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Even Chances Red!

作者: あららったったの

  薄暗い店の中で、彼はテーブルの上で回るルーレットを凝視し、荒い息を立てていた。ルーレットの横には緑色の楕円形のテーブルがある。彼はちらちらと、そのテーブルに乗った自身の64枚のチップに目をやる。堂々と積み上がったチップが、彼を励まし、同時に、彼を不安にさせる。ルーレットの回転は一向に遅くならず、彼の息は更に荒くなる。ふいに、彼がルーレットから顔を上げた。このルーレットを回した私を睨みつける。その目は期待に満ちて情熱的だったが、やけに寂しそうでもあった。

  私はこのカジノに雇われていて、ルーレットを回している。このカジノには様々な者が来るが、彼ほどの変人はあまり見ない。彼は私が就職して間もない時からの常連だった。

  彼が初めてこの店に来た時のことを、私はまだ鮮明に覚えている。25歳になる私は研修期間を終えて間もなく、慣れない手つきでチップをやりとりし、ルーレットを回していた。時に操作を間違えることもあり、その度に客に怒られていた。

  彼は私のディーラーとしてのはじめての日曜日にやってきた。午後7時を少し回ったところで、真っ白の開襟シャツにジーンズをはいて、彼は私のテーブルへとやってきた。整った顔立ちは、洒落た店内に絶妙にマッチしていて、私は彼を見た瞬間、彼が勝負強い人間であると確信した。彼は握りしめた1枚の黒いチップをテーブルに置く。黒のチップは1枚1万円で、拝めることはあまりない。私は緊張しながら、

「どうされますか」と聞いた。

 彼は整った笑顔で私を見つめてこう言った。

「Even chances red.」

 全ての赤のマスにかけます。私は彼の流暢な英語に戸惑いながらも

「かしこまりました」と言い、彼のチップをルーレット専用のチップに交換して、テーブルに印刷された赤いひし形の上に載せ、ルーレットを回した。ボールが盤の赤いマスに止まれば、彼のチップは倍になる。止まらなければ私が没収することになる。ふと彼を見ると、彼は回るルーレットをにこやかに見ていた。気づくと私も、赤が出るように、と祈っていた。

  彼は毎週、私のテーブルに訪れた。いつも変わらない服装で、黒いチップを私のテーブルに置いたが、当たることは驚くほど少なかった。ボールは、ルーレットを転がった後、黒いマスで止まった。すると彼は、そのにこやかな表情を保ちつつ、私に

「ありがとうございました」と言って去っていった。

  何週間目であったか、彼ははじめて予想を当てた。予想とは言え、その頃には、彼はチップをテーブルに置くと、私と目を合わせ、チップのセットを促すようになっていた。私はチップをセットしてルーレットを回した。彼はいつもの笑顔で盤を見つめていたが、ルーレットが止まった時、表情を変えた。ボールは赤のマスに止まっていた。彼は顔を上げ、私と目が合う。驚き、呆然としている様子だった。私も驚いていたが、すぐに自分の仕事を思い出した。チップを取り出し、テーブルの上の彼のチップに乗せて彼に差し出す。この頃にはだいぶ慣れた手つきでできるようになっていた。彼は二枚のチップを掴み、持ち上げると、またテーブルに置いた。そして呆然とする私と目を合わせてニヤッと笑い、言った。

「Even chances red.」

 私はしばらく呆然としていたが、我に返って仕事に戻った。彼のチップを同じく赤いひし形の上に載せる。ルーレットを回した。ルーレットを見る彼の目は、いつもより断然、輝いていた。彼が興奮していることは、彼の荒い息からもわかった。そこには、いつもの冷静で、穏やかな彼はいなかった。

  しかし結果はもちろん外れた。彼は私の常連客の中でもダントツでトップの不運だ。彼はいつもの笑顔を取り戻して立ち去ろうとしたが、私は思わず声をかけた。

「あの、」彼は少し驚いた様子だった。私は続ける。

「あの、毎週1万円だけ賭けて、ほとんど当たらないのに倍プッシュって…とてもその…、賭け方特殊と言いますか…、何か目的がおありなんですか?」

 彼は少し間を空けて、答えた。

「このルーレットで128万円稼いで、世界一周の旅に出たいんです。」

 128万円。その数字が何を意味するか、私はよく知っている。

「2の7乗…」思わず口にでる。

「そうです、2の7乗です。このルーレットで7回当てて、俺は世界一周の旅に出たいんです」

「でもそれなら、こんな賭けなんてせずに毎週1万円づつ貯めれば…」

「そんなんじゃ夢がないじゃないですか!」

 彼は先ほどのように目を輝かせて言った。私はその目つきを密かに、「夢を見ている目」と名付けた。

  それから35年もの間、彼は毎週私のテーブルに訪れた。ほとんど外れたが、時にチップは8枚、16枚となることもあった。そういう時、彼は「夢を見る目」になり、チップが高く積み上がるほど、冷静さを失い、ただ勝負に溺れた。が、目標の128枚はおろか、64枚、32枚になることはなかった。

  私が定年退職する1ヶ月前になって、彼はカジノに来なくなった。私とともに彼も老いたのだし、何か病気にかかったか、もしくは逝ってしまったのかもしれない、などと思索したが、その次の週も次の週も彼は姿を現さず、私はディーラーとしての最後の1日を迎えた。その日は日曜日であったので、彼が来ないかと密かに期待していた。

  午後7時を少し回ったころ、彼が来た。彼はいつもの笑顔でテーブルに近づいたが、その整った顔には似合わないゴム製の透明なチューブが彼の鼻の下まで通っており、それは彼が左手に持っていたキャリーバッグのような機械に繋がっていた。彼が危篤であったことはすぐにわかった。彼は震える右手で黒いチップをテーブルに置いた。そして若い頃から変わらない笑顔で私にセットを促し、私はいつも通りチップをセットした。

  ルーレットが回り始める。彼の不運は35年間の毎週の賭けで証明されているし、今回も外れるだろうと思っていた。しかし、止まった盤を見るとボールは赤のマスに止まっていた。当たりだ。私は彼を見る。彼は私に無言で合図する。私は彼のチップにもう一枚チップを重ね、もう一度ルーレットを回す。彼は稀に見る「夢を見る目」をしていた。それに息も荒い。ルーレットが止まる。ボールはまた、赤のマスに止まっていた。私は彼のチップに2枚重ねた。

  気づけば彼のチップは64枚にまで増えていた。あと一回。あと一回当てれば、悲願の128万円に到達する。しかしもし、次黒が出れば、チップは0枚になる。私は迷った末、彼に聞いた。

「どうされますか」

 彼も迷っている様子だった。息は更に熱を帯び、目は充血していた。しばらくして、彼は顔についたチューブを右手で力ずくに取ると、声高らかに言った。

「Even chances red!」

 私はニヤッと笑い、ルーレットを回し始めた。

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