吐いた。
自分の番が回ってきても、私は落ち着いたものだった。
高校時代は放送部だったため、声量はもちろん、滑舌やアクセントにだって自信があった。実際、教授は矢場にしたのと同じように私を褒めたのだが、同列にされて、かえって不愉快だった。
教授に軽く一礼して、当然だと言わんばかりに鼻を鳴らす。もちろん、誰にも聞こえない程度に。
この傲慢さを隠して生きてきたわけだが、自分が思っている以上に隠し通せていないのかもしれない、と最近は時々考える。
ほら、事実、今の仕草にも気付く人間がいる。
感じるはずのない視線を感じ、ぶつかるのは承知の上で、視線を斜め30度先に向ける。
髪の色と全然マッチしていない、黒々とした大きな瞳。濃い目の化粧をしているせいだろう、大輪の花のごとく見える目だ。なんとなく、ラフレシアを彷彿とさせる。
私と矢場の間で、閃光みたいな時間が流れる。
目の奥で互いを牽制し合うように、あるいは、意図を探り合うように静止する。
周囲の誰も、それには気づけない。
時間にしてみれば、ほんの一瞬の出来事だった。だが、一時間半の間に、何度もそれは繰り返された。そのせいで、教授が講義の終わり際に口にしたゼミ旅行の話だって、まともに私の頭に残らなかった。
(2)
大きなため息と共に、大きく前の座席の下に足を伸ばした。だが、狭いバスの中ではすぐに限界が来てしまう。
自慢の美脚も、こういうときは裏目に出るな、と矢場はどこか辟易とした心持ちになって考えた。
今のため息に、隣の席の友美が反応する。大丈夫、と聞かれるも、心の底から心配している様子ではない。
友美は、デニム生地のホットパンツにビビットカラーのTシャツ、その上から薄手のジャケットを羽織っていた。秋口とはいえまだ暑さの残る季節には、ぴったりの服装だろう。
流行りに乗れているかは別としても、少なくともオシャレを楽しんでいることは、シャツの下からはみ出ているタグを見れば、想像がつく。きっと、この日のために新しいものをおろしてきたのだろう。
バックの中のソーイングセットから、小さな鋏を取り出す。それから、口元の前に人差し指を立ててからウインクし、友美のお茶目な忘れ物を切り取る。
「うわっ、私マジヤバーい。ありがと、純歌」
「いーって、気にしない、気にしない」
顔を真っ赤にして謝る友美が可愛らしい。
そうだ、人間はこうでなくてはならない。つまり、愛嬌が大事ということだ。
多少の欠点は、大抵が愛嬌で補える。人は、親しみを持って接してくる相手を簡単には無下に出来ない生き物なのだ。
だから自分は、この愛嬌を持ち合わせない人間をもったいない、と思ってしまう。ただ、ここで断っておきたいのが、もったいない、と思うだけだということだ。
つまり、嫌いではないということ。
クールだろうと、淡白だろうと、それは個々人の性格なので、そもそも好悪の対象ではない。
…ただ、ただ一点だけ、私はどうしても許せないものがある。
例えるなら、そう、美しい花に水をあげない、といった感じだろうか。いや、あげないばかりではない。
周囲に生える雑草を抜かず、美しいものを、美しいままにしていられない、その努力を怠ることだ。
ちょうどいい実例がある、と矢場は未だに顔を赤くしている友美の向こう、通路を挟んだ隣のシートを見やった。
目鼻立ちの整った、美しい顔立ち。
長いまつ毛を乗せた、強い意志の感じられる瞳。
メタリックブルーのイヤホンが装着された、形の良い耳。
そして、無造作に伸ばされてはいるものの、一本一本が脈打つかのような、繊細なロングヘア。
箱崎言音、いつ見ても、惚れ惚れする造形だ。
矢場が今まで出会ってきた同世代の中で、こんなにも芸術的な美しさを体現する者はいなかった。
そう、単に綺麗というわけではない。これが重要だ。
容姿端麗な人間など、人が多いところに行けば、何人でも見つかるが、彼女のような存在はまた別だ。
常に愁いを帯びたような表情でありながら、孤独の中でも、凛として佇む姿。
長い手足に、凹凸には乏しいが、余計なものを削ぎ落したようなスタイリッシュなスタイル。
自ら孤独を選び取っているかのような立ち振る舞いが、かえって矢場の注意を引いた。
初めて箱崎のことを見たときは、驚きのあまり、思わず立ち止まって凝視してしまうほどだった。
そのときも彼女は、こちらのことなど見えていないかのように、横をすり素通りしていくだけだった。
だが、箱崎のことを目で追う日々を繰り返しているうちに、どうしても許せないことが見つかってしまった。
…服装が、ダサいのだ。
オシャレに興味がない、などという次元を超越している。もはや、破滅的、壊滅的なセンスの無さだ。
矢場は、友美を見ているフリをしながら、今日の箱崎の服装をチェックする。その目つきには責めるような鋭さまで混じっていた。
靴は無難な黒のスニーカー。まぁ、これはいい。問題は他にある。
迷彩柄のカーゴパンツもなかなかのものだが、わけの分からないおばあさんが、中指を立てている絵がプリントされたシャツに関しては、イカレているとしか思えない美的センスだ。
正直、見ていて気が遠くなるような気分になる。
