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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

願望

作者: 黄泉戸喫

 足下遠くで鳴るクラクション。

 眼下に小さく見える街灯り。


 とある屋上の、フェンスを乗り越えた外側のへり。少し強めの身を切るような風を受けながら、彼女はそこに座っていた。足を滑らせればひとたまりもない高さ。寒さとは違うものが、吐く息を震わせる。

…しかし、躊躇いはなかった。



 ─もし、叶うのなら



足と腕の力で身体を押し出し、宙へ身を踊らせた。






 友人が死んだ。自殺だった。棺の窓から見える彼女は、マンションから飛び降りたとは思えないほど、綺麗で穏やかな顔をしていた。

「どうしてこんな」

「まだ若いのに」

彼女の親族から漏れ聞こえる、驚きと戸惑いの声。成人式までもう少しという、そんな時に起こった悲惨な出来事。母の振袖を着るのだと、嬉しげに話していたのもこの前のこと。あまりに唐突な訃報は、あまりにも現実感を伴わずにやってきた。

 しばらく着ることもなかったレディーススーツに身を包んで、私は今、友人のお葬式に出席している。


「そんな素振りはなかったのに」

親族と泣きながら話す、彼女の母親。理由はないのを、私は知っている。強いて言うなら、『何もないこと』それが彼女の死んだ理由だろう。

 彼女の母親は過保護で、彼女が遊びに行くことすらあまり良い顔をしなかった。自分の目の届くところから離れるのが嫌だったのかもしれない。大学生になってやっともらえた自分の部屋で、自分の時間を過ごすことも許してもらえない、と彼女は時折嘆いていた。

『あれじゃ自分の部屋というより、ただの寝室だよね。』

そう、複雑な顔をしていたのを覚えている。

 その上、何かをしようとすると『見ていて焦れったい』としていたことを取り上げられ、何かをすると『私の思う結果と違う』と叱られ訂正される。かといって、何もしないと『言われないと出来ないのか』と叱られる。行動を起こしても起こさなくても、何をしても叱られる日々。それなら何もしないでいようと彼女は考え、結果的に彼女は自分自身の権限を失っていった。


 自分で何も出来ない、させてもらえない。

 どこにも行けない、行かせてもらえない。


『何もしないって、生きてると言えないよ。死んでるのと変わんない。』

あの子が一度こぼしたこの言葉が、頭の中に浮かぶ。

 何も出来ないからいないのと同じ、何もしないから死んでるのと同じ、死んでいるのと変わらないから死ぬ、そういうことなのだろう。


 ─死んだら何にも変わらないじゃない。


 笑っている遺影が、滲んで歪んだ。




「ただいま」


 お葬式を終え、帰宅する。がらんとした、人気のない2LDK。居間に溢れる荷物とダンボール。最近越してきた大通り沿いの長屋は、建物の古さも相まって薄暗く感じる。

 返事のないことにどこかホッとしながら自室に行くと、見慣れた妹と私の勉強机と服に埋もれたハンガーラックが出迎えた。いくらか狭くなった自室で、スーツから部屋着に着替えていると、ノックもなしにドアが開けられた。


「どこ行ってたの?」

「…ノックくらいしてよ。」

「ちょっとした用なんだし良いでしょそれくらい。細かいわね。」


無遠慮に開けられたドアの向こうには母がいた。母もどこかから帰ってきたのだろう、手には沢山の袋を持っている。


「ねぇ、じきにまた電気とか水道、払わないといけないからさ、お金頂戴よ。あんたも困るでしょ?止まったら。」

「お金ないの?お父さんからもらえば良いじゃん。」

「何にも言わないものあの人は。ここ何日か帰っても来ないし。ほら、2万でいいから。」


いつだってこうだ。自分は買い物をして回って浪費するのをやめない癖に、月々の支払いとなるとお金がないと言ってせびってくる。

 父も母も、私が節約しないといけないと言っても無駄遣いをやめず、挙げ句自己破産。前に住んでいた家にも住めなくなって、こうしてこの長屋に越してきたのだ。


「…私、奨学金と借金分も払わなきゃいけないんだけど。」

「でも2万くらいなら残るでしょ?このままじゃ止まって不便になるじゃないっ!」


そうなったら困る。でも原因はこの人達じゃないか。この人達が自己破産したせいで、私は一年前に大学を中退することになり、その上自分達が借金をすることができないから、と私の名義でお金を借りて、自分達で返すと言いつつ、結局私がアルバイトで稼いだお金で少しずつ返している。奨学金も、私名義のこの人達の借金も。


「…はい。」

「ありがと。」


最終的に手渡す2万円。用はもう無いと言わんばかりに閉まるドア。毎度のことに、もはや怒りでなく果てしない疲れしか感じない。


「…私の方が死にたいくらいだよ。」


呟きは狭い室内に消えた。






 あれから半年が経った。借金も奨学金も順調に返せている。しかしあの人からの月々の催促はやまず、渡しても携帯料金の支払いが滞って使えなくなったり、果ては時折、水道や電気が止まることさえ起こるようになった。そんな時は父が支払うようだが、普段の支払いからは逃げ、家にもほとんどいない父に、ただただ失望しか感じない。


 ─家に帰りたくない。でも、お金もないし行く宛もない。

 バイト帰りの気だるさと、今の自分の現状に沈みながら、帰りたくない一心で近くの公園に向かった。長屋に引っ越してくる前、まだ小学生だった頃、家にいたくなくて近所の公園で意味もなく過ごしていたことを思い出しながら、街灯に照らされるベンチへと腰かけた。


