車輪の下を掻い潜る 5
過去へと意識を飛ばしていることによって、今現在の彼女の体は空っぽのようであり、力無く僕に方へと寄りかかった。先刻までだったら照れてしまってとても彼女の声など耳に残存しないで、ろくに何を発したかも記憶しなかっただろう。しかし今、彼女の発せられる言葉のみに意識を全て向けているので、寄りかかられたことに気づくのも大分長い時間経ってからだったのだ。
しかし先程から彼女の口は閉ざされている。言葉を発しようとしても何度も音が口に当たって死滅しているようにも見える。それでいて相手から催促されることを、さらに言ってしまえば他の環境に触れられることを拒む蛹さながらの自己世界を形成していたのだった。今の僕にできることはそれを保護するが如く、彼女の背中をさすることだけだった。そうしていると遠方を見ていた彼女の目がフッとこちら側に向けられた。
――あなたにだったら……言えそう。……良かったら聞いてくれる?と物を欲する子供のような上目遣いをして言った。
僕はそれに同意しなければならない。僕が彼女にそうしてもらいたかった時にそうしてくれたから。
――うん。
そう言うと彼女は過去の足あとを見ようと意識を飛ばした。
――その時見た星空が忘れられなくてね、私は毎日夜空を見上げてた。歩いている時もね。一度見上げると電柱にぶつかったり、転んだりしたから随分と叱られたんだ。それでも中々やめることができなかったの。少しでも近くで見ようと、学校から帰るといつも公園の滑り台に登ってね。
――望遠鏡は使わなかったの?
――お父さんのだし、勝手に使って壊したら嫌だなって思って使わなかったの。そんな日が続いた。それでその日を迎えたの。いつものようにね、公園の滑り台の上で夜空を見てたらもう夕飯時になってて。たぶんお母さんに頼まれてお父さんと伯父さんが公園を出て目の前にある十字路に来たんだ。今日は星空を見ることに満足したからもう前を見て公園出口まで歩いていった。その時にね、伯父さんが言ったの。
「あれ、流れ星じゃないの?」と指を差しながら夜空を見上げて
流れ星なんて見たことが無かったから……つい上を向いてしまった。上を見続けて歩いてしまった。ここの十字路は田舎の割に交通が盛んで車がとても多く行き来していたのに、それなのに人通りはそこまで無いから一時停止の標識があるにもかかわらずみんな守らないのも知っていたのに、だからぼんやりと上を見上げてたら、どんなことになるかくらい……分かってたはずなのに。
彼女の瞳が涙で満たされ始める。流しても流しても足りないと感じ、いつまでも心を蝕む残酷な涙だ。
――今でも忘れない。横からトラックが、目の前を全て覆うくらいに大きなのが来て。もう気づいた時には避けられないくらいに近づいてた。
「このまま死ぬのかな?」と考える時間も無かった、本当に突然目に入るんじゃないかってくらい大きなトラックが来たんだ……
その時お父さんが、私の名前を、今じゃほとんど誰も呼んでくれない私の名前を叫んで、私を庇って一緒に轢かれたの。私にあった痛みは地面にぶつかった時の衝撃だけだった。だから一瞬でそんな痛みは無くなってしまった。その代わりに本来その受けるべき痛みを庇ってしまったお父さんは……オ父サンガ……血マミレダッタ。頭カラ、体カラ赤トイウヨリハモハヤ黒色ノ血ヲ流シテ。即死ダッタヨ。謝リノ言葉ヲ言ウコトモデキナカッタ。モウ頭ガパックリ、西瓜ミタイニナッテシマッテオ父サンジャナイミタイダッタ。イクラ呼ビカケテモ……ウントモスントモ言ワナイ。ソコカラハ何ガアッタカ覚エテナイ……気ヅイタラオ葬式ダッタ。私ノセイデオ母サンガ倒レテスグ白髪ダラケニナッタ。私ノ髪モ白髪ダケニナッタ。伯父サンハ私ニ何度モ謝ッタ。
「僕のせいでこうなった」
デモ……オ葬式ニ来テイタ人達モ、私モ知ッテタ。一番悪イノハ……一番悪イノハ……
彼女の目線がふと目の前の雪景色に戻り、それは過去の足あとを辿る時を終えたことを知らせることにもなった。そして僕の目を見、
「私……だって……」
