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霖(ながあめ)  作者: 紫 李鳥
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五話

 


 ――俺は身動(みじろ)ぎせず、漬物石のようにベッドに沈んでいた。怒りの感情をコントロールできず親父の女を抱いてしまった後悔と罪悪感が、俺の全身を掛け布団のように覆っていた。長い沈黙の後、口火を切ったのはうつ伏せの麻衣子だった。


「……トミさんは?」


「……渋谷の本屋」


 俺は気怠(けだる)そうに返事をした。


「え?……本屋?」


「出鱈目の作家の名前と、出鱈目のタイトルを書いて、今日中に読みたいから、絶対探せよって言って」


「……可哀想に。……私をこうするために?」


「……あー」


「……本当に彼とは何もなかったわ」


「えっ?」


 俺は咄嗟(とっさ)に麻衣子に顔を向けた。


「……確かにホテルには入ったわ。でも、あなたのお父さまへの気持ちを正直に話したら分かってくれて。彼、最後に、幸せにな、って言ってくれたわ……」


 ソフトウェーブの柔らかな髪からは、仄かな薔薇の香りがしていた。


「……悪かったな。俺の勘違いでこんなことに……」


 素直に詫びた。


「……もう済んだことよ。ね、お腹空いちゃった」


 満たされたような顔をこっちに向けた。


「俺も」


「今から作るの面倒ね」


「出前でも取るか」


「そうね。たまには」



 ――台所で、俺と麻衣子がうな重とカツ重を食べていると、息を切らしてトミが帰ってきた。


「おかえり。遠くまですまなかったな」


 労をねぎらった。


「渋谷の大きな書店には無くて、新宿まで足を運びましたよ」


 そう言って、テーブルに書店のブックカバーが掛かった本を置いた。それを見て、トミが自分で読む本を買ったのだと俺は思った。


「すまなかったな、無駄足になって」


「いいえ、無駄足じゃありません。ありました。これです」


「えっ!」


 この時ばかりは本当に吃驚(びっくり)した。それをかっさらうと、急いでカバーを取った。


『舞妓』

〈内田麻衣子〉


 確かに、俺が書いた通りのタイトルと著者名だった。トミは麻衣子の苗字も、マイコがどんな漢字かも知らない。俺は、真向かいでカツ重を食べている麻衣子に気付かれないようにカバーを戻すと、椅子に置いた。


「ご苦労さん。トミさんの好きな天丼があるよ」


 俺は急いで話を変えた。


「ま、ありがとうございます」


「チンするといい」


「はい。あら、特上だわ」


 トミは喜んでいた。


「トミさんが居ないと、ろくな料理ができないから、出前にしてもらったの」


 麻衣子が謙遜した。


「あら、そんなこと。先日の奥様が作られた肉じゃが、とてもおいしゅうございましたよ」


「ま、良かった。ありがとうございます」


「ね、お坊っちゃま」


「ん?ああ」


 ……まさか、適当に書いたタイトルと同じで、その上、同姓同名の作家が存在したなんて……。確率は何パーセントだ?


 チン!



 ところが、翌日、予期せぬ事が起きた。朝食を終えた俺は部屋でテレビのニュースを聴きながら、トミが買ってきた『舞妓』のあらすじを読んでいた。


「――殺害されていたのは、広域暴力団、佐伯組の幹部、伊藤護さん、35歳で、殺害されたのは昨日の午後5時前後と見られ、伊藤さんが発見された道玄坂の駐車場に――」


 ……道玄坂?


 俺は画面に目をやった。


「停まっていた白い車には――」


 ……白い車?


「血痕が付着しており、鋭利な刃物で刺されたものと見られ、犯人の衣服にも血痕が付着している可能性があると見られています」


 アッ!


 顔写真が画面に出た途端、俺は声を上げた。喫茶店で麻衣子と会っていた男だった。


 ……どういうことだ?まさか、麻衣子が?昨日の五時前後と言えば、麻衣子と男がホテルに入って三十分ほど過ぎた頃だ。ホテルを出て車中で殺したのか?「犯人の衣服には血痕が付着している」と言っていた。


 昨日、帰宅して直ぐに麻衣子は服を脱いでシャワーを浴びた。血痕が付着していたからか?昨日の麻衣子の服装は黒っぽいカーディガンとスカートだった。血痕が付着してもさほど目立たない。


 だが、仮に麻衣子が殺したとして、俺に抱かれた時、人を殺した気配は一欠片(ひとかけら)も無かった。健康な女の正常な反応だった。芳醇(ほうじゅん)なワインのように、官能的で妖艶(ようえん)だった。


 人を(あや)めたなら、あれほどまでに開放的になれるわけがない。……やはり、麻衣子は犯人ではない。俺はそう結論付けた。――

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