三倉と一葉
「ごめんね、今日予定が入っちゃって。三倉ちゃんの面談はまた時間を改めてもらってもいいかな。三倉ちゃんなら大丈夫でしょう?」
その一言に、足元が崩れるような気がした。
知ってる。
その予定が何なのかを、私は知っている。
「大丈夫じゃないん、ですけど」
「大丈夫大丈夫、三倉ちゃんなら大丈夫だって」
朗らかに笑って、店長はぽんぽんと私を励ますように腕を軽く叩く。
少し前の私なら、店長がそれだけ言ってくれるのだから本当に大丈夫なのかもしれない、と思えたのだろう。
でも、大丈夫じゃない。
大丈夫なんかじゃないのだ。
―――あなたは大丈夫だから。
それは、私を安心させるための言葉なんかではなく。
私に構わないでいることを正当化するためだけのものだと気づいたのは何時のことだっただろう。
床を見つめて立ち尽くす私に、店長は少しだけ気まずそうに眉尻を下げ、それでも予定を改めることなく足早にバクルームを出て行ってしまった。
「…………」
悔しい、だとか。
哀しい、だとか。
そんな感情すら湧いてこなかった。
むなしい。
胸の中が、空っぽになってしまったような気がした。
私に、昇給の話が出たのは去年の1月のことだ。
今の私はバイトの扱いなのだが、昇給試験を受ければ社員として登用して貰えるのだ。
社員登用を目指して頑張っていた私にとって、それはとても嬉しい話だった。
私の働いているカフェは全国チェーンで、その構成は本社の社員扱いの店長、副店長と、その下につく地域のアルバイト、という形だ。
社員として登用されるためには幾つかのステップがあって、まずは店長からの推薦を得なければいけない。
店長からの推薦で登用試験を申し込み、筆記試験と、その地域を統括するエリアマネージャーとの面接を受け、その二つをパスすれば社員への道が開ける、のだ。
去年の一月、推薦を得た私は筆記試験の勉強をした。
早く社員になりたくて、一生懸命勉強した。
けれど、私のいる店舗で副店長の立場にあった社員が問題を起こした。
横領だ。
少額とはいえ、自分が店をクローズする際にレジの売り上げをちょろまかしていたのだ。
副店長は更迭され、店長は私の昇給試験どころではなくなった。
申し訳ないけれど、三倉ちゃんの推薦文を書く余裕がないから今回の試験は諦めて欲しいと店長に話をされたのは、推薦書類の提出期限の前日のことだった。
その時は、仕方ない、と思えた。
店長が悪いわけではないのだ。
連日のように本部に呼び出され、店のことも儘ならない店長の姿は見ていた。
だから、副店長がいなくなった分自分も頑張ろうと思えた。
それからしばらく、私の働く店には副店長となる社員が本部から派遣されてこなかった。
一人で社員二人分の仕事をしなくてはいけない店長は大変そうで、その仕事の手伝いを申し出たのは私の方からだった。
自分も社員になったらその仕事をやるのだ。
今のうちに勉強させてもらうつもりで、私が手伝っても問題のない範囲で店長の仕事を手伝った。
それが、おかしな方向に向かい始めたのはいつからだっただろう。
店長は、私に仕事を任せるようになった。
朝の早い店のオープンや夜の遅いクローズといった、本来なら社員が引き受けるべき他のバイトから人気のないシフトに私を断りなく入れるようになった。
さすがにそれは困ると言うと、「ごめんね三倉ちゃん」「三倉ちゃんなら大丈夫だと思って」「社員になったときの練習だと思って」と申し訳なさそうに眉尻を下げて言われた。
言外に込められた、これから社員になろうとしている人が社員の仕事を任されて不満を言ってどうするの、というニュアンスに確かにそうだな、と思ってしまった。
社員登用のためには頑張らないと。
店長も大変なんだし、支えてあげないと。
そう思って、頑張ってきた。
そして、今年11月。
再び、社員登用の試験の話が回ってきた。
店長は約束通り、私を推薦してくれた。
けれど。
けれど。
面談を、先延ばしにし続けている。
社員登用試験の申込までは手配してくれるのに、推薦のための猥雑な書類仕事に手をつけようとはしない。
仕事が忙しいから、と面談を後回しにし続ける店長に少し強めにお願いをしたのが三日前のこと。
昼のシフトにしか入らなくなってしまった店長と、朝か夜のシフトにしか入れられなくなってしまった私とではシフトが重ならない。
忙しいからシフト外に面談をするのは難しいと言う店長に、それなら私が休みの日に店に来るから、シフト後、もしくは休憩時間にでも面接をしてほしいとお願いをした。
店長はまだ提出期限には余裕があるから、と渋ってはいたものの早めに面談を済ませた方が店長の推薦書類の作成に時間がかけられると思うので、と押し切った。
