蟲娘 4
話を聞けば聞くほど妙な連帯感が僕に生まれた。半分人で半分人ではない。それはまさしく、僕と同じ状態だったからだ。決して僕が抱えきれるものではないのかもしれないが、確かに生まれる連帯感。
話が終わると彼女は「ごめんなさい、やっぱり長かったよね」と謝り更にこう付け加えた。「でも、こんなこと他の人に話すのは初めてだったな」
「どうしてそんなことを僕に話してくれたの?」と聞く。
「そりゃ誰も私と会話してくれないからね」
「あ、そうだよね。ごめん」
少し気まずい空気になったのを察したのか彼女はそれを振り払うように会話を続けた。
「でも、話したのはそれだけじゃないよ」
「そうなの?何で?」それ以外の理由は特に思い当たらなかったから興味本位で聞いてみ
「あなたも……同じ感じがしたから」
今度は彼女が僕の方を見て言った。僕は胸と首に釘を打たれたように視線をコーヒーの湯気から動かすことができなかった。
「何でだろ……」
「それこそ虫の知らせってやつ?」
「分からない……けど、あなたは同じ感じがする。あなたも自分が無いというか、私と
同じように人じゃなくなってるの。うん人じゃない」更に言った。「何かを自称して、だから仕方ないって現実から目を逸らしてるのも同じだね。深く傷ついてるからもう何もかも無くしてるようにも見えたんだ。ごめんなさい、怒ってる?そうじゃないなら良いの。別にそうじゃないのは幸せだから」
真顔で俯きながら聞いているから不機嫌になったと思われたのだろう。しかし全て当たっている。きっと。僕も彼女と同じように人間じゃないから仕方が無いとしているがそれは現実逃避なのだろうしもう傷つきたくないから感情を殺してしまったのだろう。もう全てを諦めてしまったのだ。彼女と同じように。だから彼女の方を向き初めて二人顔と顔を合わせ、分かるよ、と頷いた。
それを見て彼女はどことなく孤島の檻の中で仲間を見つけたようなホッとしたため息をついた。それは互いに拷問され血まみれになりもはや抵抗する気力も意思も失われてしまった者同士ということだ。
もう時計は八の数字を指し、この喫茶店も照明が弱く、虫の住処のように暗くなっていた。
「もう帰らなきゃね」辺りを見渡し蟲娘はそう言った。
「うん……」僕は消極的だったけど帰ることに同意した。
渋々バス停に向かった。今から帰っても怒られはしないだろう。しかしそれは相手にされてないだけでありそのことが態度にも露骨に表れているから家に帰りたくなかった。これ程までにバスが来る時を拒むことは珍しかった。
「帰りたくないよね」
何でこうも彼女は僕のことが分かるのだろうか、会った当初は突飛なことを言うだけの、所謂電波な子だと思っていたがその印象を覆された。
「一人だもんね。帰っても。私も、あなたも」
「どうしてさっきから僕のことが分かるの?」
割り勘で会計を済ませ、バス停でバスを待ってる時に彼女に聞いた。暫く彼女は考えるとバスが到着した。彼女はバスに乗るわけではないのでここで別れなければならないがバスに乗る瞬間に慌てるように言った。
「同じなの。私もあなたも、自分が無くなってる感じ。自分という人間から堕ちていってるの」
僕は帰宅し、事務的な食事を済ませて自室に入った。久しぶりに密度の濃い一日を過ごしたからか自室に入ると布団に吸い込まれるように身を沈めた。そうしてしばらくぼんやりするとふと彼女の言葉を思い出した。
「自分という人間から堕ちていってるの」
正直に言うと、よく分からなかった。彼女の言うことは初めて会った時もそうだったように、時々理解できない時があった。いくら考えても理解できそうで、できない水中から空や雲を眺めるようにゆらゆらとしてはっきりと視覚のと同じような気持だった。哲学書を読んでる時のあのもどかしさに似ている。
「……宿題出てたんだっけ」
これ以上考えても分からなそうだったので僕は宿題をし始めた。しかし問題集を数ページやってくるだけの簡単な宿題であるが中々集中することができず、問題は何十分経っても解くことができない。それは霧に包まれた海原をみすぼらしい船で渡る不毛な感覚を呼び起こす。そしてついには計算用紙に落書きまでし始めてしまった、こうなるといよいよ宿題は片付かなくなるのである。
シャープペンシルの芯は先程よりも生き生きと軽快に紙の上で踊っている。僕は絵を描くのが好きだ。とりわけ人物画が好きで小さい頃から絵を描いては色んな人に褒められていた。少なくとも勉強よりは幾分素質が良かったかもしれない。父に中学受験を強いられるまでは将来は美大に行きたいと思っていて、その旨を伝えたこともあったが
「そんなことよりも勉強しろ」と一掃されてしまった。
受験勉強を初めてからは絵を描く余裕も無くすっかりご無沙汰になってしまい最近ではたまに落書きだけに留まり絵の具を使ったりしなくなってしまった。画力も当然落ち、以前ならすらすら描けたポーズも倍の時間を掛けなければ描けなくなってしまった。今では難しい構図で絵を描く気にもなれず、簡単な絵しか描かなくなってしまった。
更にもう一つ感じたことは最近自分が絵が描けなくなったということだ、特に自画像。それは決して能力的な劣化ではない。以前から他人の人物画に比べるとあまり上手くはなかったが最近では顔のパーツも輪郭も全て出鱈目な感じでまったく似ても似つかない人物になってしまうのだ。今回も落書きする内に熱が入り、久しぶりに鉛筆画だけどしっかり自画像を描こうと決め込み、付近にあった手鏡を使ってまで描き始めた。しかし輪郭の段階から手こずり何とか完成させても各特徴がどれも形の違うジグソーパズルを無理矢理埋め込んだように、歪な出来となってしまった。
