いざ森へ
「ランドルさん、その頬はどうされたのです?」
あれから私は丸一日寝込んだらしい。熱にうなされるうちに、あの得体のしれない『気持ち悪さ』を一旦、心の棚に厳重に保管して高く高く上げることに無意識に成功したようで、目を覚ました時には割と落ち着いていた。
今はまだベッドの上で安静にしている私を見舞に来たランドルさんの頬は赤く腫れあがっている。
何があったのかはだいたい予想はつくけどね。
「いやいや、何でもない。ちょっとアルウィンに『いったい何を教えたの!?』と叱られての。頬を軽くつねられただけじゃ。それより気分はどうかね?」
「あまりいいとは言えませんが、なんとか。」
「まさか、あの後すぐに倒れるとは思わなんだ。そばを離れてすまんかったの。」
「いえ、ちょっと考えすぎて疲れてしまっただけですから。」
「そうか、まあ大事がなくてまずは何よりといったところかの・・・」
心の平穏を保つ術はいくつか身に着けてますからね!しかし、『今ここ』に集中することで過去の嫌なことも未来の不安も忘れていられるという方法が意外と有効なのには驚いたね。そのうちお薬が必要になるかもだけど・・・
「ところで、具合が悪くなるほど、わしの出した課題は難しかったかのう?」
ランドルさんの表情が心なしか暗い。
おうふ!あれですか、期待外れっていうやつですか?不出来な生徒でゴメンナサイです。
ただでさえ弱っているのにランドルさんに見放されたら豆腐メンタルが原形をとどめないほどにぐちゃぐちゃになっちゃいます。そうなるともう白和えにするしかないほどにぐちゃぐちゃですよ。
あ、白和え食べたい、糸こんにゃくが入ったやつ。
「マリエール?」
「・・・はい。ランドルさんに言われて、『あの』桶の水の事を考えていたら気持ちが悪くなってしまって。」
「どんな事を考えていたのじゃ?」
私はランドル先生に落第の烙印を押されないように、『あの』水が私の手元にくることになった果てしない偶然性について一生懸命語った。その間、ランドルさんはじっと目を閉じて聞いていた。そして私が一通り話終わっても、何か考えているのかそのまま動かない。
何かレスポンスが欲しいんですけど!沈黙が気まずいです。
「うーむ、よし!計画変更じゃ!わしと一緒に狩りにいこう!とりあえず今日は大事をとってまだゆっくりしておくように!明日の朝、体調が良ければ、森へ出掛けるぞ!」
ランドルさんは思い立ったように、急にそう言い残すと部屋から出ていってしまいました。 ちょっと、毎回毎回、唐突すぎですよ!私も読者も置いてけぼりですか?そうですか。
それにしても、計画変更って早くないですか?それに森で狩りですか?
魔法使いの見込みがないので狩人にジョブチェンジですか?職業選択の自由はどこへいった!アーハン?
もう「ランドルさんだから」っていうことで諦めて明日に備えて寝ましょう。さっき起きたばっかりだけど。
~翌早朝~
昨日はたっぷりと寝たので日の出前でも眠くはない。眠くはないのだがランドルさんと待ち合わせた場所につくと、ランドルさんとは別に妙な出で立ちの人影が見えた。私まだ寝ぼけているのかな?まさか、幻覚かな。お薬ないのにどうしよう。
「おはよう、マリエール。」
「おはようございます、ランドルさん。とお母様。」
えー、なぜ母上が表門に立っているのでしょうか?それにその服、マタニティドレスを無理矢理仕立て直しましたね?所々にヒラヒラが残っているし、上質な布がまったくそぐわないハンタースタイル、いや山賊姿。
「あのー、お母様?その格好は一体?」
「あら、そんなの決まっているじゃない?私も二人に同行するのよ。ランドルおじさんに任せていると、変なこと教えてまたマリーが倒れちゃうかもしれないでしょ?それにこの森は私の庭みたいなものだし。」
ランドルさんと私が頭を抱えていると、父上が飛んできた。ものすごい勢いだ。
「部屋にいないと思ったら、こんなところに!引き千切られたドレスの袖やら裾やらを見た時は肝が潰れたよ!」
仕立て直したというのはよく言いすぎでしたか。スミマセンでした。
父上は母上の腕をつかむとランドルさんに合図した。ランドルさんは心得たとばかりに背負子に私を乗せて担ぎ上げるとこれまたすごい勢いで森へ向かって駆けだした。
「ちょっと、何するのよ!あなた!放してよ!」
「アルウィン!君はもうすぐ出産なんだ!狩りになんて同伴させるわけにはいかないよ!それにそんな恰好で外に出るなんて夫としても許可できない!」
そんな両親のやり取りがどんどん遠くなっていく。それにしてもこんなに速く走っている背負子の上だというのに、ランドルさんの気遣い故か、それほど負担にならない。
でもあれですね、わめく母親から引き離されて、背負子に乗せられ森の奥へってあまり気分のいいものではないね。ドナドナとか楢山節考とか連想しちゃうね。子牛でも老婆でもないけど。
「いやはや、アルウィンにも困ったもんじゃ。ヴィル坊が止めに入ってくれて助かったわい。これからやる修行はあやつらにはできれば見られん方がいいからのう。」
しばらく黙々と森の中を進んできたランドルさんが、その速度を緩め、ふとそう独り言ちるのを聞いた私は不安になった。両親が見ない方がいい修行って何よ!何なのよ!
「それってどういう意味ですか?」
背負子から飛び降りて逃げ出したくなる衝動を抑えながら尋ねても、
「身の危険はないから、そう心配するな。」
と軽くあしらわれてしまった。全然安心できない。本当に飛び降りて逃げ出そうかとも思った。しかし多少緩まったとはいえ、それでもランドルさんの移動速度は前世の私がママチャリを全力でこぐよりは確実に速い。
私の不安を知ってか知らずか、行く手の森は深まっていき、時間とともに明るさを増していくはずの日の光も私を十分に照らしてはくれないのだった。