 暗い人気のない公園にポツンと一人座り、このままどこかへいっそ行ってしまおうか、なんて意味もない想像にふける。と、その時、暗がりに何かの気配を感じた。人がいる時間帯でもない公園。不安になって振り返ると…そこには一匹の犬がいた。焦げ茶色に黒いまだらの毛、片方だけ垂れた三角の耳。まだ少し小さい雑種の犬が、ベンチの影から私を見上げていた。誰かの犬だろうか、首元を見るが首輪は見当たらない。きっと野良犬なのだろう。

 一心にこっちを見つめてくる犬に、何となく手を伸ばし、撫でる。クゥクゥと鳴きながら嬉しそうに尻尾を振る姿に、ふと口許に笑みが浮かんだ。…そう言えば、あの子と最後に通話して以来、笑っていなかった気がする。


 あの子にだけ、苦しいのを吐き出すことが出来た。あの子は何も言わず、ただ話を聞いてくれた。私には何も出来ない、なんて言っていたけれど、私はただ話を聞いてくれるだけで良かった。それだけで、嬉しかった。大学を中退することを決め、先生に話したあの日。あの子はやっぱり何も言わず、いつも通り変わらない他愛もない話をしながら一緒に帰った。それが、有り難かった。

 ふと目をあげると、こちらをさっきと同じように一心に見つめながら、尻尾をちぎれそうなくらい振っている犬。

 なんだか、明日からも頑張れるような気がした。



 その日から、バイト帰りや休みの日に公園に寄るようになった。その犬におやつを買ってきてあげると、驚くほど勢いよく平らげてしまったことがあった。きっと随分とお腹を空かせていたのだろう。それからはあんまり良くないとわかっているものの、バイト先のスーパーでもらう余った惣菜を少しあげたり、少し余裕のある時はおやつを買ってあげるようになった。


 まだ小柄で大人になりきっていないだろうその犬は、私が公園に行くといつもいて、帰る時には見送ってくれる。しかし、妹には帰宅する途中に公園の前を通るが、犬なんて見たことがないと言っていた。偶々出会わないだけなのだろうが、それでも何だか年甲斐もなく、その犬が昔どこかの絵本に出てきた『秘密の友達』か何かのようで、無性に嬉しかった。




 丁度、あの子が死んでから一年。借金も半分を返し、奨学金も滞りなく返せている。家の事情は変わらないが、あの犬のおかげか毎日をそこそこ平穏に送ることが出来ていた。あの犬もすっかり大きくなり、大人の犬と変わらないくらいの体格になった。

 いつものように公園に寄ってから帰ってくると、私宛てに一本の電話が来ていた。かけ直してみると、身に覚えのない借金の返済に関する電話で、返済日が過ぎている旨を知らせるものだった。母親を問い詰めると、知らない間にどういう手段をとったのか私の名義で新たに借金をした、というのだ。しかもその上、隠しておいた通帳まで見つけ出され、なけなしの貯金をしていた分をすべておろされてしまっていた。

 借金に関しては本人の知らない間の無断ということで私の支払い義務はないが、通帳に関しては「月々の支払いに使った」としか言わず、どうにもならない。底知れぬ怒りと今まで紛れていた憎しみが、全身を埋め尽くした。

─殺してやりたい。

初めて、心の底から憎んだ。



 それでも、次の日はやってくる。朝になり、バイトへ向かい、心此処にあらずでバイトを終え、帰宅する。

 公園を素通りし、大通り沿いの長屋の前の道に出ると、また沢山の袋を手に持ち、通りを歩くあの人がいた。


─私からあれだけお金を毟りとるくせに。

─何であの人は好き勝手に買い物をして。

─なのに何で、私は毎日…


抑え込んだ憎悪が、腹の中に満ちる。


─憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い…

─…殺して、やりたい。


でも、思い出す、あの子との会話。こんな生活が嫌で、お金を毟りとられる理不尽に耐えかねて、思わずふとこぼした「殺してしまいそう」の一言に対しての、珍しく発したあの子の言葉。


『そんなやつのせいで、あんたが刑務所入るようなことする意味ないよ!』


なら、私はどうすればいいの…?こんなに我慢して、なのに何ともならない。誰も、助けてくれるわけでもない。どうしたらいいの…!?どうしようもなく、涙がこぼれた。死にたい、そうだ、もう死のう。もう疲れた。もう…



 足下に、あの犬がいた。


 あの犬は私を見上げ、細く細く、細めた目で、私を見ていた。その目はどこか悲しそうで、同時に、強い目をしていた。

犬は踵を返し、あの人の方へ、

─お母さんの方へ、走り出す。

猛然と走り、今まで聞いたこともないくらい大きな声で吠えて…


 何かを叫ぶあの人。飛びかかる犬。身を切るような少し強い風に髪が流されて、一瞬視界が遮られる。視界が戻った時には、あの人は道に倒れ、あの犬がその傍らに佇んでいた。あの人の下に広がる、赤い赤い色彩。妙に大きく、誰かの悲鳴が響いた。

 呆然と立ち尽くしている私を、あの犬がかえり見る。唐突すぎる出来事に動けない私をしばらく見つめた後、


車道に駆け出し、その身が宙を跳ねた。




 何もかもが終わった往来で集まる人。遠くに聞こえる救急車。あの人から広がる血の池の淵に横たわるあの犬は、車にはねられたとは思えないほど、綺麗で穏やかな顔をしていた。






 ─もし、叶うのなら



彼女は宙に身を踊らせながらただ願う。


『あの子を助けられる存在に、どうか。』

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