その悲痛さから産出される涙で顔中は濡れ、それは僕自身の心にも及ぶのだった。洪水が建物の隙間から確実に浸水していくみたいに。
「それからだった。私が初めて望遠鏡を見た時のお父さんの言葉を毎日繰り返し思い出しては泣いていた。『それならどうやってあの星空まで行けば良いのか』と毎日真剣に考えてた。食事することも運動することも何もかも忘れてだんだん肌の色は白くなった。たまにお父さんの死体が夢に出てくると吐いてしまったり食欲がまったく湧かなくなってしまうからどんどんやせ細った。入院してるお母さんも毎日泣いていた。私に負担をかけないように私のいない時に。私を責めることなんて一度もしないでね、いつも必死に慰めてくれた。でも瞼は腫れてるし布団は湿ってる。そんなお母さんを見ると一度でもお父さんに会えれば、せめて一度だけでも会えればと思ってた……
あれだけ注意されたのにぼんやり上を見てたことを謝りたかった。
私の不注意でお母さんを困らせたことを叱ってくれたらそれで良かった。
そして最後に許してくれたらもっと嬉しかった。
私に会いたくないならせめてお母さんの前に現れてくれたらそれが一番救われた。
でも、そんなことできやしない。いくら星空から見守ってると言われても、死んだことことを受け入れることすらできない子だった。私は子供の時のお父さんよりずっと聞き分けが悪くて、心の弱い人だった。だから昔お花畑に連れていってくれた時に教えてくれた蝶になれればと本気で思った。そのまま空を超え、星のある宇宙まで行けば……また会える……今もそう思ってる……だから憧れてる。蝶よりはもっと別の生き物の方が良いかもしれないけど、蝶が私とお父さんの一番の思い出だから……」
そう思わなきゃ、自分の虫としてのアイデンティティを保てず、崩してしまったら、人間としてのアイデンティティも柱のように瓦礫と化してしまうのだろう。それが崩れた時、どうなってしまうかのか、恐らく廃人になるか自殺するかのどちらかだろう、決して招いてはいけないことだ。だから虫としてのアイデンティティだけは……どうやっても消せなかったのだろう。どんなことがあっても。だが、それを指摘する勇気は僕にも無かったし、彼女に受け入れることなど到底不可能だった。
「それから一回引っ越して、また引っ越して……今の家に来たの。そしたら……昔みたいに虐められるようになった。できるだけ、あの事故のことを忘れようと、自分なりに『普通』に過ごしてた。でも毎日、傷が増えるばかり。それからもう……人間であることを意識しなくなってしまった……どうしてだろう、って思った時、やっぱりあんなことをした罰なんだな、って思ったんだ」
「そんなこと、無いよ。君以外にも罪を犯しても何事も無く生きている人はいる。そもそもそれは罪じゃない、君が罰を被る必要は一切ないんだ」と言った。
しかし「こんなことをして罪も無しに生きられることがおかしいことだと思わない?みんなの生活をグシャグシャにして……泥棒でも罰を課せられるのに、この私に何も無い?それはおかしいよ!いつかもっと大きな罰が……私がもう死ぬしかありえない状況に追い込まれるそれが来ると思うの。だから……今も凄く怖い」
「でも、最近はお母さんとも伯父さんとも笑い合えたし、学校でも少しずつ居場所ができたから、もうそんな罰の到来を気にする必要は無くなってきてるはずだ」と涙を流し、俯く彼女の背中に手を置き、さすり始めた。
「それが、怖いの。今、ほんの少しだけその罰が和らいだんじゃないかって思うのが。『許されたんじゃないか』と思ったその瞬間にまた元通りの、あるいはそれ以上の辛い何かが起きるんじゃないかって思ってしまって。本当は、許されてなんかないよ、だから楽しいことが起きてるはずなのに……それもあなたのお陰で得られた楽しい今が怖い、怖くて一晩じゃ乾き切らないくらいに枕が涙で濡れてしまう……お父さん……ごめんなさい……」
彼女の心の奥底に、それは立ち入れないくらい深奥に存在し、いつまでも残滓している自己処罰の念をどう取り払うべきなのか?既にこの世にいない人物から許しを乞い、許される以外に方法は無いのだろうか?