その絵を見「どうして自画像だけ余計下手になったのだろう」とじっくり考え込んだ。
そしてその時再び少女の言葉が脳内に浮かびその原因が分かった気がした。
「そうか、僕が僕自身から堕ちていくっていう意味だったんだ」
心だとか感情だとかそういったものが無いのは僕も彼女も同じだと思い、なるほどと思った。自分が無いのにどうやって自画像が描けようか、僕は消しゴムで消すのも億劫だったのでその紙をバレないようにくしゃくしゃに丸めゴミ箱に捨て、宿題を続けた。先程まで踊り狂っていたシャープペンシルの動きは死に絶えてしまった。
その後も毎日、と言いたいところだったが一日バスに往復で乗れば交通費も中学生の僕にとってはバカにはならないのでそれはできなかった。ただ、それでも行く日は格段に増えた。僕は蟲娘と会っては、取り留めのない、非生産的な会話をしていた。僕はあまり会話が得意ではないから共通の話題を探ろうとするとどうしても「今日はどんなことをされたか」というものしか無く、しかしそれでも
「今日は煙草の味を覚えた奴に腕を抑えられ、根性焼きをされたんだ」と僕が言えば
「やっぱり熱いの?クラスの子で吸い始めた子がいるけど、やっぱりいつかされちゃうのかな」と彼女が答える。
また彼女が「授業後脱いでロッカーに閉まっていたはずの私の体操服がね、昼休みの間に捨てられてたんだ」と言うと僕は興味あり気に
「どこに?」と聞く。
すると彼女は「男子便所だったの。汚くなっててとても着られなくなっちゃった」と答えるのだ。
特に、同じことをされた時には、例えば「守備練習」と称して体育の時間にたった二、三歩離れた所からバットを強振し、ボールを体にぶつけられるという虐めをされたという話は二人で「痛いんだよね」と盛り上がった。「冬は特に痛いんだよね。体が冷えてて」と付け加え、互いに頷いて。
たまに、彼女はトンチンカンなところがあると思う。何気なく将来の夢を聞いたら蟲になりきっているのか
「いつか綺麗な羽が生えて、飛んでみたい」と言ったし(理由は深く追求しなかったが。恐らくこのことを学校でも言っていたから蟲娘と呼ばれた理由の一つでもあるのだろう)、コーヒーを飲む時には相変わらず手から溢れんばかりの砂糖とシロップを入れる。この前僕達の共通点の話をした時も最初は何を言ってるか理解できなかった。よくよく考えると、目がこっちから見えないくらいに髪の毛を伸ばすのもいくら母親に褒められたからってやりすぎだよと少し、思った。
そして少し抜けてると思うのは、近くにいて話しかける時には必ず僕の袖をクイっと引っ張って呼び止めたり、喫茶店に行っていつもは向い合って座る。
しかしある時は「疲れちゃった……」と息を吐いて、僕の隣に座り寄りかかる時もあった。
聞くところによると、学校でプリントを配ろうと運ぶとどん臭いから必ず落として散らばしてしまうそうだ。それから拾おうとした時、必ず近くにいる誰かに同じように袖を引っ張り引き止める。さらに手伝ってくれた子には誰にでも
「ありがとう」と言うそうだ。
そんな態度をとったら男子は勘違いするのに、と僕はひっそりと笑う。たぶん彼女はこの年代の男子のことが分からないだろう。そしてあまりに男子から人気があると出る杭を叩き壊すように潰す人が出てくるのもきっと分からないだろう。狙っているのじゃなく素で少し不思議で誰とでも「いい人」であるかのように接し、笑顔を振りまく彼女の性格は良いところでもあり、虐められる原因にもなったのだろう。そこに平穏に地べたで餌を求めて歩いている虫を人間が八つ当たりとばかりに踏みつぶすような理不尽さを感じた。
傍から見るとこんな会話は本当に非生産的で不毛で虚しいものだ。傍から見てもそうかもしれない。しかし他人同士の会話なんてきっと第三者から見ればどれもそんなものだろうし、当事者の独りである僕がうっすらと「人間らしさ」を感じているのだから別に問題は無いのだろう。彼女といると、何か失っていた人間の要素がほんの少し取り戻せているような気がした、固まった心が少しずつ動いているようにも感じられたのだ。彼女もまた同じ事を考えているのか「無」を連想させる白い肌に少し「生」を感じさせる血の色が通っているような気がした。血の色、生を確信させる猛々しい色。
きっと好きになっていただろう。昔の彼女とこうやって接していたら。ただ今の彼女はまた僕も、いくら少し人間らしさを取り戻せているといっても感情はほとんど無くなっていた。だから双方、こうして頻繁に会っているけど「男女」の感情は芽すら出ていなかった。ただ少し、隠れているその目や綺麗だった頃の髪を見ることで本当の姿を知りたかった。
しかし「目を見せて」とか
「髪を昔みたいに手入れをしてそれを見せてほしい」と言うのも気恥ずかしかったから結局いつも見ないで終わっていたのだけれども。
僕と同じく、非人間であった虫を自称する少女。その人の様々な特徴を知りたがるのはただ連帯感から生まれる興味だけではないのかもしれない。ただの同胞が果たしてここまで僕のあらゆる興味の大半を支配することがあり得ようか?それが一体何なのか、自分自身の言葉では説明できないもどかしさがあった。