個人的な体験(上)
僕はどこにでもあるような平凡な公立の小学校に通う子供だった。運動音痴で体育のかけっこでは常に最下位だったし、逆上がりもできなかった。また、勉強でもテストで五十点を下回ることも多々あり決して成績優秀ではなかった。しかし友達はそれなりにいて、放課後には野球をしたり、ゲームをしたり、友達の家で寝泊まりもするなどそれなりの交友関係は築けていたのだ。両親もそんな僕を悪くは思ってなかったみたいだし、常に僕に笑顔を振りまき、子供心をなるだけ分かってやろうという努力が垣間見えた。そんな毎日が楽しく、よく笑って充実していたと思う。その証拠に昔図工の授業で描いた家族の絵や友だちの絵はどの人間もみんな笑顔である、この僕自身も含めて。今他人の絵を描いたらきっと鬼の形相をした絵になるに違いない。
しかし小学校四年生に進学した日からその平凡だが充実していた日々は変わってしまった。いつものように友達と野球やらゲームをして遊んでから帰宅し夕飯を食べようとした。しかし夕飯の時いつも笑顔だった家族はデスマスクみたいに無表情で冷たい顔をし、誰も喋らなかった。
「どうしたの」と僕は思わず動揺し、尋ねる。「何か今日みんな変だよ」
しかし、誰も返事をしないので僕は気まずそうに夕飯を済ませた。そんな中で食べた食事は先程食べた食事と同じ砂みたいな味をしていた気がする。そして夕飯の片付けが終わると父から呼び出された。
「おい」と僕の居間でテレビを見ている僕を緊張感のある声で呼んだのだった。「話があるんだ」
「何、お父さん」僕はその声に嫌な予感がした。「そんな顔して」
僕は何となく言われるであろう言葉を予想し、重い腰を上げた。そしてたった数歩歩けば座れるテーブル付近の椅子に向かうのをゆっくりと戦場へと足を踏み入れる兵隊のように、近づき、それに座った。僕の兄が何故高校生であるにも拘らず毎晩遅くまで勉強をするという非人間的な生活を過ごしている理由が僕には分かっていたので、恐らくそれを強いられると感づいたのだ。
父は五十路にまだ達していないというのに日々の勤務に疲弊し、年不相応の顔の皮膚のたるみだがあったり、荒れ果て張りのない肌の頬をさすりながら口を開いた。煙草の煙がへばりついた口臭が鼻孔に侵入し、不快感で一杯になる。
「お前ももう後数年もすれば中学生になる」
それがどうかしたのか、早く言いたいことを言って欲しいのに、と思った。
僕は急かすように「それがどうしたの」と結論を急いだ。
「この家は爺さんの頃から医者だろう。人の命を救い、立派な仕事だ。お父さんもそんな仕事に憧れ、医者になった。お父さんとしてはお前たちにもそんな仕事に就いてもらいたいからそのための勉強をしてもらいたいんだ」
僕は表情にこそ必死に平静を装ったが内心は不安に心がざわめき、とてもこれ以上父の話を心に留める気持ちにはならなかった。しかし父はそんな気持ちを知ってか知らずか止めること無く話し続ける。
「だから中学受験をしなさい。そして良い中学に入りなさい。そうすれば医者になる可能性はグッと高くなる。行きなさい、行くんだ」
僕は「受験」というフレーズを聞いただけに心に固く尖った大の大人でも抱えきれない石がのしかかった気持ちになった。受験とは僕の自由を束縛するであろうどん詰まりの言葉のことである。
僕の父方の家は祖父の頃から医者であった。父はK大学の附属病院に勤務しているし兄も今現在そこに通うために毎晩夜中まで勉強をしている。僕は顔の色が日に日に青くなり、頬も痩けている兄を見、このようにはなりたくないと思っていた。兄は大学病院に学生としてではなく、患者として通うようになってしまうのではないかと危惧した記憶すらある。そればかりでなく、僕は医者という職業にはまったく興味がなかった上にさして兄や父と比べると頭の出来も良くないという確信もあったから何としてでも中学受験だけは避けたいと思っていた。だから言うべき言葉は決まっていた。
