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孤島の檻  作者: 森心安
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車輪の下を掻い潜る 3

 数分後、落ち着きを取り戻し再び歩き出し丘の上に至る階段を登り始めた。歩くにつれて雪の冷たさが靴の中に伝わってくる。その度に先程深呼吸した時と同じような活力が得られている気がしたのだ。

 

 更にその隣には僕の様子を目を凝らして見ている彼女がいた。それは監視するというよりは僕を子供のように見守っているのである。その行為は僕が今、一人の人間として歩いていることを容認してくれるようだ。

 

 階段を上り切り、更に奥に進むとベンチが置いてある。ここに座れば丘全体を見下ろすことができる。ベンチが設置された意図に従うように、丘を見ると雪の花が咲き乱れ太陽を光を吸収し輝きを放っている。人影すらなくここもまた社会との関係を断ち切った秘境みたいな印象を与えたが、寂寥感や孤立感は無い。

 

 「ここで少し休もっか」と彼女は提案する。

 

 最も雪がその姿を覆っている。いくらここに存在するものから活力を得ようとしてもさすがにそのまま座っては尻や背中が濡れ、冷えてしまう。彼女が雪を払いのけようとしたが、その手が寒さで震えているのを見、「僕がやろう」という思考に至るより前に、雪を払った。

 

 「ありがとう……」と笑顔でお礼を言った。

 

 「大したことじゃないよ、じゃあ座ろっか」と彼女の顔ではなく木製のベンチを見ながら言った。

 

 しかし手で触ると突き刺さるような冷たさだった。このままでは氷上で座っているのに変わりはなく、悠長にしていられる程の余裕など生まれることはないだろう。もはや冷たさよりも痛覚の方が先行する。何とか遮断しようと僕は鞄から教科書を取り出した。一年分の範囲を網羅しているのでやたら厚い数学の教科書二冊である。何度も踏まれたり、カッターナイフで切り刻まれたり、水槽の中に捨てられているので、二年しか使ってないのに数倍は使い古したような歪な形をしていてもうこれを使って勉強をする気すら湧いてこないが、尻に敷く物としてなら有効活用できるに違いない。

 

 「少し汚いけど……」と僕はベンチに置く。

 

 「良いの?ありがとう、本当に何から何まで」と言って座った。いくらか氷上に座っているという感覚は薄れたはずだ。

 

 「二日連続で休んじゃったな」とベンチに敷いている教科書を見、脳髄の奥底に沈んでいた学校の存在が急上昇した。


 しかしこういう言い方をすると彼女に謝られそうだったから咄嗟に付け加えた。


 「でも、どうせ家族もクラスメートも教師も何とも思わないんだから、今まで無理して行くことなかったってことに気づいたよ。今まで変な義務感に駆られて逃げ出せず、反って自分を見失ってた気がする。それに気づかせてくれたここは本当に良い所だ」

 

 「うん。本当に良いところだね……」と風景を見下ろして同意した。

実際に僕はここに彼女といることはどんな存在にも関与されることなく、ずっと船に乗って海原を漂っているみたいな気分になった。まさしく孤島に存在する檻から抜け出し、その島から船に乗ってこれからは拷問されることなしに人間としての日々を穏やかに暮らしていくようだった……


 僕は何十分にも渡って彼女と会話をした。この前読んだ本の話、映画の話、学校でされた嫌なこと……どれも数日経てば具体的な会話内容すら忘れる、決して記憶には深く刻み込まれない浅く薄い会話内容だった。しかし誰の目も無く、ただ彼女とだけいる時間は孤島から抜けだした後の船旅と同等のものだったに違いない。その感覚だけは心に深く刻み込まれるに値するものだったはずだ。


 だがその会話の中で例外的に感覚だけでなく、会話内容そのものもいつまでも記憶に残り続けるであろうものがあった。


 「倉庫の中は……寒かったよ、おまけに薄暗かったしね。誰も助けてくれない恐怖感があったよ。あれは辛かったな……倉庫の中にいたこともそうだけど、本当にあの前後の時は生きるにしても死ぬにしても絶望的な未来が横たわっていた気がしたから……」と僕が再び倉庫の事件を語った。


 少し自分をヒロイックに語りすぎたか?とも思い、「しまった」とも思ったが、彼女は僕の言葉の一字一句を丹念に聞いていた。そして


 「大変だったね……私はあなたのことを全ては知らないけど……きっと今までもいっぱい辛い目にあったんだよね……じゃなきゃ『自分が人間かどうか』なんて思わないよね。本当に、これまで一人で頑張ってきたんだね……」と言い僕の両手を握った。


 小さい手だった

 小枝みたいな指だった

 言葉もありふれた手垢に満ちた言葉だった


 それでも偉人のそれらしい言葉より、心の底から救われた気がしたしどんな温暖な気候よりも体は暖かかった。


 「あなたはすっかり人間に戻れたみたいだね」と彼女は続けて言う。


 「本当に?どうして分かるの」


 「今日、ファミレスを出る時も、この公園に来てからも、そして今も、笑ってる。私、あなたの笑顔をそこまで見たの、初めてだよ」


 僕が今日、時々感じた表情筋の謎の疲労、それでいて快楽も見いだせたこの現象が、人間に回帰したことを示す証であったことに今、気づいた。


 「ああ……こうやって笑うんだっけ」

 

 「うん。そうだよ、そうやってやるんだよ」


 顔の筋肉を目一杯使った、最も人間らしいこの感情表現。演技でやるとただ表情筋の疲労感しか産出しない。しかし感情による天然の笑顔は心地良く、何度も何度も行なっていた。


 「僕は……ちゃんと人間だったんだ」と実感しながら。


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