どうして、あのスラリとした足つきを隠すようなカーゴパンツを履くのか、というかなぜ迷彩柄なのか、そのおばあさんは誰なのか、何の意思表示なのか…。
その容姿からして、かなり目立つ箱崎だからこそ、異常性がより強い輝きを放っている。鈍色の光だ、褒められたものではない。
サービスして点数をつけたとしても、今日の服装は5点である。5点は靴の分だ。
これでは、折角の容姿と雰囲気が台無しだ…。もはや、オシャレや美に対する冒涜ともいえるだろう。
つい、顔が渋くなってしまう。
もったいない…。私が箱崎だったら、もっとオシャレを楽しむに違いない。そう、例えば、足の細さをアピールするためのスカート、スキニーでもいい。
冬はロングコートを身にまとい颯爽と町を闊歩する。それだけで、一体どれだけの衆目を浴びるのか、想像するだけでもドキドキする。
上はそう、シンプルに白のブラウス。女性らしい体つきではないことを活かして、中性的にベストなんかを着てもいいのではないか…。
夢が広がる。だが、箱崎はそんなものには興味がないのだろう。
ぼうっと妄想の彼方に飛んで行っていると、いつの間にか、箱崎がこちらを見つめていた。睨んでいた、といったほうが正しいか。なにぶん、彼女は感情が表に出ないため、目が合っただけでそう見えるのだ。
矢場にとって、箱崎と目が合うのは、なにも珍しいことではなかった。
それもそのはずである。矢場はほぼ毎日、箱崎の私服にチェックを入れては、嘆きに暮れているのだから。
それにどうやら彼女は、自分が太ももまで見えるミニスカートや、胸元の開いている服を好むことを、よく思っていないらしかった。
今は座っているので、視線はしっかりと互いの瞳に向けられていたが、よく箱崎は難しい顔をして、こちらの太ももや、胸元を見ていた。
下品だと言いたいのだろう、と矢場は察していたが、それでも無遠慮に凝視されるのはさすがに恥ずかしい。
気を抜いているときに、ふと彼女が見ていることに気付くと、もしかすると下着が見えていたのではないか、と顔から火が出るほどの羞恥心に苛まれる。
いくら同性とはいえ、あれだけ容姿が整っていると、もう、そういう線引きは無駄なものと化す。
「ねえ、純歌?聞いてる?」と隣の席の友美がぼやく。
慌てて視線を逸らし、「あ、ごめん、聞いてなかった」と申し訳なさそうに返事をすると、友美はちらりと矢場のほうを振り向き、訳知り顔で頷いた。
「またなのかぁ」と声を潜めて問われる。
「いや、なに、別になにもないけど…」
「嘘だぁ、どうせ箱崎さんのこと見てたんでしょ」
「…まぁ、そうだけど、さ」
矢場は渋面を作り、言い澱んだ。
「ほら、今日もヤバめな服装してるじゃん?それが気になっただけ」
「ふぅん…」
物言いたげな呟きと表情に、「なんだし」と口を尖らせる。
困ったことに、自分には、数週間前からある疑惑がかけられていた。
「純歌ってば、マジで箱崎さんのことラブじゃん」
「あぁもう、マジやめろし」
「照れんなって、このこのぉ」
指先で脇腹をつつかれ、思わず体をよじる。
そう、自分は箱崎の私服チェックする際、相手を凝視してしまう癖のために、彼女のことが好きなのでは、という疑いをかけられているのだ。
同性愛なんて、このご時世、珍しい話ではない。実際、高校の頃にもそうしたカップルはいたし、大学でもチラホラ見かける。
LGBT、多様性の時代、大いに結構。
別に差別的な考えがあるわけではなかったが、あのセンス崩壊女に好意があるとは思われたくなかった。
だって、そうだろう。
箱崎言音は、私が愛しているオシャレや美とは、対極の位置にある存在なのだ。
彼女のことを愛している、となれば、それは私の好きなものへの裏切りにも等しい。
ポリシーにも似た矢場の価値観が、ぐらぐらと揺れていることにも気付かず、友美は楽しそうに続ける。
「でもでも、箱崎さんもよく純歌のこと見てるじゃん。両想いだったりして」
「いや、なんで前提が私の片思いみたいになってるわけ?」
「あ、やっぱり両想い?」
「あーもぅ、やめやめ!」
無理やり話を断ち切ったつもりだったが、そっぽを向いた矢場に対して、友美は延々と話を続けてくる。
「あ、いいこと考えた!」
弾かれたように、彼女が声を上げた。周りが騒がしく、箱崎がイヤホンを着けているからいいものの…。
「聞きたくないけど、どうせ言うんでしょ」
「当たり前じゃん」と今度は少し声を落として友美が言う。
どうせろくでもないことに決まっている、と矢場が眉をへの字に曲げる。
「純歌が、箱崎さんのコーデをしてあげればいいんだよ!」
きょとんとした顔を浮かべた後、矢場は怪訝そうに声を漏らす。
「はぁ?」
「だって、正直さ、箱崎さんって服装さえオシャレになったら、無敵じゃん。あんな美少女連れ回せるの、絶対に楽しいって」
そう告げられて、思わず矢場は想像してしまう。
時の風と共に巡る四季の中、箱崎と一緒に過ごす。
衣替えの度に、色とりどりの彼女を見ることが出来る。
しかも、彼女が生まれ変わる瞬間を見られるのは、誰でもない、私が最初。
桜色をまとう春も、
肌の眩しい夏も、
色の変わる秋も、
コートのたなびく冬も…。
そのとき、自分の体が激しい動悸と共に熱を帯びるのを感じた。
