個人的な体験(下)
受験発表の当日のことは今でも一寸の間違いも無く、はっきりとその日の気温、目にしたもの、触れたもの全てを覚えている。
僕は休暇の取れた父と共に最初に発表された学校に向かっていた。父は朝から一声も発せず、表情も不変でそれは石像みたいで、それも何百年もの間人目に晒されず地中に埋まっていたそれのようにあらゆる形を変えずにいたのだ。その姿に見、僕は緊張と恐怖で背筋が音を立てて氷を張り巡らせ、そしてそこから冬なのに手で拭わなくてはならない量の汗をかいてしまうのだった。
僕は伝統という名の古びれた古城みたいな学校の校門をくぐると、危険を知らせるかのように急に腹痛や吐き気に襲われ、
「今すぐに逃げろ!」とどこか遠くから聞こえた気もした。
だが、その言葉通りに仮に逃げ出そうとしても父は僕の手を触れ合いというよりは逃げ出さないためにつなぎ止めている鎖のように、握っていた。父の手からは暖かさを感じられず、まさしく冬の寒さで冷たくなった貴金属、つまりは手錠と同じであった。
短い歩幅で合格発表の掲示板まで歩くその姿は死刑台に連れて行かれる死刑囚そのものだったし、実際にその掲示板は罪状にしか見えなかった。いよいよ辿り着くと僕は解答用紙に同情狙いで書いた文章に共鳴し、合格させてくれるという僅かで脆弱な希望をまだ捨てきれず、虚しい目でそれを見つめ、受験番号を丹念にそれこそ広大な砂漠で色違いの砂を探すくらいの労力をかけ、探していた。
いつまでも掲示板を見つめ、数字を探す、僕は。
浅ましく
惨めで
儚い願いにすがって
しかし現実はあまりに弱い小さき者に冷たく残酷で容赦無く牙を向けるものだ。僕の受験番号はどこにも掲示板に書かれてはいなくて僕は受験の失敗を確信し、その現実に完膚無き暴行を抵抗無しに加えられたのだ。
やがて父も僕の結果を知り、何も言わずに後ろを振り向き、帰ろうと歩き出した。僕は決して首を左上に向ける気にはなれなかった。きっと見ただけでその場にへたり込む程、人間離れした表情を浮かべ僕を睨みつけているに違いなかったからだ。しかし、その僅かながらの現実の逃亡さえ父は許さなかった。
「おい」
体を殴りつけたような鈍く、低い音をした父の声が僕の耳に入ってきた。こっちを向かなくてはいけない。分かっているが、どうしても不意に体の自由がまるで利かなくなり、それは本能的に父に抵抗しているのだと気づいた。まるで死んでいても目を刃物でつつけばそれに抵抗し、目を瞑るように。
「聞こえてないのか。おいこっちを向け」
しかしその本能による抵抗も、父の叫び声によってかき消されついに全てを諦め僕は父の方に首を恐る恐る向けた。
僕が首を左上の方に向けると冬の風で温度を失い冷たくなった顔には父の、それまでの無表情さとは異なり顔中に深い傷跡のような皺をつくり、歯を歯茎に埋めんばかりに噛み締めた鬼の形相を浮かべていた。とりわけ僕の心に深く残っていたのは、これはきっとあの夢に出てきた目と同じように顔の半分はあるのではないかという程の大きい目で、侮蔑と憎しみという黒い感情を持って僕を見下すように見続けた。更に父はその乾いて寒さから色を失った唇を広げこう話したのだ。
「お前は」
一瞬ためらったような表情を浮かべたが、言葉を続けた。
「面汚しだ!この家族の。落ちこぼれで、どうしようもない」
多くは語らなかったがそれだけで父が表情や言葉だけでは表し切れない程、僕に対して憤怒の炎を上げていることが伝わってきた。僕は謝罪しようにも、そのまま歩いて帰ろうにも、金縛りにあったのかというくらいに動けず、ただただ立ち尽くしていた。
この一校だけ落ちていたのならまだその後笑い話にでもできたかもしれない。
「あの時親父がたった一校落ちただけでかなり怒ってさぁ」なんて。
しかし当然ながらあんな解答を書いて合格させてくれる学校なぞ、一つもなかった。落ちていると確定しているのにも拘らず、期待と合格という夢にすがった目をして合否を確認する家族に僕は毎回耐えられなかった。やがて全落ちしたという事実が分かると家族は一斉に僕を鬼のように非難した。
「K校も、A校も、J校も全て落ちるなんてあんた今までなにやってたの!」
「あんだけ勉強してたのになんで受からないんだよ。馬鹿を通り越してるよ」
父に至っては「もういい」とだけ言い残して自室に閉じこもってしまった。
出来が悪いながらも、頭が悪いながらも、学校生活を捨ててまで、毎日夜中まで勉強していたという過程を評価してくれる人はいなくて皆結果だけを見、僕を罵倒した。
