蟲娘 2
僕達は植物園が閉館時間を迎えるアナウンスが流れたため、とりあえず別の場所に移ろうと植物園付近にある年季を感じさせる古びた喫茶店に身を置くことにした。
他にもファミリーレストランとか新しくて綺麗で清潔な喫茶店はたくさんあった。しかし少女がいつもここで過ごしていることが多くまたそこ以外の店を頑なに拒否するので僕自身はあまりノリ気ではなかったがそこの店にすることにした。あの現実社会の人間に媚びるようなあの喫茶店にはどうも嫌悪感しか沸かない。
植物園の裏にあったので日差しが遮られ電気も点いていなかったので海の底に佇んでいるかのように暗く、更にテーブルや椅子そしてメニューといった店内で使用されている物も古びれていて注文を承りに来たのも老婆だったのでどことなくあの植物園と同じ社会と断絶された空間のように感じさせた。
「何頼むの?」僕は少女の方を向いていたがあくまで目線はメニューに合わせ聞いた。
「コーヒーで」少女は常連だからかメニューに目もくれず注文した。「砂糖とシロップ、持ってこなきゃ」と独り言を付け加えて。
僕も同じようにコーヒーを、それはあまり財布の中に満足なお金が入っていないからその他に何か目ぼしい飲み物とかお菓子とか頼むことができなかったからだ。コーヒー自体は好きでも嫌いでも無かったがブラックで飲む気だけは毛頭なく僕も少女と同じように砂糖とシロップを持ってこようと席を立った。
それと同時に少女が戻ってきたのだが左右の手一杯に砂糖とシロップを持ってきていて指の間からそれらの姿がありありと見えていた。
「どうしてそんなに持ってきたの」と僕は目を丸くして聞いた。
「どうしてって……甘い物が好きだからだよ、好きな物ってたくさん食べたくならない?私、好きなものならいくらでも食べるよ」
少女はさも当たり前かのように答え、むしろ問いただした僕こそが異質な者かのような目で見た。そしてそのままそれらをテーブルに置き注文したコーヒーがくると全て入れ、真っ黒だったコーヒーがたちまち白色へと変わり、それと同時にコーヒー本来の苦味は消え失せ代わりに砂糖とかシロップの舌にいつまでも残りそうな甘味になった。
「これじゃコーヒーの意味ないと思うんだけどな」と僕は言った。
「でもコーヒーの香りとかそれ自体の味が無くなったわけじゃないよ。苦いところ以外は好きだからこうして飲んでるの」
そう言ってテーブルの端から端へと散らばっていたそれらの中身が全て空っぽになったことを物ともせず答えた。
「よく友達とかに変って言われない?」
僕はこれまでの彼女の様子を見てこの質問をせざるを得なかった。というのも初めて顔を合わせた時から突飛な質問を平然とするし当然であるかのようにコーヒーに大量の砂糖とシロップを入れるし何より僕に対し
「見えるの?」という質問をしたからだ。
計算の内なのか、また所謂天然なのか、前者にしろ後者にしろいつもこんな調子でどうやって学校生活を営んでいるのだろうか、友達はいるのだろうか、という疑問がふつふつと隙間から漏れる煙のように湧いてきた。もっとも最後の二つの疑問は僕が他人に対して不安を抱く立場でもないだろうけど。
「言われないよ、そんなこと」とじっとコーヒーカップを見つめ僕に目をまったく合わせないで答えた。
僕も僕でコーヒーカップから出ている湯気を意味もなく見つめ少女に目を合わせようとはしなかったが。久しぶりに会話をすると思った以上に気疲れし、目を合わせようにも彼女の長い髪の毛で見えないからわざわざ合わせようとする努力もしなくていいと思いしなかった。そして彼女の答えを聞くとなんとなく安心した。それは僕とは違って彼女は受け入れてくれるコミュニティがあるからだ。先程までは同じ境遇な気がして共生感みたいなものを感知したのだが、疲労感が体中に蔓延している今の状態で目の前の少女が同じような立場だと知ったら、より精神的疲労感を募らせるだけだったし、他の子の不幸話を聞き背負うほど僕は余裕も無かった。ここ数日で新たに増えた傷を見てよりそれを実感している。
しかし次の一言でその一刻の安堵が砂でできた器同然に脆く崩れ去ったのだった。
「だって私、友達いないし」
その口調は先程までとまったく同じトーンだった。しかし何故だか耳にいつまでも残るくらい重々しく、またびしょ濡れになった服をずっと着ているみたいな疲労感がどっと押し寄せてきた。
最初から出されたお冷の氷がからんと溶ける音が鳴るのと同時にその音にかき消されそうなくらいの小さな声で付け加えた。
「だって私色んな人に色々酷いことをされているし、そんなのとても友達だなんて言えないよ」
僕はまだコーヒーの湯気を見続けその気まずさから一言も発せず、店内は雨雲が覆った日のような空気に包まれた。
「酷いことって?」
そう詳細を問うと少女は腕をまくり、細く白い腕に刻まれた傷や青痣を見せ、それまるで蚕が潰され薄気味悪い体液が皮膚に染み込んでいるようだった。そこ以外の体の部分は見せなかったが恐らく同じような状態なのだろうと思った。
「こんな風になるまでいつも皆に殴られたり傷つけられてるの。でもそれだけじゃないよ」
僕はそれを聞きゾッとし嫌な汗をかいた。
「私が仮に『やめて』って言っても皆笑ったり、怒ったりしてより攻撃してくるし、いくら用事があっても、いくら話したいことがあって皆に話しかけても皆無視するの。『キモイ』とか『近寄らないで』とか罵倒はされるけど。でもそれって会話じゃないよね」
僕も同じことをされてはいるし皮膚も同じ状況だが客観的に見ると引くくらいに恐ろしいことをされているのだと気づかされた。僕は驚きを隠せず、視線をコーヒーの湯気から彼女に移した。が、彼女は視線を変えようとはしない。それでいい。目を合わせたら余計に気まずくなるから。
「どうしてそんなことされるようになったの?」
その時彼女は躊躇っているのか、あえて聞こえないふりをしたのか、それまで白色だった肌を少し桜色に変え俯いて返事をしなかった。
「あ、嫌だったらいいんだ。別に、無理して聞くことじゃないし」
僕は無理に追求したことで彼女を傷つけたのではないかと焦りこの話題を終わらせようとした。暫くの期間会話しないだけでこうにも気を遣いながら会話しなくてはならないのかと冷や汗をかいて少しぐったりとした。
「別に、嫌ではないよ」
「あ、そうなんだ」
少しホッとした。それは彼女を傷つけずに済んだから、というよりは久しぶりの会話がそのまま気まずいままに終わるのもバツが悪いからだ。
「ただ……少し長くなる。それでも良かったら話すけど…嫌にならない?途中でうんざりしたくならない?」
とにかく話すからには真剣に聞いてもらいたい、私の話を。そう言わんばかりに前置きしてから話始めようとした。詳細を聞きたがっているのであればそれに応えなくてはならない。正直な話、他人の不幸話を聞き、それを背負える程の余裕は無いことは分かっていたが、何故だか次の言葉は自然と発せられた。
「うん。いいよ」