なんとなく。
なんとなくきっと、「面談をするのが遅かったから、推薦書類が間に合わなかった」と言われてしまいそうだという不信感がすでに私の中にはあったのだと思う。
そして、今日。
約束をして、シフト外の休みの日に店にやってきたのに。
店長は逃げた。
予定が入ったのだと言って。
なんの保証にもならない、「三倉ちゃんなら大丈夫」なんて言葉を残して。
やりきれない。
大丈夫なんかじゃないのに。
早く正社員にならなければ、と毎日生活の不安に押し潰されそうになっている。
それでも、自分の仕事は自分の仕事だからとこなして。
社員登用の話は、その努力が認められたからだと思っていた。
だからこそ、より頑張ろうと思っていたはずなのに。
気付いたら、この有様だ。
ひどい。
ひどい。
ひどい。
ぎゅ、と拳を強く握りしめて店を後にする。
店長はきっと、これからも私の善意をアテにし続けるだろう。
私はそれに応え続けることに疲れてしまった。
それとも、これぐらいで気持ちが折れそうになる私が、そもそも社員登用するほどの人間ではなかったということなのだろうか。
私はこれからも店長の良いように使われるバイトでいるべきなのだろうか。
それとも他に正社員としてとってくれそうな場所を探すべきなのか。
頭の中がぐるぐるとしてくる。
どの選択肢を選んでも、不安ばかりが胸に沸き起こる。
思えば私の人生なんて、いっつもこんなものだ。
期待してる、頼りにしてると言われて張りきった結果、裏切られるのだ。
家族にだってそうだ。
「奏なら大丈夫よね? 高校を卒業したら、働いてくれない?」
数年前、そう言ったのは母親だった。
私と、妹と。
娘二人と母親一人の母子家庭。
大学に進学するのは難しいだろうな、と思ってはいた。
だから、母親のその申し出も仕方ないと受け入れた。
それなのに。
一つしか年の変わらない妹には、母親は進学を勧めた。
浪人すら、許した。
何が、私と違ったのだろう。
どうして私は大丈夫で、妹は大丈夫じゃなかったのだろう。
母親のことは好きだ。
大事にしたいと思う。
妹のことだって好きだ。
喧嘩もするけれど、至って普通の姉妹だと思う。
けれど、妹の進学のことで口には出さずとも、私の心には影が落ちた。
二人の娘のうち、一人しか進学させられない、となった時に母親は妹を選んだのだ。
私ではなく、妹を。
私は、選ばれなかった。
「……………はぁああああ」
溜息が漏れる。
溜息をつくと幸せが逃げるよ、と笑う友人の顔が脳裏を過ぎったものの、逃げるだけの幸せすらないんだし、と拗ねた気持ちで息を吐く。
意固地になって吐き出した息は、白く霞んでやがて空に溶け込んでいった。
「…………」
ごそごそ。
コートのポケットをまさぐってスマホを探す。
年上の優しい友人の甘い慰めが聞きたくなった。
彼女なら、きっと慰めてくれる。
スマホを操作して、ツイッターのアプリを開く。
そして、
『今からそっち行ってもいい?』
なんて甘えたメッセージを送る。
その上に並ぶのは、
『今から面談に行ってくるね』
『頑張って。応援してる』
なんていう優しい言葉だ。
彼女は、いつだって私に優しい。
ちょうど家にいたのか、返事はすぐだった。
『いいよ、大丈夫。ついでに何か食べ物買ってくる? それとも一緒に買い物に行く? ピザ取ってもいいよ』
やさしい。
本当に、やさしい。
とげとげと尖ってささくれていた気持ちが、ほんの少し柔らかくほどけたような気がした。
『ピザが食べたい』
送信。
『ン。じゃあ何ピザが食べたいか考えておいてね』
やさしい。
何ピザがいいだろう。
彼女が好きなのは、クリームソース系のピザだ。
私は、トマトソースとチーズでシンプルに仕上げたマルゲリータも好きだ。
ハーフ&ハーフもありだろうか。
そんなことを思いながら、歩き出した。
ぴんぽん、とチャイムを鳴らすと、すぐに足音がして玄関が開いた。
閑静な住宅街の片隅にある、少しばかり古いアパートの三階が彼女の部屋だ。
ゆるっとしたニット生地のワンピースからは、ふわりと石鹸の香りが漂う。
きっと、私が来るから慌てて着替えたのだろう。
身長は、160ちょっと。
女性にしては背が高い方だろうけれど、私はそんな彼女よりも背が高い。
170近い身長も、私から可愛げを奪う要因の一つなのかもしれない。
緩くウェーブを描く長いダークブラウンの髪。
いかにも年上のおねえさん、といった風情だ。
「いらっしゃい、みーちゃん」
「お邪魔します」
親しき仲にも礼儀あり。
