Area《1-20》
どうやら、この街には入浴の習慣はわりと根付いていたらしい。宿には風呂はなかったのでてっきり風呂には入れないのかと思っていたのだが、一般居住区にも公衆浴場が整備されているとの話である。行ってみればよかったかもしれない……と現実逃避気味に思いつつ、自分の髪が他人にかき回されているのを他人事に感じていた。
ここは王城内の王族が使用する風呂場である。リリーシアは現在、セレネに髪を洗われていた。
最初は使用人が出てきて二人を洗おうとしたのだが、セレネが有無をいわさず引き下がらせた。なんでも、友情を深めるのだとかなんとか……。この風呂場に連れてこられたこと自体がかなり強引な手法であったため、リリーシアはもう抵抗を諦めている。
洗髪に使われているのは泡立ちの少ないシャンプーのようなもので、上品な香りが鼻をくすぐる。
身体も洗ってあげるとセレネが言うので、それだけはまずいと失礼にならない態度で断固拒否し――結果押し切られた。
「……ひぅっ」
「どうしたの? 下手だったかしら?」
「い、いえ、たいへん心地よいです。よいのですが……」
言葉が尻すぼみになるリリーシアに、それはよかったと再開するセレネ。
他人の手で身体を洗われること自体初めてだというのに、相手は美少女で、さらに王族である。
時々セレネの柔らかい肌が当たる度に変な声を上げないよう精神力の全てを注ぎ、なんとか全身の洗体を乗り越えた。
――この世界に来てから一番の厳しい戦いだった。
そう思いながら内心で深い溜息を吐いていると、
「では交代。リリーシア、私を洗ってくれる?」
本当の戦いは、これからだった。
セレネの部屋に程近い自室に戻ったリリーシアは、あまりの精神的疲労によりベッドに倒れこんでしまった。
風呂のあと、夜番の兵士に引き継ぎをしたので、リリーシアの今日の任務は完了ということになる。とはいえ、暗殺者にとっては動きやすい時間帯でもあるので、あまり深い眠りに入るのも望ましくないのではあるが。
残った気力でなんとか着替えを終え、ベッドに潜り込む。
これからしばらくこの生活が続くかと思うと気が休まらないが、セレネの為人はリリーシアにとって親しみやすいものであったため、その点は幸運だったとも言える。
身分が全く違う美少女のことを考えながら、リリーシアは一瞬で眠りに落ちた。
それからの数日間は、危惧していた事態はまったく起こらず平和な毎日であった。
基本的にセレネの元に付き添う傍ら、時折騎士隊の訓練に混ざって護衛戦の戦い方を学んだりしていた。
結局毎日食事と風呂に付き合わされていたが、セレネの嬉しそうな顔を見ていると、こういうのも悪くないと思えてしまうのであった。
予告の三日前。近衛の兵士からの連絡を聞いたセレネの顔は強張っていた。
「悪い知らせですか、セレネ」
リリーシアが緊張して尋ねると、
「……以前の事件を警戒して、人数を大幅に増やして地下下水道の警備に当たっていた兵たちが……戻ってきていないらしいの」
「全員、ですか」
「ええ……。この数日間何も動きがなかったから、このまま犠牲者が出なければと思っていたところに……こんな……」
うつむいて、言葉を絞りだすセレネ。
「……嫌な予感がします。今夜からは特に警戒を強めたほうがいいでしょうね。……セレネ、私に提案があるのですが」
「なんでしょう、リリーシア」
「予告の日付が当てにならないのと同じように、暗殺の対象が本当は貴女ではなく――王族の誰か、という可能性も十分に考えられます。今夜から、全員を同じ部屋に集めて警護するというのは可能でしょうか」
その言葉を聞いたセレネは、ハッとした顔で考えこんだ。
「それは……確かに。使いを出して連絡を取ってみるわ」
兵を呼んでその旨を伝えに行かせる。
一時間もかからないうちに、連絡を任せた兵士が何通かの書状を持って部屋へ帰ってきた。
それらの書状には、今夜から王家全員を一つの部屋に集めることへの同意と、
「……リリーシアを必ず部屋に連れて来い、ですって。随分と信用されたものじゃない」
「あれから、食事の時に王様や王妃様にも度々会わせていただきましたけど……それほどとは」
リリーシアとしては信頼されて嬉しい反面、この王家の人間は人が良すぎるのではないかと思わないでもない。セレネがリリーシアのことを信用しているからそのついで、ということなのかもしれないが。
それに、人員も足りていないのだろう。警備のために動いている騎士隊の人数にも限りがある。城に十分の注意をしつつ、下水道や、街全体に警戒の目を光らせるとなればどれだけ人間がいても足りないだろう。
そして時は夕方。早めの夕食と入浴を済ませた二人は、指定された一室へ向かっていた。
地図を見ながら先導していたリリーシアがドアをノックすると、中から覗き穴でこちらを確認した兵士が扉を開けてくれる。
「待っていたよ、セレネ。そしてリリーシア」
椅子から立ち上がって声をかけるのは、バツェンブール現国王、ルミナ・バツェンブール。
そのとなりには、現国王王妃、センデリア・バツェンブールが椅子に腰掛けてこちらに微笑んでいる。
ルーン王子とセレスティア王女も既に到着してソファに腰を降ろしていた。
「それにしても王の執務室を籠城先とするとは、なかなか思い切ったものですね、お父様」
そう言ってセレネがからかうような口調で言うと、
「ここが城門から最も遠い場所であることは知っているだろう。それに外壁の防護も最も厚い場所だからな」
ルミナ王が笑って答える。しかしリリーシアには、この場所を聞かされたとき多少の心配事があった。
「ルミナ王陛下、一つお聞きしたいのですが……」
「構わんよ。食事時にも遠慮はいらんと言ったではないか」
「……それでは。守りという観点では、この執務室は非常に優れていると思われます。門からは遠く、階層も最上に近い。しかし……もしもの場合に、逃げるということを考えると……」
そのリリーシアの控えめな言葉を聞いたルミナ王は、覚悟を決めた顔で口を開いた。
「ワシら王家の者は、逃げることはしてはならぬのだ。たとえ血が途切れる可能性があろうと、その存続よりも大事な心構えとして、王家は最後までそのあるべき場所にいなければならぬ。――その覚悟がなければ、我々の血より先にバツェンブールが倒れてしまうだろう」
周りを見ると、王家の者全員が同じ顔をしていた。何世代も前から、その覚悟を持って国を動かしてきたのだろう。
「そして、ワシは未来を諦めておらん。ワシが生き残ったならば、代々野放しにしてきた地下の暗部を徹底的に掃除し、白日の下に晒す覚悟でいる。王家を脅かすまでに成長してしまった奴らの責任は、この地を治める我々が取らねばならん」
そう言い切ったルミナ王は、リリーシアに微笑んで見せた。
「そのためにリリーシア、君の力を貸して欲しい」
リリーシアはそこに、この地を切り開いたであろう彼の先祖の血の輝きを見た。
「わかりました。雇われの身なれど――リリーシア・ピルグリム、必ず最後まで皆様をお守りします」
その言葉を聞いたルミナ王は、安心したように笑った。
――その瞬間。王城全体に、揺れが走った。




