【前編】泣き虫令嬢
「ミラ・マクベル。悪いが今をもち、婚約を破棄させていただく」
はっきりとした口調で告げられたその言葉。
ちゃんと聞こえたはずなのに、何を言われたのか全く理解ができなかった。
「今、なんて……」
震える声で尋ねると、シード殿下は大きく息を吸って再び口を開かれた。
「君との婚約を破棄する、と」
「殿下……どうして、ですか。私、何かしてしまいましたか……?」
アルド城内にある庭の真ん中で、私の情けない声が響いていくけれど、すぐに噴水の音でかき消されていく。
殿下はご自身の黒髪をぐしゃりと握られ、小さく唸られたかと思うと、顔を上げてきて。
いかにも面倒といったご様子で、深く息を吐かれた。
「いや、君は何もしていない。ただ、僕が君に飽きてしまったんだ。僕らは幼馴染だったろ? いまさら、結婚とか考えられなくてね。こんなんじゃ、これから先、何十年も一緒にいられる気がしないんだよ」
困ったようなお顔でシード殿下はそうおっしゃってきて、誤魔化すように笑ってくる。
他に好きな人ができた、というわけでもなく、他の国の王女様と婚約話が出たというわけでもない。
ただ、飽きた――
あまりにも悲しすぎる言葉に、ずきずきと胸が痛んで、目には涙が浮かんでくる。
だったら何故、三か月前私にプロポーズをしてくださったの? という言葉が喉元まで出かかったけれど、慌てて飲み込んでいった。
この方は、第三王子で、私は伯爵の娘。
シード殿下からしか、婚約もできない代わりに、婚約破棄もできない。
身分が低い私は、嬉しいお言葉であろうとも、はたまた苦しいお言葉であろうとも、この方から言われたことに『はい』と、うなずくことしか許されていないのだ。
「承知……いたしました」
ぐ、とドレスのスカートを握り締めて、私は必死に言葉を紡いだ。
そして、涙がこぼれおちないように強く目を瞑り、深々と頭を下げながらこう言った。
「今後とも、マクベル家をどうぞよしなにお願いいたします」
「ああ。ミラ、すまない。ありがとう」
シード殿下は、どこか寂しげにそう言ってきて。
私が顔を上げると、目の前には殿下の右手が差し出されていた。
これは、最後に握手をしたい、ということなのかしら――と、恐る恐る手を差し出すと、殿下は私の右手を両手で包むように強く握りしめてきて、優しく笑いかけてきた。
「ミラ。お前は他の男と幸せになれ。さぁ、家へとお帰り」
殿下はそう言って、そっと私の手を離してくる。
私は泣き出しそうになる心を抑えて、背筋を伸ばしながらまっすぐに城門へと向かった。
あの方の姿が見えなくなるまでは、泣いちゃいけない。
そもそも私が殿下の妻になることが、まずおかしかったんだ。
今までの婚約話のほうが、きっと夢だったんだ。
心を無理やり納得させようとしていくけれど、どうやったってこの胸の痛みは消えない。
どこにも傷なんかないのに、死んでしまうのではないかと思うほどに痛くて、苦しい。
こんな痛みは、きっともう、二度と経験することはないだろう。
そう思ってしまうくらいに、私は絶望の渦に飲み込まれてしまった。
何度も通った、大好きなこの庭。
大きな噴水があり、季節の花が咲き乱れる鮮やかな庭が、今ばかりはモノクロで寂しげに見えた。
シード殿下、さようなら――
最後に一度だけ殿下の顔を見ようとして振り返っていき、私は思わず目を見開いた。
「どうして……?」
殿下は私の帰りを見届けようとしてくださっているのか、今もなおその場に立ってらっしゃって。
苦しげな表情で私のことを見つめてこられていたのだ。
ふいと顔を背けられてしまって、一瞬限りしか見えなかったけれど、婚約破棄を宣言された方にそんな顔をされる理由が、その時には全くと言っていいほどにわからなかった。
――・――・――・――・――・――・――
家に帰り、お父様に婚約破棄の事実を伝えると、どこから聞いていたのか既に知っていたようで、寂しそうに笑って、泣きじゃくる私の頭を何度も撫でてくれた。
「良い男は他にもいるさ」
そう言ってくれたけれど、私はしゃくりあげながら何度も首を横に振った。
私はシード殿下が良かった。
いや。シード殿下でなければならなかったのだ。
私より二つ年上の殿下は、幼いころから私を城内のいろいろなところに連れて行ってくださった。
一緒にかくれんぼをしたり、花を摘んだり、兵たちには内緒で木登りをしたり、壁に落書きをして、侍女からこっぴどくしかられたこともあった。
シード殿下はいつも明るくて、勇敢で、いたずら好きだけど誠実で、そして……優しかった。