自分でも原因不明のそれは、瞬く間に全身を痺れさせ、頬を紅潮させた。
あんなダサい服ではなく、ちゃんと箱崎の良さを引き出せる服を…。
そこまで考えてから、矢場はどんよりとした気持ちになった。それを表に出さず、呆れたような口調を装う。
「絶対に無理。だって、箱崎さん、私に全く興味ないもん」
「えぇ?そうかなぁ」
「そうだって」
初めて彼女と出会ったとき、驚きと感動で足を止めて見た、箱崎の顔つきを思い出す。
酷く無感情な目で、私のことなんて見向きもしなかった。
「そっかぁ…。んー、オシャレな純歌が箱崎さんを変身させて、それから二人がくっついたら…、エモいと思ったけどなぁ」
他人事と思って、勝手なことを、と矢場は友美の頭を軽く小突いた。
(3)
渋々参加したゼミ旅行の舞台は、古ぼけた温泉街の旅館だった。
きっと一昔前には、人で賑わっていただろう通りも、ほとんど人の姿はない。もちろん、館内も同様だ。自分たち以外は、老夫婦らしき人たちが数組いるだけだった。
参加しなければ、単位を与えないというのは、些か傲慢がすぎる。強制力を持たせなければ人が集まらないゼミなど、さっさと閉講してしまえ。
5人部屋に寝泊まりするのも、食事を一人で済ませられないのも、何もかもがストレスだった。
ただ、温泉だけは別だ。
効能云々に興味はないものの、単純にとてもリフレッシュすることが出来そうだ。まあ、旅行のストレスと相殺して、プラスマイナスゼロかもしれないが。
今は、人が多い時間は避けて、夜中に地下の大浴場に向かっている途中だった。下りるために使ったエレベーターが、酷く鈍い動きだったことを一瞬だけ思い出す。
もうすぐ最終利用時間が差し迫ってはいたものの、後一時間程度なら大丈夫だ。
長い通路を曲がって、大浴場あちら、という標識に従う。すると、道の途中にあった別の看板が目に入り、私は立ち止まった。
『言の葉の湯』…。どうやら、貸し切り風呂らしい。多少贅沢してでも、こちらを選べば良かったか、と残念な気持ちになる。
今からでも、間に合うだろうか。そう考えた私は、近くを掃除していた従業員に声をかけた。
「あの、貸し切り風呂なんですけど…」
声をかけられた初老の女性は、一瞬だけ、ぎょっとしたような表情を浮かべた。この時間帯に人がいるとは思いもよらなかったのか。
しかし、彼女はすぐに穏やかな表情を繕ってみせると、全て承知している、と言わんばかりに何度も頭を下げた。
「ええ、大丈夫ですよ。お聞きしています。鍵ならすぐに開けますので…」
「え?」予想していなかった返答に、目を丸くする。「あの…、お代は…?」
「F大学の学生さんですよね?すでに頂いております」
そう答えると女性は、素早く貸し切り風呂の扉の鍵を開けて戻り、再び掃除に精を出し始めた。なんとなく、これ以上声をかけられなくなって、私は少しの逡巡のうえ、向かう先を変えた。
もしかすると、ゼミ自体で初めから借りているのか?
だとすれば、最初からみんなに教えておけよ、とも思ったが、どうせ私が聞いていなかったのだろう、と自分で納得する。
言の葉の湯の扉に手をかける。なんの抵抗もなく、扉が開いた。中に入り、すぐに鍵を下ろす。
私が中に入ったのをセンサーが検知したのか、パッと照明が点灯した。
これは幸運だ、とさっと着ていたパジャマを脱いで、髪をゴムで結い上げる。それからタオルを巻いて、浴室の前へと移動する。
ここからでも、わずかながら檜の匂いがする。中は檜風呂になっているのだろう。
心を小躍りさせながら、ガラス戸の向こう、もうもうとした湯気がとぐろを巻いている浴室へと入った。
途端に、檜の強い香りが鼻孔を刺激した。普段は嗅ぎ慣れない匂いなのに、一瞬でそれが檜の匂いだと思い出せるのは、不思議なことだと思う。
入ってすぐの正面には、大きな窓が何枚も張られていた。もちろん、外の庭には背の高い塀が設置されていて、外からは見えないようになっている。
窓の向こうに見える、くすんだような星空が、なんだか今夜を特別なものにしてくれそうで、自然と頬が緩む。
風呂桶にお湯を入れて、体に何度かかける。温度の高い液体が、凹凸の少ない私のボディラインをなぞるように流れていく。それがまた、他人との時間で強張った精神を解きほぐす。
ゆっくりと、足先から順に檜の浴槽へと身を滑り込ませる。ぬるぬるしたお湯の感触に、あぁ、温泉だなぁ、と実感する。
体の奥に溜まった何かを吐き出すように、自然と吐息がこぼれた。一瞬で体の力が抜けていくことで、それまで全身に力が入っていたのかと思い知らされる。
「はぁ…、良いお湯…」
そう呟きを漏らした直後、音を反響する浴室に、呟き以外の何かが響いた。
まるで誰かが息を呑んだような気配に、私の体に、再び力がこもる。
「誰?」
気のせいだろうか、と思いつつも尋ねる。出来れば、何も返事がないほうが安心するのだが…。
だが、私の願いも虚しく、湯気の向こうで、誰かが言葉を言い淀んでいるような、小さな呻きを漏らしているのが聞こえた。
じっ、と浴槽に留まり、相手の出方を窺う。そうしながら、先ほどの従業員がミスを犯したのかと、苛立ちを覚える。
