独りの証拠(下)
僕は悪夢を見た。それは脳内にある記憶の断片、その中でも淀みきったものを蘇らせる不思議な夢であった。
僕は乾燥し、退廃した不毛の地に立っていた。周りには刺々しく歪でごつごつした岩が点在していて、他に印象に残るものとしては涙色の青々とした空に潔白の雲がただよっているだけだった。どうしてこんな所にいるのだろうか、と僕は夢であることにも気づかずその寂寥感と異常性から脱却するために、知り合いとか食物とか日常的な何かを見つけようと辺りを駆け巡った。僕は前述した岩が大なり小なり多く存在していたので、不安定で不恰好な姿で歩いていた。
「おうい。誰もいないの」
喉を揺らし、辺り一面に僕の声を響かせたが、それには虚しくも何の反応も無かった。僕は全裸でその脾弱で惨めな青白い肌を露出させていたので僕は早いところ服を着たいと思った。そう思うと急にブランドの高い服とコートを身につけていた。この服は僕が昔着ていた冬物の服である。母親は僕に服を買ってくる時は決まって、値段の張る服ばかりを選んでいたこの服もその内の一つである。どうしてそのような服が急に現れたのか不思議に思うと僕の背丈より頭二、三個分上の空間が捻れた。僕は恐る恐る、何が起こったのかという不安と好奇心に駆られ、そこを見続けたがその事をすぐに後悔することになる。
その捻れはやがて目になった。すぐ下の僕の頭部に突き刺さる氷柱のような冷たい目をしていて、侮蔑と軽蔑の感情を持って僕を見続けた。それによって僕は全身から嫌な滴を流し金縛りにあったように硬直した。頭くらいの大きさの目はまばたきもせず、その感情も変えず、見続ける。僕は幽霊のような怪奇や未知を包含した異常性に恐怖しているのではなく、僕の自尊心、そして存在自体が傷つけられることによる恐怖を感じていた。
「やめてくれ。僕を見ないでくれ、見ないでください」
そう叫んで僕は走り続けたが太陽と同じように、いくら場所を変えてもその姿は消えない。僕は喉を叩き潰すくらいに叫び声を発して僕自身の目に指を入れ、それを抉った。僕は血で真っ赤になった目ん球を精一杯力を込めて握りしめ、視界を遮った。夢であるから当然の如く痛覚は無く、眼球のあった場所は空っぽの穴となり血が際限なく流れた。視覚が無くなり、この空も地面も、僕自身も見つめることができなくなったが、僕を見下ろす目は消え僕は安堵し声を嗄らして笑い声をあげたのだ。幸い、耳は聞こえたし喋れるし、感情もあったから僕は僕でいられた。
しかしその喜びもつかの間、また暫くすると耳元に不快感しか残さない笑い声が聞こえてきたのだ。
「失敗して惨めだな」
「顔、マジで気持ち悪ぃな」
「おい、触るな菌が伝染る」
「そんなんだからお前は駄目なんだ」
「面汚しめ」
「お前の顔なんて見たくない」
「お前のこと見たらあいつ、吐いたって」
といった僕への悪口だけではなく、耳を劈く金切り声の笑い声が僕を包む。きっと姿は見えないが僕の体程の薔薇色をした唇が近くにいるのだろう。いくら耳を閉じても聞こえてくるし、いくら目が見えず、不恰好ながら走っても、転んで岩に体をぶつけ、傷を増やすだけだ。そういった行動をすると
「気持ち悪い」
「死にかけのゴキブリが這ってるみたい」などと、エコーがかかるくらいに大きな声で僕を嘲笑するのだ。
僕はこの声にもやがて耐え切れず、耳を頭から引きちぎった。皮膚からは赤黒く生温かい血が流れた。そして完璧に聴覚を失うために足元にあった尖った石で耳の穴を突き、音が入り込む通路を完璧に断ち切った。そうすると僕を馬鹿にする声も聞こえなくなり、またまた平穏を取り戻した。
僕はまたも腹一杯に声を出して笑ったが、その声は一切欠片も認識することができなかった。しかし僕は喋れるし、感情があったから自分の存在を認識できた。
目も、耳も感じなくなればいよいよ誰も僕に介入することは無くなり、僕はその場に腰を下ろして佇んでいた。僕を見つめる冷酷な目も、残虐な口も無くなったのだからきっとそれらはつまらないと思うだろう。そう思うとわずかに残された人間的部分である感情から喜びが生まれるのだ。
僕はその気分を保持したまま、この異常性から抜けだそうとあてもなくこの寂れた土地を再び独り歩き始めたのだ。知らない間にコートではなくなり、学校の制服に変わっていたが、僕は気にもとめなかった。視覚も聴覚も無いから腐敗死体のようにおぼつかなく歩いたり、何度も転んで、擦り傷ができた。しかしそれでも僕は僕を責める存在がいないので、安心してこの場を彷徨うことができたのだ。
けれども、また一刻経つとその安らぎの時は音を立てて砂上の楼閣のように崩れてしまったのだ。それらは僕はふらふらと歩いている時、乾いた地面から、虚無の空間から、気配を感じた。それらは気配だけを現し、僕に一切に干渉することは無かった。しかしそれらは僕が千鳥足とはいえ転ばずにこの土地を歩いている時だった。その様子をそれらは満足気にそれでいて見下したような感情を持って僕を見ていた。
