半透明人間と蟲娘(上)
放課後、僕は植物園へと向かった。客が僕と彼女以外いないから、社会とは隔離されたような気になるあの植物園。それは同時に社会からの外圧もない僕らの理想の空間でもあると、行く途中のバスの中でふと思った。
植物館の熱帯植物園の部屋に入るとそれらしい生暖かい風が皮膚にまとわりつく。冬の部外者を疎外するような風とは異なり、受容的で穏やかな風。
そしてここにある植物は食虫植物を始めとして、実に他の植物と異なった特徴を持つものばかりだ。僕らが日常で見るありふれた門外漢から見たらどれも雑草と変わらぬ植物とは似ても似つかない。
これらの植物もしかしたら他の植物が作り上げた社会から抜け出したいという意思があったからこそ、ここに運ばれたのかもしれない。彼らも孤島の檻から抜け出し航海を続けて、この植物園という桃源郷に根を下ろしたのだろう。その証拠に決して萎縮することなしに、確固たる存在感を漂わせているのだ。社会に普通の人間が当たり前のような顔をして生きているのと同じように。
そこに僕が自動ドアを開けたと同時にここに入ってきた蠅が食虫植物の上に止まる。そして予定調和のように蠅は捕食されてしまった。この食虫植物も今日の僕のように社会の外圧を打ち消そうと蠅を捕食したのかもしれない。そう思うと、仲間意識が芽生え穏やかな目でこれを見つめた。
ゆっくりと歩きながら、出口までの最後の角を曲がろうとすると従い僕の胸は高鳴る。約束通りであれば今日も彼女はいるはずなのだ。かつて虫であることを自称した枯れ木みたいだった少女。今いるとすればここにいる植物みたいに毅然としてそこに立っているに違いない。いや、立っていて欲しいのである。
会いたい
触れたい
言葉を交わしたい
その気持ちだけが心を支配し決して薄まることはなかった。そして期待と不安を持って最後の角を曲がる。
すると僕の視界に少女が現れた。白い髪、肌、透明な瞳、小枝みたいに細い体、僕の鳩尾辺りまでしかない身長、まさしくかつて虫を自称した、しかし今は人間としてのアイデンティティを回復させた少女である。「人間」でありながら、「虫」であることも希求した、僕と同じ半分人間で半分そうでない者だ。
しかし初めて会った時とは違い、彼女のそれらの特徴は決して退廃的な印象は与えない。これから孤島を抜け出す出発点としての、さながら蝶のような印象を与える。目を凝らすと七つの色を振りまく羽がついているみたいだ。
僕は走る、一秒でも早く気づいてもらいたいから。たった十数歩の距離なのに、永劫を走るようにがむしゃらに地面を忙しく蹴る、彼女の姿はどんどん大きくなっていく。そして彼女の目の前に着くと一つの人間は笑みを浮かべる。決して見世物小屋で見せるような演技によるものではなく、喜びの感情から生まれた自然な本物の笑顔だ。
「やっぱり、来てくれたんだ。今日も」
「うん」
目の前の植物に目をやる。前にあったトリフィドの、人間社会を崩壊に追いやる恐怖の、しかし僕らにとってはもしかしたら救い主に成り得る食人植物の看板は跡形もなく無くなってしまったのである。
「もう無くなっちゃったんだ」と少し僕は寂しそうに言う。
「……ここで私達会ったもんね」と思い出の跡地を懐かしむ口調で彼女は言った。
「あそこで初めて話しかけられた時は、随分驚いたよ。変わった子……悪くいえば変な子……だなって思ったな」
「どうして?そんなに変だったかな。あの時は星座のこと、お父さんのこと、生きることについて随分マイナスに考えていたよ。生き辛くしてしまったのは私のせいだけど、このまま生きるのがあまりに辛いから……神様がこんな世の中無くしちゃえば良いのに、って思ってた。あなたの言う『地獄』をずっと胸に抱えてそれが癌みたいにどんどん体の隅々まで脅かしてたんだね。それでも……誰かがその苦しみを共有してくれる、またはそういう風にしてくれようと思うだけで……それを抱えても生きていける活力が得られるんだね。私みたいな弱い人間でも」
「僕もだ。僕の抱えている『地獄』も君がそういう風にしてくれたら、僕のような弱い人間でも生きていけるんだ。社会が強すぎるのか……僕達が弱すぎるのか……分からない。けれども、もう独りじゃない。そう思っただけでこの強大な社会の外圧に耐え、抗う活力を得ることができたんだ。その証拠に今日、僕は虐めてた奴らを傷だらけになりながらも倒すことができたんだ」と僕は誇らしげに言った。
「よく見ると……すごい傷や痣がある……大丈夫なの、平気?」と心配そうな顔で見つめ、僕の手の甲にできた痣を優しく撫でる。不思議なことに彼女がそこに触れるとその怪我も見た目ではまだ残っているものの、痛み事態は消え失せてしまいすっかり治癒してしまったように感じた。
だから「うん、大丈夫だよ。もうこれで僕を虐める奴らはいなくなるはずだ。もう見世物みたいなこともされない、人間であることをやめることもない。これからは自分の意思で学校に行けるんだ。家だって、家族の嫌味も物ともしなくなった」と自分自身を誇るような言葉の節々に自信を染み渡らせていった。
「私も、学校に行くのが辛くなくなったよ。あの子達ももう何も言わなくなったし、今までぎくしゃくしてたクラスの子達とも普通に喋れるようになった」と僕ほどではないが彼女も同じような言葉の質を持って返事をした。