どうするべきか、すぐに出るべき?相手が男性であるという可能性もある。そうなってくると、控えめに言っても歓迎される状況ではない。
ただ、相手も困惑しているのは気配を通して伝わってくるので、すぐさま襲われるということはなさそうだった。
すると、タイミング良く、換気装置が作動し始めた。湯気がこもりすぎて、室温が上昇しすぎるのを防止するためか…。正直分からない。
数秒もしないうちに、湯気が晴れた。
まるで、魔の霧が魔法によって打ち払われているかのようであったが、その先から私を見つめている視線とぶつかると、驚きのあまり、どちらからともなく声を発した。
「矢場さん…?」
「…箱崎さん」
そこには、化粧を落としているのか、普段よりも地味な印象を受ける矢場純歌がいた。浴槽の底にちょこんと腰を下ろして、いつもどおり私を見ている。
いつもと違いがあるとすれば、互いに一糸まとわぬ姿であることと、眼差しが驚きと羞恥に塗れていることだろうか。
口をぱくぱくさせていた矢場は、ずり落ちかけていたタオルを胸元に寄せると、そっぽを向いた。
「ど、どうして箱崎さんが、ここにいるの?」
「それは、私も聞きたいんだけど…」
「わ、私は、家族風呂を予約してたの…。友美たちが、もう眠いとか言うから、一人で来たけど…」
話を聞くに、どうやら矢場は先ほどの従業員に、女子大生のような人が家族風呂を訪れたら、入れてやるように頼んでいたようだ。
女性が早とちりで私を案内してしまったことで、この予想しない邂逅は起こったらしい。
なるほど、つまり招かれざる客は私のほうということか。
なにが幸運だ、私が変態みたいになっているではないか。
慌てて腰を上げて立ち上がり、矢場を見下ろすような形で言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい、私の――というより、従業員のミスみたいね。邪魔したわ」
本当はもっと貸し切り風呂に浸かっていたかったが、互いに邪魔になりかねないとあれば、ここは私が消えるのが道理だろう。
そう判断し、浴室を後にしようと考えたのだが、突然、矢場が立ち上がって私を呼び止めた。
「ま、待って、箱崎さん!」
四方の壁に反響して、矢場の甲高い声が拡散する。
「…何かしら?」淡白な返しに、矢場が言葉を詰まらせたのが分かった。少し申し訳ないことをしたと反省し、今度は柔らかく聞き返す。「どうしたの、矢場さん」
「いや…」と結局、彼女は言葉を濁す。
なら、最初から呼び止めるな、と眉間に皺が寄りかけるが、いつもとは状況が違う。さすがの私も、真正面から相手を威圧するような真似は出来ない。
湯気のベールが消えたことで、私たちの裸体を隠すのは、タオルだけとなってしまった。
そのため、私の視線は矢場の困ったような瞳から、見え隠れしている瑞々しい肢体へと落ちる。
自分とは差がありすぎる、胸元。
日本人離れした、白磁器じみた太もも。
ちゃぷちゃぷと、私と矢場の太もも辺りで、波が小さな泡を作っていた。
きゅっ、と矢場がタオルで胸元をしっかり隠す。それから少し広げて、体の半分以上がきちんと覆われるようにした。
視線を瞳に戻すと、やはり、いつものごとく目が合った。しかしそこには、こちらを責めるような色はない。
てっきり、下品な視線を向けたことに怒っているとばかり思ったが、どうやらそうではないらしい。
矢場の観察に一旦区切りをつけた私は、言葉の舟を半端に送り出したままの矢場に言った。
「何もないなら、私は上がるわ」
言うが早いか、私がくるりと背中を向けて湯船から上がろうと、片足を浴槽の外に出したとき、大きな声で矢場が再び呼び止める。
「待って!」今度は、言い淀まなかった。「あの、友美たち、多分、来ないと思うから…。箱崎さんがいいなら、入っていかない?」
「え?」
「いや、折角借りてるのに、私だけってのも、もったいないし…」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
だが、矢場がその発言を後悔したかのように、「む、無理なら、いいけど…」と言ったことで、聞き間違えではないと確信する。
――…矢場純歌。正直、得意な相手ではない。いや、私に得意な他人などいないのだが…。
ちらり、と背中越しに矢場を見つめる。バレないように見たつもりだったが、相手もこちらを真っ直ぐ見返していたので、あまり意味はない。
まあ、今のところ矢場は、例の鬱陶しい喋り方をしていない。
それさえなければ、会話してみてもいい、とは確かに前々から思っていた。
彼女は、羊の群れの中にいる、羊ではないものだ。
その正体を、見極めたいと思う自分がいる。
返事をするために、小さく息を吸い込む。細やかな胸が膨らむが、矢場に比べたら色気もなにもない。
「それなら、お邪魔させてもらってもいいかしら」
踵を返し、湯に腰を埋めながら、私は告げた。
ぱぁっ、と矢場の顔が明るくなる。表情の変化に富んでいるのも、ボディラインと同様、自分とは真反対だ。
私に続くように矢場もまたお湯の中に戻った。お湯の温度が高いためか、彼女の顔は茹でられたように赤くなっている。
それからは、お湯の注がれる音だけが浴室に規則的に響いていた。わざわざ呼び止めたのにも関わらず、矢場はまるで口を開く気配がない。