だが、僕が一度転ぶとその本性を表した。宴を邪魔されたような、恋路に水を刺されたような不愉快な感情を僕はそれらから感じ取った。転んだ僕を地面のそれは大木の枝のように僕に絡みつき動けなくさせた。さらに空間にあるそれは人間の薄汚れた足や手となり僕をとにかく、蹴りつけた。
地面に食い込むくらいに頭部も腹部も下半身も蹴り続け、僕の蒼白の皮膚は醜い青痣や赤黒い血に塗れた。逃げようにも、大木の枝のような堅固な柵が体中に巻きつけられ、一ミリ足りとも、動くことができなかった。標本にされた昆虫のように僕は動けず、汚らしい手足に蹂躙され続けた。
「やめてくれ」と僕は叫ぶ。「次は歩くから、転ばないで歩くから」
そう言うと僕に絡みついたそれは地面に潜っていき、僕を傷めつけるそれも姿を消し転ぶ前の状況に戻った。しかし気配はしっかりとあるのだ。僕の一挙一動を薄気味悪い笑みで凝視しているのだ。
そんな中で僕は再び歩き出す。体中に傷が出来て、今まで以上に直進できず、左右に揺れながら歩く滑稽な姿をそれらに見せていた。その姿を面白おかしく、見世物を見ているように眺めている。僕は必死にここを抜け出す術を探したがどこを行っても、どうやら同じ土地のようである。僕はいつまでここにいるのだろうか。そう考えながら歩くと、再び小石に躓いて地面に滑りこんでしまった。
その様子を見たそれらはつまらないものを見せられたとばかりに、再び怒りの感情を持って姿を現した。さっきと同じように僕の体に傷を刻み続ける。僕は最初は動けないながらも必死に抵抗しようと声をあげ、助けを求めたがやがてそんな体力すら無くなってしまった。しかしまだ僕は先程の喜びは無いものの、感情があるから僕という人でいられた。
しかし抵抗する声もあげられなくなると、ついに攻撃が止まなくなってしまった。夏の一瞬降る豪雨のようにそれは激しさを増し、僕は痛覚に耐え切れなくなってきた。そして僕はある結論に至ったのだ。
どうしたらこの状況を抜け出すのかを考えるのはもう意味が無い。決して抜け出せないからだ、僕がいる限りは。だから無くしてしまうのだ、僕という存在を。そうすれば奴らは僕という人間を蹴れなくなる。しかし姿だけはどうやっても消せないから完全には人間であることをやめることは出来ない。ならば、せめて僕という人格を無くせば良いのだ。完璧ではないが、それさえ無くせば僕という意思の無い、中身が空っぽの姿だけの存在になる。それはもはや人間とは言えない。もちろん姿があるから人間とは認識されるが、完全な人間ではない。僕はついにこの場をやり過ごす打開策を思いつき、実行に移した。
いくら恥辱の目で見られても
いくら誹謗中傷を浴びせられても
いくら蹴られても
いくら殴りつけられても
いくら唾を吐かれても
いくら人間扱いされなくても
僕はもうまったく平気だった。もう視覚も聴覚も喋ることも、感情も持たず、姿だけの人間になったのだから。それは傍から見ると中身が無くて、とても実のある具体的な人間には見えないだろう。中身が無く、うっすらとしたそれはまるで半透明人間である。
しかしそのそうまでして生きている意味など僕にあるのだろうか。半透明人間になることで僕はその疑問を浮上させた。五感も無く、感情も無くしてしまった僕の存在する理由はどこにあるのだろうか。しかしそれらを回復すればまたそれらに怯え、この地肌を歩いていかなければならない。それらを回復したらきっと心にも傷を負って、何度も転んでは体も傷めつけられるだろう。だが死にもしないでこうした状態で生きる理由だと見当たらないのも事実だ。では何故死なないのだろうか。怖いだからだろうか、いや感情も無くしたのにそれは無いはずなのに。僕には生きる理由も、死ぬ理由も見当たらず、ただ存在があるだけなんだ。しかも人間としての存在ではなくものとしての存在。やはり僕はクラスメートがそう扱うように人間ではないのだろうか。
その答えを僕は見出せず、重くなった瞼が開かれ、この絶望の世界が消滅したのだ。僕は周囲ときょろきょろと見渡す。目の前には木製の本棚があるし、左四十五度の方向には勉強机もあるし、見下ろすと自分の体が見える。そして僕が夢から覚めると同時に一階の玄関から扉が閉まる重々しい音が聞こえてきた。そして兄と父親の喉を潰したような低い声も聞こえてきた。声変わりをすると皆あのような声になるのだろうか。
「あ」さらに僕は声を出してみる。「あ、あ、あ、あ」
更に腕を抓ると痛みがあり、僕はようやく夢から覚めたことに気づいた。五感はあるし、痛覚があるし、嫌な汗もかいていて感情もあるから僕は人間に戻れたのだ。そして僕はあの夢がどのような深層心理を表しているのか、考えに耽った。そして僕はきっと、今自分自身の状況を表しているのかもしれないと重い、そのような状況に陥った過程を探ろうと、自分自身の過去の記憶に身を沈めることにした。