木登りがうまくできた時、いたずらが成功した時『ミラ、よくやった!』と頭を撫でて笑いかけてくれるのがたまらなく嬉しくて。
お化けが出そうな暗い廊下は、いつも私の手をぎゅっと握ってくれて、私の歩幅に合わせて歩いてくれた。
大きくなってからも、殿下はお忍びで私と一緒に町へと出掛けてくださったし、照れくさそうな顔をしながら花を贈ってくださったりもした。
私はそんな殿下のことが、ずっとずっと好きだったんだ。
だから、三ヶ月前にプロポーズをされた時は涙が出るほど嬉しくて。
いただいた指輪も、毎日欠かさず付けて、寝る前にはぴかぴかに磨いてからケースにしまっていたのに。
婚約破棄を申し渡され、私たちはまた、ただの幼馴染に戻ってしまった。
ふと、左手に視線をやると、薬指にはめられた指輪が夕陽のオレンジに照らされている。
婚約はなくなったのに、殿下へ指輪をお返しするのを忘れていたのだ。
「……明日お返ししなきゃ」
私は呟くように言って指輪を外し、小さな袋にそれを入れていった。
――・――・――・――・――・――・――・――
翌朝、鏡を見るとずいぶんとひどい顔をしていた。
まぶたは腫れ、顔もむくんでいる。
「こんな顔でお会いしたくはないな……」
そう思ったけれど、指輪をお返しするのは早い方がいいだろう。
みっともない顔を化粧で誤魔化してもらった私は、馬車で城門前へと向かった。
エスコートを受けて馬車を降り、門番に身分と用事について伝えていくと、兵士は深々と頭を下げてきて。
「ミラ・マクベル様、申し訳ございませんが、貴女様をお通しすることは今朝より禁じられています」
「え? どうしてですか!?」
昨日までは入れた庭に入れない理由がわからず、思わず声を上げていく。
すると、門番は済まなさそうに顔を歪めていった。
「シード殿下のご命令です。指輪は貴女様がお持ちください。回収が必要とあれば、こちらでうかがいますので」
殿下のご命令?
顔も見たくないと思うほど、私に飽きてしまったってこと……?
プロポーズからたった三ヶ月でそうなるなんて、さすがにひどいよ。
そう思う一方で、飽きられていたという心あたりはいくつもあった。
ここのところ殿下は私と一緒にいる時によく、険しい顔をされていたし、心ここにあらずといった様子でぼんやりされてらっしゃることも多かったのだ。
理由を聞いたところで『大丈夫だから』と誤魔化されてしまっていたけれど、あの時ちゃんとお話をすればよかったのかな……?
私は、指輪の入った袋をぎゅっと握りしめて、下唇を噛みしめていった。
――・――・――・――・――・――・――
苦しい想いを抱えたまま家に帰ると、なぜかお父様と侍女、侍従たちが荷物をまとめていた。
「お父様、これは一体どうしたんです?」
わけもわからずに尋ねると、お父様は困ったような顔をして笑いかけてきた。
「王都を出て、バジル村で暮らすことにする。王都には、いい思い出もないだろう?」
「バジル村、ってどこです?」
そんな村、名前すら聞いたこともない。
「バジル村は、西の方にある国境近くの村さ。ここからだと二週間近くはかかるかもな」
「二週間!? もしかして、私のせい、なのですか……」
私が昨日、あまりにもひどく泣き喚いたから、お父様は気を使ってくださったのだろうか。
そう思って尋ねたのだけれど、お父様は静かに首を横に振った。
「わたしもリオンを亡くしてから、ここに住むのが辛かったんだ。どこを見ても妻との思い出があるしな。それに何より……」
「それに、何です?」
促すように私は問いかけたけれど、お父様は視線を落としていく。
その姿に、私は首をかしげた。
いつもにこやかなお父様の顔が、今ばかりはどこか苦しそうに見えたのだ。
だけど、お父様はなぜかコクリとうなずいていき、いつものように柔らかく笑いかけてきた。
「なぁ。ミラは、農業や酪農に興味はないか?」
――・――・――・――・――・――・――
その数か月後、私たちはバジル村にいた。
何を思ったのか、お父様は伯爵の地位を返上してしまい、今は農民と同じようにツナギを着て慣れない鍬で畑を耕している。
私も華やかなドレスを脱ぎ捨てて、作業着を着るようになり、髪飾りを売ってスカーフを買い、それで長い髪をまとめて、牛の乳しぼりや馬の世話をするようになった。
慣れない頃は辛く、筋肉痛に苦しんだりもしたけれど、何カ月かたつと農作業が楽しくて仕方なくなって。
遠巻きに見てきていた村民の方々ともだんだんと打ち解けてきて、彼らも私たちにいろいろなアドバイスをしてくれるようになった。
夕焼け空の下、使った農具の片づけを進める。
ここは華やかな王都とは違う。