「僕は医者にはなりたくない。だから普通に近くのN中学校に友達と行きたい」と僕は拒否反応を示したのである。
すると父はその年不相応の肌に皺を刻み、声を荒らげた。
「そんなこと言って将来はどうするんだ。どうせそんな学校行ってもろくな職に就けないぞ。よく分からない大学に行って、安月給の仕事に就いて世間から惨めな目で見られ、指を刺され笑われるだけだぞ。いいからやれと言ったからにはやれ!」
僕はその時父の怒り猛る姿を初めて見た。これまではどんなことをしても柔らかい笑顔を僕に振りまいてくれたのだが、将来の話題になると急に豹変した。僕はそれを見、萎縮していまい自分の意思とは裏腹に
「はい」と力なく実の無い言葉で要求を飲んでしまった。
「じゃあこられの中学を受ける。明日からじゃない、今から勉強すれば絶対に受かる。参考書ももう買ってあるからな。ちなみにもう塾に入るようにも手続きはしてある。これから毎週休まずに通うんだ。いいな」
父はそう言うとK校だとかJ校といった有名中学の過去問題集や参考書をテーブルに大きな音を立てて置いた。その分厚さに、内容の難解さに僕はただただ視界を暗くし、それをぼんやりと見つめるしかなかった。
「さあ早く行け」と父が急かす。「今日から毎日、だ」
「毎日」僕は思わず肺から思い切り二酸化炭素を吐き出し、目を丸くした。
この日今現在の僕の状況を作り上げたと言っても過言ではない中学受験の勉強が始まったのだった。
僕は父の言うように、というより言いなりになってまるで空腹になったら食す、眠くなったら寝る、という本能のように抗えず日付が変わるまで自室の学習机を睨みつけながら勉強をした。
塾だって同じで講師の教えている内容を一字一句耳に入れそれを残存させたのだ。友達と遊びたいからってサボることはできなかった。それをしてバレさえすれば父から堪え切れない程の罵声が猛々しく降り注がれるからだ。
「馬鹿野郎」
「お前は受かる気が無いのか」
「将来そんなんじゃ医者になれないぞ」といった風にだ。
一体僕がいつ医者になりたいかと言ったのだろうか。仮に医者になっても疲れ切った父の顔を見るととても充実しているようには思えなかった。僕はそんな低飛行を続け、決して角度を上げようとしないモチベーションのまま、シャーペンを握り講師の伝える内容をノートに書き綴っていた。
そんな生活をしていれば当然娯楽からも遠ざかる。流行りのゲーム、音楽、芸能人、全て僕は流行に孤島の鬼のようにぽつりと置いていかれた。また遊びの誘いの電話が来ても塾ならまだしも勉強をするからという理由で断り続けた。
「ごめん、今日も遊べない」
それがいつも友達と会った時の第一声になっていた。
しかし消極的な理由で始めたものの最初の頃はそれでも上手くやっていけた。というのも元々頭が良くなかったし勉強もまったくしていないゼロの状態だったから、肥満な人間が少し運動すればすぐ十キロくらい簡単に痩せるように、僕もちょっと勉強をすれば模試の成績は簡単に伸び、両親からも褒められていた。一年経ち、小学校五年生になった頃に兄が父と同じK大学の医学部に合格したことから
「僕も同じように頑張って医者になろう」と医者に興味が無かったのに段々とその気になっている自分がいた。
友人だって「受験勉強じゃしょうがないよね」と理解を示し、遊びに誘いはしないものの学校内でとにかく遊んでくれるようになったのだ。
とりわけ良かったのはその年の秋頃だ。模試の成績を見、両親、とりわけ父は昔のように屈託の無い日差しのような暖かい笑顔で僕を見てくれた。
「この調子でいけば合格だ。よくやってるな」
母や兄も一様に「将来は医者だ」と僕を褒めてくれた。
「このままいけば合格だ。早く受験日にならないかな」とまだ一年半近くある受験日を待ち望み日付が変わっても物ともせず勉強に明け暮れた。
この時のまま上手くいってくれれば今のようにはならなかったのに、いやむしろ最初から