互いに無言の時間が続いた。
これでは、折角の温泉もリラックス出来そうにない。
仕方がなく、私は呟きを漏らした。
「わざわざ、貸し切り風呂まで借りたのね」
こちらから口火を切るとは、想像もしていなかったのだろう。矢場は、一瞬だけ目を大きく見開いてから、慌てた様子で返事をした。
「あ、うん。温泉好きだけど、知らない人と入るのは、ちょっと苦手でさ…」
「そう」
あんな大胆な服装は出来るのに、他人との入浴は苦手なのか、と不思議に思う。
「箱崎さんは?どうして、こんな時間に?」
「私?」と尋ね返すと、即座に何度も頷かれる。その一生懸命な様が、無意識に凝り固まっていた肩をほぐす。
「私は…、一人が好きだから。ゼミのメンバーと一緒にならないよう、時間帯をずらしたの」
「あ、そうなんだ。ごめん…」
「どうして?なぜ、矢場さんが謝るの?」
「いや、私がちょっと強引に引き止めたしさ」
あぁ、と納得する。少しだけ眉が下がり、気を落としたような矢場の表情が、なんだか胸をざわつかせる。
「別に気にしないで。矢場さんなら、構わないから」
「へ?」
矢場の気の抜けた返事に、しまった、と私はすぐに訂正する。
「へ、変な意味じゃないから」
「あ、あー…うん!そうだよね、うん…」
誤解は解けたのだろうか。しかし、どっちにしても変な空気は残った。
ぼそり、と矢場が、「あー、ヤバい」と顔を肩まで深くお湯に浸かりながら呟く。嫌いなはずの『ヤバい』が、なぜか気にならなかった。
それから私たちは、いくつもの言葉を交わした。
最初はぽつり、ぽつりと、小雨の日に雨樋から落ちる、雨垂れの音のような会話だった。
しかし、そのうち互いに饒舌になり(私の場合は、それでも一般的には寡黙と思われるだろうが)、大学に関することから、プライベートにまつわる話までするようになった。
我ながら、信じられない気分だった。自分のことを他人に語るなど、ナンセンスだと思ってきたのに。
正直、想像していたよりも矢場の知能指数が低くはなかったことが、一つの大きな原因だった。もちろん、それだけが彼女の魅力ではない。
矢場がする、いちいち大きなリアクションが心地よかった。
なるほど、今までは、馬鹿みたいだと考えていた彼女のリアクションだったが、話し手はそれだけで、相手が話を聴いているという実感を得られるようだ。
理に適っている。
奇妙な昂揚感と共に、私は口を開いた。
「矢場さんのこと、誤解していたわ。はっきり言って、うるさいばかりの人かと思っていたけれど、とっても聞き上手なのね」
ストレートな褒め言葉に、矢場がたじろいで、顔を赤くしそっぽを向いた。
「ふ、普通だよぉ?きっと」明らかに照れている。「そんなことないわ。こんなに気持ちよく人と会話できたのは、久しぶりなの」
「そ、そんな、大げさだし…」
「本当よ?まあ、その自覚がないのなら、きっと矢場さんは、無意識に人の気分を良くする、魅力のある人なのね」
かあっ、と彼女の顔が真っ赤になった。何度も紅潮していた矢場の頬だったが、今まで一番赤く染まっていた。
矢場は、首の辺りまで湯に沈むと、ほとんど聞こえないような声で言った。
「ありがと…。でも、魅力っていうなら、むしろ、その、箱崎さんのほうが…」
「え?」
「こういう褒められ方は、嫌いかもだけど、ルックスが綺麗すぎて、ヤバいっていうか…」
言葉の途中で、口元まで湯船に浸かった矢場が、最後に、「マジマンジ」という謎の呪文を放っていたが、さすがに聞き間違いだと思いたかった。
…もはや、日本語ではないからだ。
なにはともあれ、どうやら容姿を褒められたようだ。社交辞令だとも分かっていたが、不思議と、矢場の言葉は本心のような気もして、つい頬が緩む。
「ありがとう。でも、そういう話をするなら、私よりも矢場さんのほうが優れていると思うわ」
目線だけで、矢場が問い返してくる。体のほとんどを水につけて覗き込んでくるその姿は、水の妖怪みたいだ。
「だって、私は男性みたいな体つきだから。矢場さんみたいにスタイルが良い人は、単純に憧れるの。あ、誤解しないで、コンプレックスではないのよ?」
普通に褒めたつもりであったが、さすがにいきなり体のラインの話をするのは、良くなかったのかも知れない。その証拠に、矢場はとうとう、ブクブクと水中で泡を吐き始めた。
失礼、というか、品のない褒め言葉だったか。これでは、彼女たちのことを笑えない。
しばらくは、そうして潜水していた矢場だったが、やがて酸素の限界が来たのか、勢いよく浮上してきた。
髪の張り付いた顔には、形容し難い感情がくすぶっているように見える。
ややあって、彼女が恨めしそうな声音で告げる。
「…箱崎さんって、清楚そうに見えて、結構ムッツリじゃん」
「む、ムッツリ?私は、ただ羨ましいな…って」と驚愕しながら返すも、彼女は勝手に話を進めていた。
「ま、まぁ?そんなに言うなら、触ってみる?…なーんて」
後になって考えれば、ちょっとした冗談のつもりだったのだろう。しかし、私はその言葉を耳にした刹那、ぷかりと浮力を持って湯船にたゆたう、豊かな双丘に意識が釘付けになってしまったのだ。
…触る?あれを?