僕らは感情を蘇らせた時、それぞれ乗り越えなければならない地獄がある。以前は感情を殺して逃避した地獄。それを克服するかが、僕らが人間に回帰する第一歩だったのだろう。少なくとも過剰な自己処罰の念は決してそれの克服には至らない。克服するどころか、徐々に心を摩滅させているのである。
「ごめんなさい……こんなこと言って……でも、あなたには言いたかったの。罰によってみんなから人間扱いされないで、私自身も人間であることを放棄してた時に……あなただけが、あの植物園で普通に話しかけてくれた。もう誰もああやって普通に話しかけてくれないと思ったから……随分びっくりした。それで私なんかのために、色々やってくれた。一緒にあの喫茶店に行ったり、髪を切られた時も助けてくれた。もう……二度とそんなこと無いと思った。あの事故が起きてから、ほとんどそういうことが無かったから。また、笑えるなんて思わなかった。あなたがいなかったら、そんなこと無かったと思う。これからもきっと、いや絶対にね。だからこそ、その幸せがまた一瞬で崩れるんじゃないかって……それも前の事故のように私自身の手によって!……もうどうしたら良いか、分からない、分からないよ……」と言い涙が間断無く流れる。
これまで決して、心の最深部に姿を表さぬように埋没していた本音の言葉が剥き出しになって僕に向かって発せられている。それを感じた僕は一つの結論に至るのだった。僕が彼女に抱いている感情と同じものを、彼女自身も僕に対し抱えているのだと。僕が心の地獄を克服し、人間に回帰できたのが、僕自身では決して成し得なかったように、彼女もまた僕によって人間への完全なる回帰が可能なのだ。そうであるならば、僕が彼女に対し行うことも決まっているのだ。
「……今まで、大変だったんだね」と言って僕は寄り添っている彼女を両手で包み込むようにした。
「僕のとは比にならない。それを誰にも言わないで……みんなに気を遣って独りでその地獄と戦ってきたんだ、頑張ったね。お父さんには会えない、それは変えられない、どうしても。だからお父さんからの答えは分からない。でもね、君のような人のお父さんなんだ、許してくれるよ。だって赤の他人の僕のために泣きついても話を聞いてくれたし、ここに連れて行ってくれた。他の人が苦しんでいる時に手を差し伸べてくれる人なんて、いないよ。いないから僕は独りだったんだし。そんな人のお父さんが子供を苦しめることなんて言わないはずだよ」
「でも……」
「そう言われて簡単に罪の意識が消えるものじゃないのも分かってる。……でももう独りでその罪に苦しまなくても良いんだ。……僕が同じように君の罪を苦しんでいく。二人なら、辛くてもやっていけそうじゃない?これから何があっても……例え罰に苦しんでも、罰によって発生する拷問じみた外部からの攻撃に対しても……」
「どうして……そう言ってくれるの?」
「君がそうしてくれたようにしてだけだよ。僕が再び笑えたのは君が僕の苦しみを分かってくれようとしてくれたからだ。もう独りじゃなくて良いんだ……って思った時、人間にまた戻れたんだ。……僕は君がいなければ『半透明人間』だし、君は僕がいなければきっと……『蟲娘』だ。どっちも半分人であって半分違う。でも二人で一つになれれば……人間になれるんだ。二人でいれれば、人間らしく、笑える。辛いことも乗り越えられるんだ」
「ありがとう……ありがとう……そう、誰かに言って欲しかったのかもしれない……ずっと。ありがとう……こんな……私に……」
彼女はあの病院で見たものと同じか、それ以上の新生児のような生命への活力を感じさせる笑顔を見せた。沈みゆく夕日は瞳から流れる涙を金色に照らしている。またそれを受容する笑顔を僕は浮かべていた。




