朔夜
その男は「十夜」と呼ばれていた。
本名はわからない。誰も知らない。
なぜなら彼は記憶喪失で 己に関するすべての過去を忘れてしまっていたから。
人里離れた山寺・如月寺には、老いた住職と数人の小僧が住んでいる。
山には古来より女人の立ち入りを禁ずる掟があり、参道の険しさもあって、訪れる者もきわめて少ない。
逆に、俗世から遠ざかり仏の道に仕える者が修行を積むには最適な環境と言えよう。
ある秋の日、一人の少年が門前に倒れているのが発見された。
一番近い村の診療所から1時間かけて医師が呼ばれ、診察したけれど怪我は無い。
しかし意識を取り戻した少年は、記憶を失っていた。
医師の見立てで年齢は15歳前後と推測されたが、村内はもとより、近隣にも彼を知る者は誰一人いない。
ただちに駐在へ連絡が行き、家出人の資料と照合する。
事件や事故に巻き込まれた可能性も含めて調査が行われたが、該当する人物は見当たらなかった。
どこの誰ともわからず、何ひとつ憶えていない少年。身につけていたのは、手縫いとおぼしき木綿の甚平だけで、所持品は一切なく、その上 素足だった。
そのようないでたちで、一体どうやって山奥に位置する如月寺まで来たのかと、誰もが不思議に思ったが、身元の判明に繋がるような手掛かりは何も無い。
結局、住職の申し出により寺預かりの身となり、そのまま年月を過ごす事になる。
名前が無ければ不便だからと、住職は少年に「十夜」という呼び名を付けた。
彼が現れたのが十日の夜だったというだけの由来だが、少年はその名を気に入り、すぐに受け入れた。
記憶が無いとはいえ、少年は聡明で礼儀正しく、身についた所作にも品があり、育ちの良さが伺える。
当初は家出中の不良少年ではと訝しんでいた檀家の人々も、彼の気品漂う立ち居振る舞いを目にする内に
「もしや誘拐されて逃げて来た名家の御曹司ではないか?」
「お家騒動に巻き込まれた高貴な家の落とし胤ではないか?」
――――などと噂しあう始末。
真相はすべて闇の中でしかなかったが。
少年は住職の好意に感謝して、寺男としてよく働いた。
幼い小僧たちには兄のように懐かれ、よく面倒をみた。
記憶は、それまで生きてきた存在証明のようなもの。
寄る辺の無い身の上では、時折 不安が胸を占める。
そんな夜、少年は天空の月を見上げた。
煌々と輝く満月を眺めると、胸の奥で何かがざわめく。
記憶は皆無なのに、ひどく哀しく切ない気持ちになるのは何故だろう。
「あの方はまるで、月からいらしたかぐや姫のようだ」
夜毎 月に向かって熱い視線を送る彼を見て、小僧達は本気とも戯れともつかぬ言葉を紡いだ。
それは幼さゆえの夢想まじりの呟きだったが、当たらずとも遠からじかも知れない。
故郷の名も場所も、そんなものが存在するのかどうかも覚えてはいないけれど。
今すぐ何処かへ行きたい。
でも行き先がわからない。
今すぐ誰かに会いたい。
でも誰に会いたいのかわからない。
何を望んでいるのか、何が足りないのか、それさえもわからないのに、感情だけは激しく揺れる。
黒い雲が月を隠すように、少年の心も無明の暗闇に覆われていた。
長編小説です。
今後もよろしくお願いします。