一体、どれだけ柔らかいのだろう、と想像した途端に、くらりとする目眩を覚えた。
どうやら、のぼせてしまったらしい。長風呂をしすぎたか。
矢場に断りを入れることも出来ず、慌てて湯船から出る。
とりあえず、温いシャワーでも浴びて、体を冷やそう。
そう考えて、鏡の前の椅子に腰を下ろしたとき、私は驚きのあまり目を見開き、硬直した。
――…顔が、真っ赤だ。きっと、さっきの矢場さんよりも…。
照れている、と自覚したとき、頬に差した朱はいっそう赤く燃え上がるのだった。
(4)
結局、変な空気のまま脱衣所に戻った二人は、棚を挟んで着替えを行った。
矢場は、自分の発言のせいで真っ赤になった箱崎のことを思い出しながら、急に彼女と親睦を深められたことを、僥倖だと感じていた。
あの箱崎が、自分のことを褒めてくれた。
――きっと矢場さんは、無意識に人の気分を良くする、魅力のある人なのね。
いやいや、箱崎さん、自分のこと、鏡で見たことある?
――矢場さんみたいにスタイルが良い人は、単純に憧れるの。
確定。鏡ないわ、箱崎さんの家。
身悶えするような感情が、何度も矢場の頭の中をリフレインする。
旅館から借りている浴衣に袖を通す。肌に擦れる慣れない布地の感触が、逆に非日常を感じて、独特の味が出ている。
ふと、浴衣を整えながら、今朝、バスの中で友美と交わした会話を思い出した。
箱崎を四季折々の服装にコーデして、デート…。
いや、待て、デートの話はしていない。
つまり、今私が付け足したのは幻想、願望?
もう湯船には浸かっていないのに、顔が熱くなる。
なんとなく、気付いてはいたけれど…。
もしかすると、私は、彼女に一目惚れしていたのだろうか。
あの日、棒立ちの私には目もくれなかった、孤独以外追いつけない、颯爽と歩く箱崎を見たときに…。
自分の気持ちに正解不正解を出すのは、あまり得策とは思えない。
きっと、正しい答えがあるとすれば、それはある日、唐突に真実として目の前に具現するはずだから。
今は、箱崎とたくさん話してみよう。彼女のことをより多く知って、それから自分の抱くこの気持ちに、名前をつけてあげればいい。
爽快な心情で、そう決断した矢場は、そろそろ着替え終わっただろうかと、棚の向こうに顔を出した。
「…う」妙な声が、喉をついてこぼれる。
鏡越しに目の合った箱崎が、くるりと振り返って口を開く。
「ああ、着替え終わったの?」
「…うん、まぁ」
「良かった。部屋は違うけれど、一緒に上に戻らない?」
「…う、ん」
歯切れの悪い矢場に対し、箱崎は軽く小首を傾げて見せた。
あぁ、そうか。そうだった。
扉を開けて、『言の葉の湯』を後にする。もう従業員はいなかったが、気にも留めずに箱崎はエレベーターのほうへと進んでいく。
エレベーターを待っている間、箱崎と並んで立つ形になる。矢場は、横目で箱崎のほうを見やると、じぃっとこちらを凝視してくる双眸に目を細めた。
パジャマがスウェットなのは、許容範囲。オシャレに興味のない人は、ジャージやスウェットをパジャマとして愛用するのだと、なんとなく想像していたからだ。
だが、いくらファッションセンスがないとはいえ…。
(…なんで、ゴリラなの?)
「ん?どうかした?」
「い、いや!なんでもないよ」慌てて手を左右に振る。
箱崎のグレーのスウェットにプリントされた、雄々しい顔つきをしたゴリラに、目線を奪われる。
せめて、ワンポイントのプリントなら、首を傾げるぐらいで済むが、どうして全体にプリントしてあるのか。
ゴリラを祖とした新興宗教の信徒なのか、と疑いたくなるくらい、威風堂々とした佇まいのゴリラだ。
…この人、本当に美的センスを矯正したほうがいいんじゃないだろうか。
チン、とエレベーターが到着した音が鳴る。それから、なぜかしばらくして、扉が開いた。
薄暗く狭い、古ぼけたエレベーターだから、反応が遅れているのかもしれない。
先に乗り込んだ箱崎は、『開』のボタンを押したままで、矢場を待っていた。この狭い箱の中、ゴリラとゼロ距離で目が合わないことを祈るほかない。
ぎこちない動きで、扉が閉まる。それからややあって、ガクン、という衝撃と共に、エレベーターが上昇する。
まあ、どうせ一瞬だし、いいか。
そう思っていた矢場は、この先自分の身に降りかかる試練のことなど、まるで想像もしていなかった。
もう一度、ガクン、と衝撃があった。体が刹那の浮遊感に襲われ、足元がふらつく。
「きゃ」と声が漏れる。情けない声だと、自分で恥ずかしくなる。対する箱崎は、凛々しい顔つきのまま、エレベーターの表示盤を見つめていた。
「ど、どうしたの、これ」
「分からない」
エレベーターの上昇は明らかに止まっていた。違和感に駆られる重力加速度を感じないからだ。
表示盤の数字も、『1』から進まない。一階分も、まだ移動していないということだ。
「…止まったみたいね」と興味なさそうに箱崎が呟いた。
「動くよね、すぐ」
「さあ?」
他人事みたいに返す箱崎に、矢場が冗談っぽい口調で告げる。
「そ、そこはさぁ、嘘でも動くって言ってよ」
「え、ええ…。動くと思うわ、すぐ」
