あちらの家の父さん
午後の八時に、あそこのお父さんは家を出ていく。普通のお父さんだったら、家に帰ってくるはずの時間だ。普通ではないことに、小学生だった僕は興味津々だった。だからお母さんに聞いてみた。
お母さんには笑われてしまった。
「お父さんじゃないよ、あの人。ただの学生さん」
「学生さんだと、お父さんじゃないの?」
「そんなわけじゃないけど、誤解もしちゃうかもね。けっこう、歳いっちゃってる人だから」
晩御飯は、僕の好きなチーズハンバーグだった。
チャリチャリンと、ドアの開く音がする。お父さんが帰ってきた。
人差し指を口の前で立てて、静かにねのポーズ。この話はここでおしまいってことだ。
「お疲れさまー」とお母さんは玄関まで飛んでいく。頬にチューしてる音が聞こえてくる。
「今日はね、あなたの好きなチーズハンバーグなの」
なんだか少しだけ晩御飯が不味くなった。
胸焼けをごまかすために外を見てたら、あそこのお父さんが家を出てきた。
すごく分厚い眼鏡をかけてる。でも、お父さんではない。
ただの学生さんらしい。
「よーマナブ、今日も元気だったか?」
もちろん僕は今日も元気だ。
あそこのお父さんは、学校ではそれなりに進化してる。
具体的には、先月のあたりで七不思議入りした。きっかけもあった。
この前の夏休みで、隣の学区の女の子が、ひとりいなくなった。
あそこのお父さんにさらわれたという噂だ。
僕なんかはすぐ近くで暮らしてるわけだから、うそだと思う。
「でもね、友達が何人も見てるの。青いお洋服のかわいい女の子が、あの家につれられていくの」
「二つ、説があるの」
「一つ目が、すごい変態だっていう説」
「でも、もう一つの方が怪しい」
「怪しい」
「家族を探してるっていう説」
「あそこのお父さんね、何年も前に、自分の家族を亡くしちゃってるの」
「それもひどい事件で」
「だから前の家は捨てちゃって」
「この町に引っ越してきた」
「自分のかつての娘と同じ格好をさせて」
「あの家で飼ってるのよ」
「でね、夏休みが終わったら殺しちゃうの」
「成長しちゃって、自分の娘と、違ってきちゃうからって話」
「バラバラにして、トイレットに流す」
「青い洋服だけは取っておくの」
「きれいきれいに洗って、次の女の子に着せるためにね」
昼間は各地の小学校を回って、良さそうな次の女の子を、物色しているという噂だった。
真実かどうかはともかく、みんなの中でも、お父さんということになってる。
もしもあの人がただの学生さんであるなら、どうしてこういう話になるのだろう。
あそこのお父さんは、階段を一段ずつ、ゆっくりと下りていく。
「ちょっとマラソンしてくる」
現実に人はいるんだから、追ってみるのが早い。
「せっかくお父さん帰ってきたのに、晩御飯も残して?」
「お腹いっぱいだもん。だからマラソンしてくる」
外に出たら、あそこのお父さんは坂を上っていくところだった。突き当りの角を曲がる。
僕らの学校の方へと続いていく道だ。
ばれないように、僕もゆっくりとついていく。ひと月五百円のお小遣いなのに、自動販売機でコーラとか買って。追いながら気が付いた。
このお父さんには、確かに変なところがある。
たまにじっと止まる。ぼんやりと、明かりの方を見て何か考えている。
あと、スーツを着ている。
だから、お父さんていう先入観があるのかもしれない。
僕らの学校の前でも、一度止まった。でも、そのうちにまた歩き出して、結局は電車の駅からどこかへ行ってしまった。
さすがに券は買えないし、買えたって行けやしない。明かりのついた構内で、観察だけはした。
髭とか爪は整えられてて、格好はきれいだ。
でも、ぼろぼろのナップサックを背負って、エスカレータの手すりにつかまり、ゆっくりと下りていった。
とりあえず、女の子をさらったりはしてない。
家に帰ると、ちょっとだけ問い詰められた。
「なんでハンバーク残しちゃうの。そのためのマラソンでしょ」
コーラをがぶ飲みしたからとは、もちろん言えない。
そして、あそこのお父さんには、二度と会うことがなかった。午後の八時になっても、家から出てこなくなった。
変だなあと思っていたら、二週間後に、お母さんが浮かない顔をして報告をしてきた。
「あそこのアパートの清掃してくれって頼まれちゃった」
「なんで僕らが?」
「他にいないから。例の学生さん、事故死したんだって」
老齢の大家さんに鍵をもらって、中に入る。
普通の部屋だった。
「どこで死んだの?」
「知らない。町内会で一番若いからって、こんな嫌な雑用ある?」
僕は少し怖くなってきた。ここのお父さんについて、噂になっていたことを話した。
僕が夜に、後をつけたことについては黙っておいた。
「ひどい噂ね」お母さんは笑い飛ばす。「昼は学校に通ってて、夜に働いてただけよ。挨拶したこともあるし」
「どこで働いてたの?」
「駅前のコンビニ。あんたも知ってるでしょ」
三色のブランドカラーの制服を着て、笑顔でお辞儀をしている七不思議の姿は、ちょっと想像しづらい。
「真面目はまじめだったけど、少し暗い人だったよね。家族がいないってのも、初めて知った」
僕だって初めて知った。駅前で働いてたなんて。
「あれ?」
押入れを開けて、お母さんが動かなくなった。
一瞬、じっと止まったあのお父さんのことを思い出して、僕はぎくりとした。
「何もないや」
確かに、服とか布団とか、そういうものが何もない。
ただ、いくつか段ボールが並べられていて、そこに青い画用紙みたいなものが入っている。
「ブループリントってやつだね」
「何それ?」
「設計図とか書くときに使うんだよ。もうなんか書いてあるね」
「名前が付いてるみたい」かすれていて読みにくい。
「私たちの家って書いてる」
家に持ち帰って、ゆっくりと解読してみた。間取りは無茶苦茶で、一階よりも二階、二階よりも三階が大きくなっているような家だ。
というか、何階建てなのかわからない。
段ボールの全てが彼らの家の設計図で、毎日まいにち、少しずつ増築されていた。ブループリントの日付を見ると、それがわかる。
二週間前には、一つの部屋ですら、一枚の中に入らないほど肥大化していた。
ただの青い紙になっていた。
「でね、友達は何人も見てるの」
「説は二つ」
「すごい変態だっていう説と」
「でも、もう一つが怪しい」
「怪しい」
その普通ではないお父さんは、午後八時に家を出ていく。
そして、いつか彼なりの家を建てる。