まったくうまくいかなければ両親もさっさと見切りをつけて別の生き方を認めてくれたのかもしれない、と僕はいつもこの辺りのことを思い出し後悔するのだ。
これまでは順風満帆だったが小学校六年生の辺りから雲の色が清純な白色から漆黒の黒色へと変色するようになった。
僕はいつものように進級したばかりの時に受けた模試の結果を見た。受験勉強を始めてからずっと成績が伸び続けていた。だから今回もそれを信じて疑わなかった。今回の模試で偏差値がいくら伸びているだろう、そう思うだけで心地良い緊張感が体中を駆け巡ったのだ。
しかし信じられない現実が突きつけられた。模試の判定によると狙っている学校の合格率が前回の半分以下になっているのだ。偏差値も下がり、グラフを見るとまさにジェットコースターさながらの下降線を描いていたのだった。制御不可能になりブレーキもきかずそのまま地面に勢いよくぶつかり体をバラバラにさせる恐怖のジェットコースターだ。
「これはおかしい、何かの間違えだ」と何度も自分の目の狂いを信じ、見つめ直したが結果は散々たるものに変わりはなかった。それが信じられるその場に立っていることすら困難になる程現実は僕の心身を傷つけた。
「二年間もやってきたんだぞ、どうしてここまで成績が下がる?お前調子に乗ってサボったんじゃないだろうな。正直に言え!」と帰宅後僕は家族中の非難の的になった。
「何でこんなのも分からないんだ?俺の時は偏差値が下がったことなんて無かったぞ?ちゃんと勉強したのか、答えろ!」と兄が言えば
「はぁ……」とテーブル付近にある台所から大袈裟に僕の耳に入るくらいの大きな声で母がため息をつく。
それらの批判は僕という的に的確に刺さった。今にして思えば受験期に偏差値が上昇し続け、下降しない人なんて少数である。いくら勉強してもそうなってしまう人の方が大半だろう。むしろどっちが異端かこの家族は知ろうともしなかったのだ。
「もっと、勉強をしろ。今までの倍だ。サボる余地すら与えないしどんな馬鹿だって受かるくらいに勉強をしないといけない。いいな!」
父は血の色をし皮膚に憤怒の皺を刻み僕を睨みつけた。それだけで息の根すら止めることができそうな殺人者の眼光だ。
その表情を見、僕はこれまで以上に勉強せざるを得なくなった。夜中までやるのは当然のこと、数少ない友達と遊ぶ場であった学校の隙間の時間でも、ありとあらゆる時間に勉強は忍び込み僕の時間を侵食していき、僕をそれ以外できないくらいに縛り付けた。
そんな様子を周りの子も段々と奇異の目に見るようになった。僕も僕で焦りから誘われるとこれまでは丁重に柔肌に触れるような断り方をしていたが、最近では言われた本人の機嫌をやや損ねるくらいに強い口調で言うようになっていた。それは友達だからこそできる言い方でもあったしこれまで通り理解してくれると過信しているところはあった。しかし誰かと八つ当たりするように接しないととても何時間も無機質な活字が隙間なく埋められた参考書をくまなく見るやる気など生まれはしなかった。
それほど焦っていたのだ。当時仮に志望校に落ちたら僕は父からかつてない叱咤を受けるだろうし、兄が合格したのに僕が受からないとなると劣等感という感情が滝のように心中から押し寄せてくると思っていた。もはや自分のための受験勉強では無かった。
受験勉強をしてからというもの、よく父と兄は
「何でこんな問題ができないか本当に分からない」とか
「俺ができたんだからできるに決まってるだろ」と僕への指導を早急に諦めてしまう程に僕は理解力が劣っていた。
最初の頃は四年生の頃から勉強していたから、模試でもそこそこの成績でも偏差値は高く出ていたので合格が確実だと勘違いしていた。だがしかし六年生頃になるとありとあらゆる人が受験勉強を本格的に始動し、それでいて皆僕より理解力が高いためすぐに好成績を残してしまい、それと同時に僕の成績も落ちてしまったのだ。そのからくりに僕も家族も気づくことなく時を経てしまったのが間違いだったことは言うまでもないし、気づいてさえいれば
