一話
親父がその女を連れてきたのは、蟄居を余儀なくされた鬱陶しい長雨の頃だった。
三日も部屋に閉じ籠って苛々していた上に、前触れもなく突然やって来たその客は一層、俺の神経に障った。
「お坊っちゃま、お客さまです。下りてらしてください」
ノックの後にトミの声がした。返事をしないでいると、
「お坊っちゃまっ!」
また呼んだ。仕方なく、
「ああ!」
と突っ慳貪な返事をしてヘッドホンを外すと、ステレオのスイッチを切った。
……ったく、誰だよ。
ノックもせずに応接間のドアを開けた。――その女を見た途端、俺は息を呑んだ。その時、俺はたぶん寝入り端に起こされた時のような情けない顔をしていたに違いない。
親父の傍らに腰を下ろしていた萌黄色の和服の女は、俺を見て立ち上がると、笑みを浮かべながらお辞儀をした。
親父が何か喋っていたが、耳に入らず、ただ、“マイコ”という名前だけが耳に残った。
「初めまして、ウチダマイコです」
「あ、どうも。……俺、ちょっと用あっから」
俺は慌てて背を向けると、ノブを握った。
「なんだ、その挨拶は。おい、武志っ」
親父の怒った声がしていた。ドアを閉めた途端、息苦しさを覚えた。「結婚したい女がいる」と親父から聞かされたのはひと月ほど前だった。それが、三十五歳の銀座のホステスだと打ち明けられた時は、親父の色ボケに呆れ返った。親父の財産が目当てなのは明らかだ。
だが、その女が今日来るとは聞いてなかった。不意打ちに遭って心を見透かされたような思いだった。そして、その女が予想外であったことに俺は戸惑った。
……あれが、親父が話していたマイコっていう女か……。一瞥した裳裾は濡れていなかった。親父の車で送り迎えされているのが予測できた。……舞子、麻衣子、真依子……。どのマイコだ?
台所を覗くと、トミが洗い物をしていた。俺が点けたライターの音に顔を向けると、
「美しい方ですね」
マイコのことを言った。
「フン。ホステスやってたんだろ?ろくな女じゃないさ」
天井に煙を吐いた。
「お坊っちゃま、そんな言い方をなさるもんじゃありません。お母さまになられる――」
「冗談じゃないよ。あんな若い母親がいるかよ。あ~あ、親父も耄碌したもんだ。『恍惚の人』だよ、恍惚の人」
テーブルの蜜柑を一個手にすると、台所を出た。
「お坊っちゃまっ」
トミの叱るような声がしていた。
二階に上がると、わざとステレオのボリュームを上げ、親父に無縁のロックを響かせた。――間もなくして、車のドアが閉まる音がした。窓から覗くと、雨だれの向こうで親父の紺色のベンツが動いた。
――新婚旅行を兼ねた海外挙式のイタリアから二人が帰る日をトミから聞いていた俺は、その日、嫌いな雨にも拘わらず車を走らせた。
……還暦を過ぎて新婚旅行もないもんだ。ったく、あの女といちゃつく親父なんか見たくもない。
俺はトミから強制的に参加させられた披露宴の様子を思い出した。あの女は、親父の横で俯き加減で笑みを浮かべて、親父の朋友のスピーチでの揶揄にしおらしく恥じらってみせていた。
……どうせ、猫を被ってんだろうが、馬脚を露わすのはいつだ?親父の財産を手に入れてからか?
その披露宴会場で初めて、マイコの漢字を知った。――麻衣子。