車輪の下を掻い潜る 1
昨晩に降り積もった雪を金色に照らす陽が昇り、季節にそぐわない温暖な日であった。僕は家を出ると無意識的に学校とは別の方向に向かった。もはや学校に連絡するかどうかという迷いすらなしに目的地のC駅へと歩み始めたのだった。
鞄の中には絵の具とキャンバスが入っている。家族にバレないようにしなければならなかったので無理矢理鞄に押し込まなければならず、鞄は肥大した餅みたいな形をしていた。それでも彼女に言われた通りに好きなものを、好きなように描こうと僕はそれらを持ち出すことにしたのだ。
好きなことを堂々とやるのはいつ以来だろう。家で絵を描くにしてもバレてしまえば、露骨に嫌悪の表情を意識せずとも家族は浮かべるのだ。もう僕に意識的に構うことをやめているのにもかかわらずだ。僕も僕で以前より気にしなくなったとはいえやはりどうしても意識内に家族が介入し絵だけに集中することができない。だからいつも絵の具などを用いて絵を描く時は深夜に息を殺し、更に家族の気配に意識の大半を集中させていた。それではいくら絵への情熱を取り戻していたとはいえやはりその行為から得られる感情も普通に絵を描くより微細なものであったと言わざるを得なかった。だから今日は好きなことを誰にも気にされずにやる、その想いが体を支配していたので
――学校に行け!
そのような声は一切聞こえなかった。仮に聞こえてももう躊躇することなくそこに行くことなどしなかっただろう。もう、この檻の中の囚人として生きるつもりなどさらさらなかった。僕には拷問者以外にも僕を人として見てくれるに違いない人が近くにいるから。それは僕と同じく檻の中にいて血みどろになっている少女だ。
彼女の記憶は中々正確なもので、家からC駅までは二時間近くかかった。それでも家族にズル休みがバレるのが億劫で、登校時間に合わせて家を出たので予定よりも二時間近く早く着いてしまったのだった。どうせなら一旦彼女の家に行って一緒に行けば良かった、とも思ったがその瞬間やはり顔を赤く染め恥ずかしさで俯きぼんやりとしてしまったので改札に切符を入れ忘れてしまう程だった。
僕を人間に戻してくれるであろう人、その人は僕に微笑みかけてくれる。それがどんなに僕を救ってくれることか、どこにでもある人間の日常を当然のものとして漂っているような者には決して分からないだろう!半分透明な僕を普通の人間がどうして
気づき
哀れみ
実態を持った人間に戻してくれるだろうか
少なくとも僕の周りにはいなかった。それができたのが同じく人間であることを見失い、最近再びそれを取り戻した彼女のみが可能だったのだ。もっと単純に言うと、彼女が語りかけてくれること、笑ってくれること、それが「嬉しい」のだ。
「嬉しい」という言葉を例え胸の中だけであっても浮かべることは何年ぶりだろうか。嬉しい、嬉しい……もっと彼女と喋りたい、笑いあいたい、一緒にいたい……
それらの言葉のイメージを胸の中で何度も回転させると一つの結論に至るのだ。彼女のことを「好き」だと。それは決してこの食べ物が好きといった種のものではない。彼女の出発点としての、肯定的な無を連想させる、それでいて雪を繊維にして束ねたような髪の毛。そして満月のように大きく、陽光が射した水面さながらに輝きを放っている瞳。色白いのだが桜色をした頬。その容姿から生まれる表情や行動も時に幼児みたいにあどけないが時に年齢相応、更にそれ以上に大人びたところを見せる。少し他の人とはズレているかもしれない時があるかもしれないが全てを受け入れられる。家族以外の人の全てを受け入れること、また受け入れる態度を持って接すること、それが「好き」ということなのかもしれない。と僕は考えを巡らせた。ただそれを本人に伝えることはできないでいる……
待つこと約二時間、制服を着た彼女が改札を通りやってきた。胸の高まりが収まらずむしろどんどん激しさが増していく。