「いや、遅いってば」
ツッコミを入れたつもりだったのだが、箱崎は不思議そうな顔を浮かべるばかりだった。そんな顔、こちらがしたい、とゴリラを見つめながら矢場は思う。
すっと、階層ボタンに近づいた箱崎は、何の迷いもなく、『緊急連絡ボタン』を押した。思い切りの良すぎる行動に、「もう少し待ったら」という言葉も飲み込むこととなった。
しかし、どれだけ待っても、何の反応もない。
まさかとは思うが…。
「駄目ね、壊れているみたい」
肩越しにこちらを振り返る箱崎が、表情一つ変えず、事務的に報告してくれる。
「壊れてるみたいって…」
箱崎を押しのけるように、今度は矢場がボタンの前に移動する。それから、壊れるのではないか、と思えるほどにボタンを連打したのだが、やはり何の反応もなかった。
「え、え、ちょっとぉ、ヤバくない?」
「落ち着いて、矢場さん」
「こんなの、落ち着いてなんかいられないでしょ!ヤバいじゃん、閉じ込められてるんだよ、これ!」
「…いいから、落ち着いて。焦っても機械は直らないでしょう?」
「ヤバいよぉ、これからどうすんの、ねえ!どうすんの!」
「…あのね、ちょっとは静かに――」
「無理だって!」
別に死ぬわけではない、と言い出しかねない箱崎のことも忘れて、矢場は、ただひたすらにパニックになり、無意味に言葉を乱立している。
「こんなヤバい状況、無理、マジ無理、ヤバいじゃんかぁ」
その一言、一言によって、真後ろで佇む箱崎のこめかみに青筋が立つ。
それすらも気がつけなかった矢場は、不意に箱崎の存在を思い出して、狭い箱の中で、縋るように大声を上げた。
「箱崎さん!もぅ、どうすんのこれ、ヤバいことになってるんだよぉ!ねぇ、箱崎さんってば!」
ぷつん、と箱崎の堪忍袋の緒が切れる。
「いい加減にして、矢場さん」
「あ、ご、ごめん…」
ここまでであれば、鬼気迫る叱責は、むしろ、矢場を落ち着かせるのに最適だったといえるかもしれなかった。
だが、その後に続いた言葉が、問題を起こした。
「汚い日本語を、これ以上私の前で使わないで。不愉快」
「…は?」
鋭い、軽蔑するような目つき。先ほどまで一緒だった、箱崎言音はどこにもいなくなっていた。
元々が気性の荒い二人だったので、衝突は避けられない運命だったのかもしれないが、なにぶん、状況が悪かった。彼女らから、冷静さを奪っていたのだ。
「なにそれ、どういうこと」突然侮辱されて、眼尻を吊り上げた矢場。
「どうもこうも、『ヤバい』とかいう馬鹿みたいな言葉を、馬鹿みたいに連呼しないでってこと」
「はぁ?なに、どうしてこれくらいで、そんなことまで言われなきゃいけないわけ?」
「これくらい?」と今度は箱崎が目くじらを立てた。「冗談じゃない、私は、あなた達のそういうところが、ずっと不愉快だったのよ」
次第に侮蔑を含み始めた瞳の色に、矢場は鼓動がフルスロットルで加速していくのが分かった。だが、分かったからといって、止める術があるとは限らない。
「言葉の正しい使い方も教えてあげなくちゃいけないの?まるで、子どもね」
トドメの一撃を受けて、矢場の堪忍袋が見事に切断される。
「あ、あぁそう、あっそぉ!じゃあ、私からも言っていい?箱崎さんさぁ、何その服!」
「え、ふ、服?」あまりに予想外だったのか、素に戻ったような顔つきで、彼女が問い返す。もちろん、もう矢場は止めるつもりはない。
「そう、なに、その服!」
「なにって…、パジャマ、だけど…」
「あ、ごめんねぇ?教えてあげなくちゃ分からないかぁ」
大きく息を吸って、可能な限り相手を馬鹿にした表情と口調で、矢場は今まで言いたくても言えなかった言葉を吐き捨てる。
「箱崎さん、服のセンスダサすぎ!」
「だ、ダサい…?」
「そう、今までずっと思ってたし。大学でも、今日のバスの中でも、さっきも!」
「う…」
さすがにちょっと傷ついたのか、彼女は今日初めて自分から目を逸らした。追い詰められた様子が、嗜虐心を刺激して、矢場の機関銃の連射速度を加速させる。
「よくそんなダサい格好で人の前歩けるよね?ねぇ、そのゴリラ、なに?すれ違う人にジロジロ見られなかったわけ?」
「…っ」
思うところがあったのか、箱崎は一瞬目を丸くして、矢場を見つめたが、すぐにまた俯いた。
「っていうか、今朝の服、なにあれ、酷すぎ。なんで迷彩?なんの意味があんの?で、あのシャツの婆さん、誰。中指立ててたよね、あれ。ファッション感覚、ぶっ壊れてるんじゃない、箱崎さんって!」
乱射を続けていた機関銃が、砲身のオーバーヒートのために、ようやく静かになる。さっきまで、耳を覆いたくなる喧騒に満ちていたとは思えない静寂だった。
いくら箱崎とはいえど、女性だ。ファッションについて侮辱を受けるというのは、かなりこたえたのだろう、完全に俯いて、黙り込んでしまった。
その時間が3分ほど流れたとき、さすがに言い過ぎた、と矢場の胸の中に重い後悔の念が積み重なり始めた。
そのときだった、箱崎が怒りと、涙に濡れた瞳で勢いよく顔を上げたのは。
ギロリ、と箱崎の目が鈍色の獰猛な輝きを放った。一瞬で、我を忘れていると分かる顔つきだった。