私は小さく一礼して、彼女の部屋へと上がる。
特に珍しいところのない、単身者向けのワンルームアパートだ。
ついでに、玄関先に乱雑に散っていた彼女の靴を並べ、普段履きにしているもの以外は備え付けの靴箱の中へとしまう。
「みーちゃん、ピザは何が良い?」
「ハーフ&ハーフは?」
「いいねー。じゃあ一個ずつ好きなの選ぼうか」
「うん」
目の前には、パソコン机。
その隣には大きなゴミ袋が設置されている。
彼女は起きている間の生活の大半をその机に向かって過ごすから、その傍らにゴミ袋があった方が良いのだ。
が、椅子はその一つしかないので、私はゴミ袋を部屋の隅、冷蔵庫側へと避けてできたスペースにちゃぶ台の下から座布団を引きだし、コートを脱いでハンガーを拝借してかけた後、腰を下ろした。
ちゃぶ台の上には、既にピザのチラシが乗っている。
「みーちゃんはマルゲリータ?」
「うん。一葉さんはクリームソースのやつ?」
「毛ガニのグラタンピザいきたい」
「おお、いこういこう」
スマホを取り出し、チラシに書かれていた番号へとかける。
「あ、一葉さん、サイドは?」
「ポテトー。あ、あとコーラお願い」
「はいはい」
手早く注文を済ませる。
後はピザが来るのを待つだけだ。
さて、と彼女はパソコン机の前に戻る。
この部屋に座布団は二つあるのだけれども、彼女はそれを自分では使わない。
もしかしたら私のように、度々この部屋に遊びにくる人がいるのかもしれない。
「で、みーちゃん何があったの?」
くるりと椅子を回して私へと向き直った彼女が優しく促す。
ふええ。
「聞いてくださいよ……」
私と彼女、一葉さんの出会いはネットでのことだった。
好きなアニメが同じで、そこからツイッターでの交流が始まった。
彼女は私よりもそういった知識が豊富で、私の知らないことをたくさん教えてくれた。
このアニメのこのシーンは、昔流行った別の作品のとあるシーンをモチーフにしているんだよ、というような。
いろんな萌えを共有し、オタトークを重ねる中、ふと自分たちの住んでいる地域が重なっていることに気付いたのも偶然だった。
その時追いかけていたアニメ作品がとある店とコラボを発表し、行けるか行けないか、というような話をしている中で発覚したのだ。
どうせなら一緒に行こうか、という話になったのはごくごく自然な流れで。
待ち合わせ場所に現れた現実の一葉さんは、私よりいくらか年上の優し気なお姉さんといった風情の女性だった。
年こそ離れていたものの、私たちは趣味があったし、話があった。
最初はオタク活動絡みで会うようになり、そのうちオタク活動抜きでも会うようになった。
少しずつプライベートなことを相談するようになったのもその頃だ。
「……というわけで、店長には約束をぶっちされ、しょんぼりしつつ一葉さんに連絡した私でした」
「みーちゃんかわいそうに。ピザおたべ」
「はい」
もっもっも。
勧められるままにピザを食べる。
一葉さんは私のことを、「みーちゃん」と呼ぶ。
私がツイッターでのアカウント名を、捻りもなく「み」にしていたからだ。
三倉だから、み。
アイコンも黒背景にひらがな一文字の「み」を描いたものを使っていたもので、ネット上の友人のほとんどは私のことを「みの人」もしくは「みーさん/ちゃん」と呼ぶ。
ちなみに一葉さんも似たようなもので、彼女のアカウント名は「いっちょん」だ。
本名の一葉をもじったものらしいのだけれども、さすがにリアルであっていると年上の彼女を「いっちょん」呼びするのはどうかと思ったので、私の方はネット上では「いっちょん」、リアルで会う時には「一葉さん」と呼び方を使い分けている。
一葉さんは、「いっちょんでいいのに」なんて笑うのだけど。
「ポテトもお食べ」
「はい」
「カニグラタンピザもお食べ」
「……残さない気です?」
「バレましたか」
「バレました」
どうやら一葉さんはお残しを避けたいものらしい。
「ラップでつつんで冷凍庫にしまっておいて、食べたいときにチンしたらまた美味しく食べられますよ」
「本当に? 私それ信じて冷凍して、毎回解凍で失敗して美味しくなくなった可哀想なピザを食べることになるんだけど」
「それ絶対一葉さんのやり方が悪いよ」
半眼で言うと、てへ、と誤魔化すように一葉さんが笑う。
年上で、包容力があって、親切で優しい一葉さんには、生活力というものが欠けている。
初めてこの部屋に訪れた時はもっと荒廃していたし、一葉さんいわく「人間が暮らす環境ではないから部屋には入れられない」だった。
それが一応人が入れるレベルにまで回復したのは、私が片づけを手伝ったからだ。
