riverside cat
彼女は今日も河川敷でトランペットを吹いていた。ときどきおかしな音を出しながら、必死に楽譜を見て演奏している。何度も同じパートを繰り返しているが、どこかミスが生まれて綺麗な旋律とはいかない。
彼女の名前は立花ミオ。高校1年生の初々しい女子高生だ。かねてから憧れていた吹奏楽部に入部し、1度も触ったことのなかったトランペットを担当している。これまで吹奏楽は未経験ということもあって、なかなか演奏が上達しない日々に焦りを感じていた。
そんなミオを堤防から見下ろしているものがいた。この河川敷を寝床に暮らしている1匹の三毛猫だ。
「今日もあの女の子は来ているのか」
心の内でそうつぶやいた猫の名はマーシャ。誰が名付けたのかは不明だが、この河川敷の周辺に住むは人たちからはその名前で呼ばれていた。
マーシャはこの河川敷に住み着いている猫としてこの町では有名だった。
この日は天気もよかったので堤防のベンチで日向ぼっこをしていたところ、いつもの不恰好なトランペットの音が聴こえてきたので、川辺をのぞきに這い出してきたところだった。
「はぁ、また間違えちゃった…」
何度やっても減らない演奏ミスに、ミオはつい溜め息を漏らした。
「今日はもうやめておこうかな、」
そう彼女は呟くと、うつむきながら帰り支度を始める。
楽器を入れたケースを背負って、河川敷からのびる石階段を上がり、堤防の上までやってきた。あたりに人がいる様子はなかったが、ふと足元を見ると1匹の三毛猫が座っていた。
その猫はミオの顔を見るなり、近くに設置されているベンチに飛び乗って毛づくろいを始めた。ミオはその猫に招かれるようにベンチに座り込み、のんびりとした毛づくろいを微笑ましく眺めていた。あまりに人に慣れているその様子にミオは不思議な安心感を覚えていた。そして、彼女はその三毛猫を相手に自然と語りかけだした。
「私が吹いているの、聴こえていたの?」
ミオはマーシャに問いかけた。
マーシャは特に反応もせず、毛づくろいを続ける。それでもミオは話し続けた。
「下手くそだよね、私の音…」
落ち込んだ声のトーンで話しながらミオはマーシャの奔放な仕草を眺めていた。
毛づくろいにもあらかた満足したマーシャはミオの顔を覗きにきた。自信のなさげな顔だった。ミオの表情を見たマーシャはゴロゴロと喉を軽く鳴らすと、彼女に背を向ける形で身体を丸めて眠りはじめた。
人間が目の前にいてもまったく気にしていないこの猫のそぶりに、ミオは拍子抜けしてしまい、あきれたように小さく笑った。
そしてゆっくりとマーシャに手を伸ばすと、自分に向けられている背中を撫でてやった。野良猫にしてはきれいに整っている毛並みだ。気持ちよさそうに寝ているマーシャを撫でてやりながらミオはそっと声を漏らした。
「私、もっと上手になれるよね?ちゃんと吹くことができるよね?」
気がつくとそのような言葉を放っていた。
マーシャは相変わらず丸まって目を閉じている。
「私、なに言ってるんだろう。」
無意識のうちに自分が発した言葉に対して、ミオは恥ずかしくなってしまった。寝ているマーシャを撫でる手を離そうとした時、「みゃあー」と初めてマーシャが鳴き声をあげた。
その猫はのっそりと寝そべっていた身体を起こすと、姿勢よく座りなおしてミオのトランペットが入ったケースをじっと見つめだした。
それから真上を向いたまま、ゴロゴロとしきりに喉を鳴らし始める。リズムを取るようにひたすらに喉を鳴らし続けている。
自分のトランペットを見つめながらいつまでも喉を鳴らし続けるマーシャの姿は、彼なりの激励のように感じた。
「ありがとう、優しいネコちゃん。」
思わず感謝の言葉を述べると、マーシャは「みゃ」と短く返事をするように鳴いた。
そのままベンチを飛び降りると川と反対の方向へ走り去ってしまった。
マーシャが去っていくのを見届けたミオは、堤防を降りた河川敷でトランペットの練習を再開することにした。
ミオとマーシャが顔を合わせた日から、しばらくは雨降りが続いた。ぐずついた天気が3日間続き、あれから4日目にしてようやく快晴となった。
その日、マーシャはいつもの場所で3日振りの日向ぼっこをしていた。のんびり過ごしながらいつものように練習に来るミオの姿を心待ちにしていた。
ところがその日、彼女は河川敷に現れなかった。
翌日も姿が見えず、またその翌日もミオが練習に来ることはなかった。
毎日のように練習に来ていたミオが現れないことで、マーシャは彼女を心配していた。
自分はあの女の子に余計なことをしたのではないか?と、柄でもない憂鬱さを抱いていた。
練習の姿を見なくなってからちょうど1週間となる日、マーシャは落ち着かない様子でいつもの場所にやって来た。
するとそこでようやく聴き慣れたトランペットの音が耳に入ってきた。
しばらく堤防の上で、久しぶりのぎこちない演奏を聴いておこうと思った。ところが今日は別の楽器の音も合わせて聴こえてくる。トランペットと、もう1つの楽器の音はフルートを吹く音だった。
不意をつかれたように目を丸くして、マーシャは堤防から河川敷の道を見下ろした。そこにいたのは2人、トランペットを吹いているミオと、フルートを吹いている見知らぬ女の子だった。
しばらく観察してみると、どうやらミオはその見知らぬ子から指導を受けているようだった。そして時折、2人で笑い合う声も聞こえた。1人で練習していた時よりも、ミオは生き生きとしていた。マーシャはミオの楽しげな顔を見て安心を覚えるのだった。
マーシャは近くのベンチに飛び乗ってそこから2人の練習を眺めておくことにした。聴こえてくるのは安定したフルートの音色とまだぎこちないトランペットの音色だった。
しかしミオの演奏はマーシャの知る1週間前のものに比べると確かに上達していた。夕暮れ前の河川敷に流れる2つの音色にマーシャは心地よく耳を澄ませながらゴロゴロと喉を鳴らすのだった。