「つまり僕達はもう苦しむことはないんだ。仮にこれからまた辛いことがあっても、僕と君がいれば決して人間であることも生きることをやめる必要もまったくない。僕達は体だけじゃなくて心も持ち合わせた完全な人間なんだ」
「そうだね。だって、こんなに楽しいんだから、毎日が!……これもあなたがいたから実現したんだよ」
そう言って彼女は精一杯背伸びをして僕に抱きついた。僕もそんな彼女を包み込むように抱擁した。
温かい、生きている人間の温度は皮膚を通過し心にまで染み渡るようなのだ。そして何より他人に存在を認めてもらうことが、人間として生きることを承認してもらえることが安らぎを与えてくれる。
「温かい……」と彼女は微笑む。
同じ事を考えていたんだと思うと、それだけでよりそれらの感覚が増した気がした、やはり僕らは一つに繋がっているのだと。もっと肌と肌を触れ合いさせその温かさ安らぎを強く教授したい、そう思った僕は屈んで頬と頬をくっつけた。
「あ……ちょっと恥ずかしいかも」と顔を赤らめて彼女は言う。
僕も同じでどんどん顔が赤くなっていった、彼女の顔の皮膚に触れているのだから。しかし抱擁以上にない温かさ、安らぎが訪れる。
ここには誰も来ない、社会とは断絶した場所かのようだ。だからこそ虐めの加害者、それを助けない教師、受験勉強を強いて世間体ばかり気にする家族、そういった拷問者は誰もいない。ここと店主以外誰もいない喫茶店と芝桜の公園は僕らの桃源郷だ。それらの場所でどの存在からも侵略されずに一生過ごしていたいと思った。だがしかし現実的に考えると、さすがにそこらで暮らすことはできない。
すると「この時間に来たということはあなたの学校も今日が終業式だったみたいね。春休みが終わるともう三年生になっちゃうんだね、もう受験生なんだね……高校はどこに行くの?第一志望とか決まってる?」と彼女は聞く。
「決まってないかな……でも、君と会えなくなるような高校には行かない。例え親がとやかく言おうと」
「じゃあ……中学を卒業したら、私の家で住まない……?」とくっつけていた頬を離し、僕の目を見て言う。
「え?」その言葉を聞き、何か閃いた時のような高揚感が生まれ体中を駆け巡ったのである。「良いの?」
「うん、お母さんはもう……病院から帰ってくることはほとんど無いと思うから家に他の家族はいないしね。私も学校帰りにお母さんに会いに行けるくらいの距離の高校に行くつもり。だから私とあなた、そこまで離れた高校にはならないと思う。だったら一人でいるより、あなたと一緒にいたい……だめ?」と哀願する目で首をかしげて言う。
そんな小動物みたいな目で頼まれ事をしたら例え首を縦に振る気の無い要求も飲んでしまいそうである。しかし今僕にその否定という選択肢は一切ありえない。
「うん、そうしよう。あの家で僕を求めている人なんていない。家を出ていくって言ったら喜んでサポートしてくれると思うよ」と即答した。
「良かった……ありがとう」と笑顔で言う。
綺麗な笑顔だった。それは再び以前読んだ難解な小説の一節を思い出させられるものだった。儚く、脆い花が月夜に照らされた真夜中に開花する姿はこのようなものなのかもしれない。これからもそんな彼女と同じ道を歩き、足跡を作っていく。孤島の檻を抜け、航海を始めても天候が荒れ狂い、僕らを襲うかもしれない。独りきりの状態でそうなってしまうと一人の人間ですらない僕らはすぐに船から引き離され、溺れて息絶えてしまうだろう。
しかし一人ですらない僕らが一緒になって一つになれば、一人の人間よりも強くなる。昔読んだ絵本であった小さな魚がたくさんあつまって群れとなり、それらを捕食する強大な魚を追い払った話のように。そう思うと自分は意思を持って生きていられるのだという自信が途切れることなく湯気みたいに湧き上がるのだ。もう感情を殺し無様な姿になってまで檻の中で生きながらえることももうないのだと。
「今、まだお昼ごろなんだ。終業式だったから早いんだね」と出口の先の休憩室にあるソファーに腰を下ろして彼女は言った。「今日はまだ、一緒にいれるんだね」と今の時を嬉しそうに享受する。それは風船みたいに膨らんだ幸福を抱いているのだ。
僕は財布の中身を見る。参考書を買うように母から渡された小遣いが、そこには溢れんばかりに詰まっている。さすがにそれを本来の目的意外に使うのは申し訳なさがある。しかしその小遣いを抜きにしても中学生にとって十分過ぎる金額が入っていた。財布に入っているお金が少なく家が貧乏だと思われることが母のプライドに傷をつけるからか。そして腕時計を見ると夕暮れまでの時間もまだ十分にある。一日はまだ目を覚まし、体を起こしたばかりであるのだ、だから一つの提案をしてみた。
「またあの公園に行こうか」と。「まだ咲いてるか分からないけど、それだったら人も大していないだろうし、いても僕らに何かするような人はいないはずだから」
「行きたい、すごく!」と僕の方に顔を寄せて同意してくれた。初めて話した時の消えそうな蝋燭の火みたいな声ではなく、透明だが脆弱ではなく生命力のある厚い硝子みたいな声で。そこにかつて人間であることを放棄した面影は見られなかった。