おかげで私は、一葉さんの部屋のどこに何があるのかを一葉さん以上に把握している節がある。
「じゃあ、みーちゃんのやり方を教えてくれる?」
「いいですよ、余ったら冷凍しましょう」
「うん」
そう言いつつ、私はピザを齧る。
一葉さんはもうおしまいだろうか。
さっきからコーラを舐める程度になっている。
「はあ……私に生きてる意味なんてあるのか……」
「みーちゃんすごい唐突にネガティ部発動するのやめよ???」
今ピザの話してたよね??? と一葉さんがしんみょうな顔になる。
ふとした瞬間様々な不安に押し潰されて生きる目的を見失うのは、私の発作のようなものだ。
死にたいわけではない。
死に焦がれているわけではないのだけれども、これだけ苦しいのなら、今後もこの苦しみが続くのなら何のために生きていくのだろう、と厭な気持ちになってしまうのだ。
幸せになりたい。
でも、私では幸せになれないような気がしている。
だから、これから先の人生が、ただただ重苦しく辛いだけのもののような気がして、立ち向かう気力が削がれていく。
ネガティブになりすぎるとたまに叱られるが、鬱陶しがらずに「またネガティ部活動して」と笑い交じりに話を聞いてくれる一葉さんの前では、ついネガティブな本音がぽろぽろと零れてしまう。
普段言わないようにしている分、一葉さんの柔らかで優しい雰囲気に甘えてしまっているのだと思う。
「生きてる意味なんてわからないけどさ」
「うん」
「私はみーちゃんのこと好きだし」
「うん」
「みーちゃんが苦しくて大変だとしても、生きててほしいなあ、って思うよ」
「……うん」
「ピザお食べ」
「だから冷凍するんだって」
ふすすすす、と二人で小さく笑い合う。
「みーちゃん、今日泊まってく?」
「うん。泊まる。一葉さんと寝る」
「うん」
一葉さんの部屋にあるのはそれほど大きくないシングルのベッドだ。
二人で寝ると、互いの体温が間近に感じられる距離感。
母親や妹とすら一緒に寝なくなって久しいことを思うと、この関係につける名前がよくわからなくなる。
家族以上に近くに感じる、誰か。
「ふんふふーん」
嬉しそうに鼻歌を歌いながら適当にスマホを弄る一葉さん。
能天気にのんびりポジティブに生きているように見える一葉さんだけども。
一葉さんは一葉さんで、問題を抱えている。
あまり表に出さないけれど。
一葉さんの働いていた会社が突如倒産したのは、一か月ほど前のことだ。
それはあんまりにも突然で、出社した一葉さんから「弊社は倒産しました」の貼り紙でもって閉鎖された会社の入り口の写真を送られてきた時には私も言葉を失った。
前日まで、社長も普通に仕事してたんだけどね、と一葉さんは困ったように笑っていた。
ほとんど夜逃げ同然だったようだ。
社長は姿を消し、後に残されたのは「会社が潰れた」という事実だけだった。
その月は給料も出なかった。
会社自体が倒産する前触れはなく、取引もその前日まで通常通り行われていたらしい。
それからしばらく、毎日のように一葉さんのスマホには取引先から電話がかかってきていた。
何も知らないんです、すみませんと謝り続ける声を、覚えている。
私は、そんな一葉さんに何もしてあげられなかった。
ただ、そばにいて、話し相手になって、一緒にご飯を食べた。
一葉さんもそうだ。
厭なことがあって私が落ち込んでいても、一葉さんは私のために何もできない。
何もできない、というのは語弊のある表現だ。
私たちはお互いの不幸に対して、直接何かをしてあげることができない。
一葉さんは私を社員登用することはできないし、私は一葉さんの会社の逃げた社長を連れ戻すことはできない。
私たちに出来るのは、互いの悩みを解決してあげることではなく、ただただ気持ちに寄り添い合うだけだ。
「一葉さん、残りのピザ、冷凍しちゃいますね」
「うん、お願い」
よいしょ、と数切れ残ったピザを片づけるために立ち上がる。
「ラップ使いますよ」
「はぁい」
個別にラップで丁寧に包んでいく。
と、そこで玄関でチャイムが鳴った。
「おや」
「おやや?」
一葉さんまで首を傾げているあたり、来客の予定はなかったようだ。
何か通販でもしたのを忘れている可能性も高いが。
「私、出ます?」
「や、見てくる」
一葉さんがのそのそと玄関へと向かう。
そして、鍵を外して玄関扉を開いて――……
「くま―――!!!!」
何か盛大な一葉さんの雄叫びが響いた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
のんびり書いていけたらよいな、と思っておりまするー!
よろしくお願いします。