「いくら勉強をしても僕には向いてなかった。だからやめようよ」と家族にきっとそう言っただろう。そうすればもしかしたら受験をやめさせてくれたかもしれない。少なくとも例え家族から叱咤されようと友人関係が拗れることは無かったはずだ。
しかしもう手遅れなところまで来てしまったのだ。今からやめたいと駄々をこねても家族は許さないだろう。そして他の理由としては学校生活だ。クラスメートに受験の、それはヘドロみたいに汚ならしく汚臭の漂うようなストレスを思わずぶつけてしまってからどこかギクシャクした関係になってしまった。先生も、 他のクラスメートにも中学受験とは無縁の学校生活を享受しているために理解することへの努力も放棄して僕をクラスという狭小なコミュニティの異質な存在として扱うようになった。
「勉強ばっかしてないでたまには友達と遊ばないと」
「まだ勉強してるんだ。そうだよね。家は医者だし俺らとは違うんだよね」
といった具合に。しかし僕は勉強をサボるわけにもいかなかった。家では人を殺した鬼のような形相の父が毎晩限界を越える程に勉強することを強制し、少し仮眠しようと寝床につくだけでその顔から獰猛な声で僕を怒鳴りつけるである。僕は今や学校生活と家での生活の板挟みになり、動けず圧迫され息をするのにも一 苦労しなくてはならない、犬の暮らしを強いられていたのだ。
その日々も受験日を迎えれば強制的に終焉を告げる。学力は結局大して上がらぬままに、僕は受験会場へ母と向かったのだった。一日の最初を告げるはずの朝は終わりを予見させる暗い空をしていて、死人のような体温にまで体を凍えさせ、皮膚を攻撃する痛々しい風も吹いていて、僕も僕で慣れない早起きで頭が今から受験をするという現実を受け止めてくれさえしなかった。どこか非現実的な感じはしていたのだが、それでも本能的に怯えていたのか心臓は破裂しそうな程に揺れていてそれに伴い止めどなく冷たい汗が流れるのであった。
どの受験日の朝もそんな気分で行ったものだから各学校の校舎がどうであったとか、校門を通る際に応援に来た塾の職員に何を言われたか、どんな問題が出たかもまったく覚えていなかった。それでも問題を見、僕は問題の解法がまったく見出せず、それはまだ息があるのに地中の奥深くまで土葬されるのに似た焦燥を感じていたのだけは覚えている。手足は肉食動物に囲まれた小動物のように震え、目は問題を認識できぬくらいに眩み、内部から脳髄を抉られるような頭痛や吐き気に襲われた。
どうしよう
分からない
助けて
分からないですが、受からせてください。失敗したら生きていけません
そんな心境を手に集中させ、解答用紙に書き連ねた。もしかしたら同情して受からせてくれるかもしれないとただただ藁にすがり、鉛筆を軽快に動かしている周囲の存在をかき消し現実逃避をした。
しかし終わってからは少し厚い雲に覆われていた気持ちが幾分が晴れていた。やはり受験が終われば以前のように活字だらけの参考書を四六時中見なくても済むし、以前のように父が怒鳴りつけることも、兄が嫌味を言うことも、浮いていたクラスでの立場も無くなると思っていたからだ。これで仮に失敗したとしてもいつも通りにきっと戻るんだと開き直って、笑みを浮かべながら帰宅した。
それがどれほどに甘い考えだったかを僕は今でも後悔している。しかしそういった夢にのめり込まなければとてもあの時期、精神的に安定させることができない程精神的に幼かったのだろう
確実に失敗した受験
待ち受ける家族の罵倒
取り戻せなくなったクラスでの立場
そんな恐ろしい未来が待ち受けているとある程度予見できていたら、受験の日程が全て終わったらすぐにでもどこか遠い所に逃走するか自殺を試みるしか生きていく道は無かったに違いない。