彼女は僕のことをどう思っているのだろうか。僕の全てを受け入れること、またその態度を持って接することなどできるのだろうか?僕は一体どんな人間なのだろうか?自画像を描けるようになるにまで自分という人間を取り戻すことはできたのだが、それでも見たものしか描けず、その内面にある自分を表現することも理解することもできない、まだまだ半透明人間なのだろう。
ただ、もし彼女が僕を受け入れてくれたらもう檻の中の囚人であることから解放され、彼女共々、互いに手を握りあってそこから抜け出すことができるに違いない。独りで抜け出す力はないが一緒になればきっと実現できる、そういう確信があった。
その時僕達は本当の自由を手に入れることができるのだろう
人間らしく生きていけるだろう
それが実現可能ならどんなに嬉しいことだろう
「時間も時間だし、お昼ごはんにしない?」僕の目の前にやってきて開口一番、彼女はそのような提案をした。
待つ間に空腹で仕方がなかった僕は同意したものの
「閑散とした駅だから混むことはないだろうけど、この時間帯に制服でいるのは変な目で見られないかな。ましてや互いに制服も違うわけだし警察とかに見られたら厄介なのかも」という今日の問題点について触れた。
しかし「私も家から出る時に同じことを考えたの。でも一度それを気にして辺りを見回すと、意外と明らかに制服から見て進学路が違うのに、平然と歩いている人がとっても多かったし誰も注意する人なんていなかったよ。ましてや私達に気にかける人なんて……これまでもいなかったのに今日に限っているわけないかなと思って制服で来ちゃった。だから大丈夫だとは思うよ」といい、僕もそれに同意し十数分歩いてようやく見つけたファミリーレストランで昼食を食べ始めた。
店内に入ると僕らと同じように制服を着た同年代の学生が多いことに気づく。制服を意図的に乱す反抗的な感じの学生、また僕と同じように無気力な感じの学生があちこちにいるのだった。
「意外と同じような子が多いんだね」と見慣れぬ光景に目を丸くして呟いた。
「でしょ?店側も敢えて注意するなんてことをしないし、周りの大人だって見慣れた光景かのように何とも思ってない」と言った。
確かに学生の他には主に中年の主婦がいるが学生の存在を気にも止めない風に大声で笑いあいながら昼食を食べている。
「あまりにもそんな子を見ているからもう周りは何とも思わなくなってしまったわけだ」と言う。
「そうみたい。それか見捨てられてしまったのかもね……だから私達がここにいるのも普通の光景で、きっと何も言われないよ。それはこの後外に出て辺りを彷徨いても同じこと」と同調する。
僕はその状況に違和感を感じつつも、少なくとも今日は反ってそれが好都合であるから利用する他はないと思った。彼女のいう見捨てられた人(とりわけ大人に)とまさしく僕そのものだった。ここもあの植物園みたいに、人がいるとはいえ彼らにとって社会から隔絶されたように感じる場所なのかもしれない。
僕がドリアを、彼女がイカ墨スパゲッティを注文した。それを待つ間窓ガラスから行き交う人々を一言も発することなくぼんやりと見つめていた。他の人ならばきっとこの沈黙を海底みたいに捉え、酷い水圧で押しつぶされそうな重く沈鬱な気分になるだろうけど彼女といるときは決してそんな気持ちにはならなかった。この沈黙を受容してくれるような安心感がそこにはあった。
「全然人のいない町だね……」というすぐに耳の穴と穴の間をすぐにすり抜け、空気に揉まれかき消される独り言も彼女は拾ってくれる。
「だから私達の存在を気にかける人はいないんだよ。この町にも、もちろん私達の住んでる町でも」と。
「でも君は昨日学校で見た時は誰かと一緒に帰っていたじゃないか。だからもう『あちら側』の人間になってしまったから僕とは話すつもりはないのかと思ったよ」と僕は昨日彼女を見た時から考えていたことを言った。