「矢場さんだって、言葉遣いだけじゃない。そもそも、あなたは品がないのよ、品が!」
「な、なにそれ、品ぐらい、あるし」
「ないっ!」と箱崎が人差し指を、ビシッと矢場に向けた。「どういうことなの、その浴衣の着方。いいえ、浴衣だけじゃないわ、私服だって、いつも下着が見えそうな格好をして…、下品なのよ!」
「はー、やっぱり見てたんだ…。マジでムッツリじゃん、箱崎さん」
「見えるのよ!」
「ちょ、マジ見んなし…」と両手で襟を寄せ、はだけていた胸元を、箱崎から隠すようにした矢場に、苛立ったような顔で詰め寄る。
「私が悪いみたいに…。ほら、今も、浴衣をそんなにはだけさせているから…!」
「わっ」矢場は、浴衣を抑えていた手を掴まれて、小さく悲鳴を上げた。「触んないでよ!」
「手をどかしなさい!貴方が無知だから、見えているのに、どうして私がムッツリ扱いされるのかしら。ちゃんとした浴衣の着方を教えてあげるから、勉強なさい!」
するり、と帯が抜かれる。そのせいで手をどかすと前がはだけてしまう形になった。だというのに、ほぼ無理やりに、箱崎が矢場の両手をどかし、体ごと扉に押さえつける。
こ、こいつ…、自分が相手の服を脱がそうとしていることに、気付いているのか…?
しかも、浴衣の下には、何も着ていないのに。
慌てて引き剥がそうとするも、力強い箱崎の前に、なす術がない。
(お、犯される)
見当違いの危機に、うっすらと涙が瞳に浮かんだ刹那、チン、という音と共に、突然、体を支えていた扉が開いた。
箱崎ごと勢いよく床に叩きつけられた矢場は、チカチカする視界の先で、自分(しかも、半裸の)と、箱崎(私の服を半分ほど脱がすことに成功した)を見下ろす、友美の姿を見つけてしまった。
「…貸し切り風呂、入りに行こうかと思ったんだけど…」と友美は弾かれるように背を向けて続ける。「お、お邪魔だったみたい…?」
見てはならないものを目の当たりにしたかのように、友美はそのまま足早に廊下を戻っていく。
その背中に手を伸ばし、言葉にならない言葉をつなぎ合わせて、誤解を解こうとした矢場であったが、時すでに遅く、彼女の姿は曲がり角の向こうに消えてしまっていた。
「あ…あぁ…」
完全に誤解された。
お喋りの友美のことだ、今夜中には、私と箱崎のしていたことは、グループ中に知れ渡ることだろう…。きっと、派手な尾ひれをつけて…。
倒れた衝撃で、ようやく冷静さを取り戻したのか、箱崎は、真っ青な顔つきで矢場と、友美の去った方角を見比べている。
キッ、と彼女を睨みつける。
「ご、ごめんなさ――」
謝罪の言葉が紡がれ終わる前に、箱崎の頬を力いっぱい引っ叩いた音が、辺りに響き渡るのだった。
(5)
秋はすっかり深まり、この都市からずっと離れた山のほうでは、木々が赤々と燃える季節になっていた。
肌寒くなってきた季節、下には黒シャツを着て、珍しく履いているジーパンにイン。そして、その上からテーラードジャケットを、袖を通さずに羽織る。
ショップのウインドウに映る自分の姿を見て、満足そうに頷いたのは、矢場純歌だった。
よし、今日も可愛い、などと、心のなかで自分を称賛する。
それから、不意に真面目な顔に戻って、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
気を抜いてはいけない、今日という日は、決戦の日で、このショッピングモールは、関ヶ原なのだ。
今、矢場の中には、二つの大きな感情が同居していた。それは、一見すると相反する感情のようにも思えるが、その実は、同じものから生まれている。
一つは、自分がこれから、美に関して、これでもかというぐらい不道徳な存在と共にいて、平気だろうか、という不安。
そしてもう一つは、ようやく彼女を説得して、ファッションセンスを是正出来るチャンスを、デート券と共に獲得したという喜び。
頭の中に、流行のファッションの数々を身にまとう、彼女の姿が思い浮かぶ。
きっと、自分なんか足元に及ばないくらい、可愛く、綺麗になるぞ。
よし、と気合を入れた矢場の背中に、すっかり聞き慣れた、落ち着いたアルトが届く。
「おまたせ、純歌」
ドキン、と胸が高鳴る。自分に尻尾がついていれば、ぶんぶん左右に振っているだろう心持ちで、喜びが顔に出すぎないように振り返る。
「別に、待ってな――」
そこに立っていたのは、確かに、待ち合わせをしていた箱崎言音だった。ただ、呼んだ覚えのない、謎のお婆さんが、彼女のシャツのど真ん中にプリントされていた。
はぁ、とため息を吐きながら、矢場は手を額に当てた。
「…言音のファッションセンス、やっぱマジ卍だわ」
不思議そうな顔をしていた箱崎の顔から、二人の行末が前途多難であることは、容易に想像できるのであった。
いかがでしたでしょうか?
ライトな読み方が出来て、楽しめたのだとすれば、
何よりもの幸いです。
なにはともあれ、いつもお付き合いくださり、
本当にありがとうございます!
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