それからだろう。僕は家族に笑顔を振りまかれることもなくなったし最低限の事務的な会話しかしなくなったし僕に対し常に冷たい目で接するようになったのは。僕はこの家ではそこらのペット以下の扱いを受けるようになってしまったのだ。たった一回の受験の失敗で。
受験の代償は学校生活にも及んだ。僕が久しぶりに学校に行くと、皆薄気味悪くにやにやと白い歯を見せて笑っていたのだ。僕はどうしたのだろうと何となく自分の席に座り、黒板を見るとそこにはいつもなら日付と日直以外何も書かれていないはずの黒板に
「受験失敗おめでとう!」と赤色のチョークででかでかと書かれていたのだ。
僕は全身から嫌な汗をかき、何も無かったかのようにやり過ごそうとすると次はひそひそ話が聞こえてくるのだ。
「あんだけ勉強して失敗とかウケる」
「あいつ偏差値低かったのに受けたとこ全部頭の良い奴しか受けないような学校ばかりだったからね。落ちるのは当たり前だろ」
「俺らに散々八つ当たりして、死ねばいいのに」と一言一言が冷たい釘で胸を刺されるくらいの痛みを与えた。
確かに、一回だけ強い口調で遊びの誘いを断ったがその後は謝ったし、それだけでこんな風になってしまうのかと汗が止まらなかった。何かの間違いであって欲しい、その思いだけが僕を支配した。僕はその現実を振り払おうととりわけ仲の良い友達に話しかけたりもしたのだが、露骨に嫌な表情を浮かべ手を振り払われた挙句、菌が付いたと逃げ出したのだ。その時にこれが所謂虐めだという結論に至るのであった。
そのような扱いは地元の中学に進学してからも変わらず、いやむしろ今まで関わりの無かった人間も面白がり加担したためにエスカレートしていった。
最初の頃は僕もショックで寝耳に水を打たれた気分でもあり、一々それらに大袈裟に反応していたのだが、やがてまるで動じなくなってしまった。もちろん大袈裟に反応しないとつまらないからと皆殴りつけるのだが、本当に毎回心を傷つけられているという気分になってはとても病気の一つも患わずに生きることはできないので、感情という人間の証拠でもある神経を殺し、こうして日々を過ごすようになったのだ。
それは家でも変わらない。僕は最近ではいくら殴られても冷たい扱いを受けてもまったく動じないようになったのだ。こうすることで幾分、僕の家畜以下の暗い生活が始まった当初よりは楽な気持ちで生きられるようにはなったのだが、今の僕自身は感情も持たない、本当に実態のある人間であるのかと自問自答するようになっていた。
あの受験さえ無ければ、今でもそう思う。しかしそれ以上に思うのは今この状況を生み出したのは僕自身であることだ。もっと頭が良くて、もっと要領が良ければ誰かに八つ当たりもしなかったし家族の期待にも応えることができた。今でも言い訳をすることなしにこの過去を振り返ることのできない惨めな自分を見つけることもなかったのだ。つまりこの事件に関しては何も成し得ないくらいに何にも無い僕自身がいけなかったのだ。そう思うと、やり切れない気持ちになりただただ歯を食いしばるしかなかった。
あれこれ思慮を巡らせている内に、空腹に耐えかねて腹の底からうねり声が聞こえてきた。何か夜食でも食べようと思い、兄と父がいて少し躊躇したものの、やはり空腹には耐えられず居間へと向かった。
もう夜中だというのに、父と兄は仲良く談笑を交わしていた。その会話は医者でもなければこの二人に比べると頭の弱い、出来の悪い僕では微塵も理解できない医療の会話であったのでまったく立ち入りことができなかった。
僕の存在は目の前を通っているのにも拘らず、まるで認識されていないのか兄と父は挨拶一つかけずにいた。僕はお湯を沸かして数分待ち、完成させたカップラーメンをテーブルの上に置いた時、兄と父がバツの悪そうな表情を浮かべ、僕に話しかけた。
「こんな時間に食べて太るだけだぞ」
「さっさと寝ろ。どうせ勉強しないんだからな。試験が無くても予習とかすることはいっぱいあるだろうに。お前は部活もせずに勉強もせずに……一体何のために学校に行ってるんだ。それなのに飯だけはいっちょ前に食うんだな」
大体ひと通り文句を言うと、また僕がまるでいなかったかのように二人で会話をし始めたのだ。僕は姿をくらましひっそりとカップラーメンを胃の中に沈め、それ以降は誰とも会話することなく自室に向かった。
父と兄は僕の姿がたまにしか見えないのかもしれない。それは希少ということではまったくなく、僕の存在が意識内に入り込むことが稀なことの証拠でもある。結局僕は学校にいようとも、家にいようとも扱いにさしたる変化は無く、居場所もなかった。感情すら無くなった僕にとってその生活は決して苦痛なものではなかった。ただ、楽しくもなかった。明日もきっとそんな日なのだろう。