「そんな……ことしないよ。私が本格的に人間扱いされなくなる前に随分と熱心に話しかけてくれた子がまたそうしてくれるようになったの。それも一部だけど。更に言ってしまうと、そうなったら今度はそれまで以上に私の髪の毛を切った子達の眼が怖くなった。まるで人とは思えないよ。どっちが人間か、分からなくなっちゃうくらい」と僕の胸にあった不安を一掃してしまった。
「どうしてまた話しかけてくれたの?」と僕は問う。
「それはまた……喋ったの、前みたいに仲良くしてくれた子達に。最初は気まずそうにしてたけど随分とまた打ち解けてくれるようになったよ。だから私を虐める子達が今度は少数派になってやり辛そう。だから余計イライラしてるんだと思う。でも、きっともう大丈夫。少なくとも、学校に関してはね」と答えた。
「何故大丈夫だって言い切れるの?」
「もう、笑えるようになったから……それは何度も言ってるけど、あなたのおかげだからあなたを見捨てようとかそういう気持ちは一切生まれないよ」と届いたスパゲッティにも手をつけずに言った。
「ただ……」と彼女は続ける。「それがまた失う程に辛いことがあるんじゃないかって不安に思うの……」と言うとスパゲッティを食べ始めた。
その時夢を語ってくれた時に見せたあの悲哀の表情を見せた。その時浮かべた微笑の要素は一切削ぎ落とされた悲しみだけが配合された表情。
「あ……」と彼女は何かを思い出したのか口から言葉が溢れる。「今日はあなたのために来たのにごめんなさい。こんな気持ちにさせちゃって。この前あなたがしてくれたようにしたかったんだけど……ごめんなさい、暗い気持ちにさせてしまって……」と目を合わせずテーブルの左側を見つめて言った。
「そんなことないよ」と無理矢理頬を緩めて言うべきだったかもしれない。しかし今それを行ったところで彼女は僕の作り笑いに当然気づくだろうし、そんな芸当をしてみせる程の活力も無かった。
「じゃあ、気を取り直して外行こうか」とこの袋小路の状況を抜け出すために苦し紛れの提案を行った。
「うん……」と顔を上げて彼女も同意した。
彼女の顔を見、口の周りにイカ墨が付いたままで海原に漂う鯨とか鯱を上空から見下ろしたみたいに黒い点々が顔中に点在していた。僕は右手を伸ばし、紙ナプキンを何枚か取り出しそれを拭った。
「付いたままだよ。さすがにこのまま外に出たんじゃいくら何でも周りの目を引くよ」と言って。
がっつくような意地汚い食べ方はしてなかったのだが、彼女自身の肌が白いこともあって真っ先に目につくこと間違いなしだった。
「すっかり忘れてた。これじゃあ小さい子みたいだね」と恥ずかしさを紛らわすように微笑んでみせた。「これじゃあ泥棒さんみたい」
「そんな口の周りに髭を蓄えた犯罪者なんて今も昔も漫画にしかいないよ」と僕は言う。
「そうなの?よくニュースで捕まった人を見ると、髭がたくさんある人が多いからそういうものなのかなと思っちゃった。みんなそういう髭が無きゃいけないとかじゃないんだね」とさほど納得していないような表情を浮かべて言った。
「そう言われるとそうなのかもね。ちゃんと顔の手入れをするくらいに余裕のある人だったら盗みなんてやらないからなぁ」と、あながち口の周りに髭を蓄えた犯罪者は都市伝説的存在でもないのだと僕の方が納得してしまった。
あまりにも取り留めもない会話だ。しかしマイナスの価値も生み出さない日常的な会話でもある。それが先刻までの、いやそれまでの陰鬱な気持ちを幾分か晴らしてくれた。
「あ……」と彼女は先刻まで微笑んでいた彼女が僕の顔を見、目を丸くした。
「何?」と僕は問う。
「……何でもないよ。行こっか」
そう言うと彼女と僕は会計を済ませ、店を後にした。その時に差し込まれた陽は眩しかったが体内に効率良く吸収され活力を与えてくれる、そんな気がした。