日が暮れないうちに帰らないと、真っ暗闇になってしまうのだ。
「お! ミラちゃん、だいぶ作業を覚えてきたなぁ」
近所に住む太っちょのジンおじさまも、家への帰りなのだろう。
泥にまみれた姿で、私に向かって笑いかけてきた。
「フン、親父は甘すぎだ。ありゃ等間隔に植えれてねぇし、五十点ってとこさ」
おじさまの隣にいる、同い年で筋肉質な身体をしたキールさんがそう言った。
「じゃ、キールがミラちゃんを嫁さんにして、手取り足とり教えてやりゃいいんじゃねーの?」
「ばッ、何言ってんだ。このクソ親父が!」
キールさんは顔を真っ赤に染め上げて、大声を出していく。
「親に向かってクソとは何だ、クソとは!」
二人は互いの胸ぐらをつかみ、取っ組み合いのけんかを始めていく。
毎度おなじみの展開になった二人見て、私は声を上げて笑った。
こんなふうに笑ったのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。
私の笑い声で、二人は我に返ったのだろう。
互いにツンとした顔をして手を離し、手についた泥を払っていく。
「あ、そういや俺、向こうに鍬忘れてきちまったわ。キール、お前は先帰れ」
ジンおじさまはそう言って、畑のある、日が沈みゆく方向に慌てて駆けていった。
にぎやかなおじさまがいなくなり、あたりはしん、と静かになる。
広い畑には私とキールさんが取り残され、風だけが通り過ぎていく。
ドタドタと走るジンおじさまの背中をぼんやりと眺めていると、向こうからキールさんの声がした。
「あのさ、ミラ」
不思議とたどたどしい雰囲気を出すキールさんに、私は首をかしげる。
「何ですか?」
「さっき親父が言った話、考えといてくんねーかな」
「さっきの話、って何でしょう?」
“作業を覚えてきたけど、まだまだだ”ってとこかな、なんて考えていると、キールさんは照れくさそうにぽりぽりと頭をかいていく。
「アンタが俺の嫁になるってやつさ。俺はそうなったらいいなと思ってるから……それじゃな」
キールさんは顔を赤く染めて農具を背負い、ジンおじさまが消えていった方向とは反対の方に歩きだしていった。
「私が、キールさんのお嫁さんに、なる……?」
呟くように私は言った。
キールさんにそんなふうに言ってもらえたのは、すごく嬉しかった。
私も村の一人として認めてもらえたような、そんな気がしたから。
でも……それだけだった。
シード殿下から言われた時のような、胸が一杯になる感じも、自然と涙が溢れるあの感じも、嬉しくて幸せで全身が満たされる感覚にもならなくて。
「殿下……」
未練たらしく私は呟き、指輪がついていない左の薬指を撫でながら空を見上げる。
炎のように真っ赤に染まった空を見ていると、なぜか心がひどくざわついた。
――・――・――・――・――・――・――
その日は朝から、ザァザァとひどい雨が降っていた。
数年ぶりに重い風邪をひいた私は、高熱を出して寝込んでいた。
咳が止まらずに息苦しくて、頭がズキズキと痛んで辛くて。
それでも、婚約破棄をされたあの日よりはよっぽどマシだと思えるなんて、なんだか笑えた。
近所に住むジンおじさまがお医者様を呼んでくれて、私は処方された薬を飲んでまた、ベッドに横になった。
昼間だというのに外は暗く、窓を見ると雨が叩きつけていて、涙のように止めどなく流れている。
隣の部屋にはお父様とジンおじさま、それにお医者様がいて、世間話をしていた。
王都にいた頃とは違って、この家の壁は薄く、雨音に混じって、声が聞こえてくるのだ。
三人が話しているのは、メアリーさんに子どもが生まれたとか、今年はキャベツが豊作だ、とかそんな他愛もない話。
あまりにも平和な内容に、私はくすりと笑って、掛け布団を首元までたぐり寄せた。
年配三人組の声を子守唄に、私は眠ろうとまぶたを閉じていく。
すると、隣室から思いもよらぬ言葉が聞こえてきて、私は慌てて飛び起きた。
あまりの内容に、全身の熱も消え去り、一気に血が引いたような感覚になる。
ふらつく足を必死に動かしていき、歪んだ視界のまま隣の部屋へと向かう。
寄りかかるように勢いよく扉を開けると、お父様とジンおじさまが同時に私のことを見つめてきており、二人とも表情をこわばらせ、顔色も真っ青になっていた。
「ミラ! まさか今の話を……」
お父様の様子に、先ほど聞こえたお医者様の言葉が聞き間違いでなかったことを確信し、私は叫ぶような声でこう尋ねた。
「教えて、お父様。アルド城が陥落したって……革命が起きたって、一体どういうことなの!?」
後編は明日投稿予定です。