芽むしり仔撃ち 5
数時間後、空は徐々に薄い橙色に染まりつつあった。それに比例するように風も一層強くなり寒さよりも皮膚に痛みを感じざるをえなかった。そろそろ授業が終わり生徒が下校する時間帯である。
すると校舎から生徒達が現れ始めた。数人の生徒同士が固まって口を大きく開け笑いながら帰路につこうとしている。じっくりと校舎の窓を見ると裸になった生徒がユニフォームに着替えようとしているところを僅かながらにも視覚できる。彼女はこのような、ありふれているがしかし檻の外にいて拷問の対象にはならない安寧の日々を過ごしているのだろうか?今度は拷問を課す側に回り皮膚にあちこちに裂け目が出来、決して止まらぬ血を流して瀕死の僕に止めを刺しにかかるのではないか、いやそうなるに違いないという被害妄想を取り戻せず何度もため息をついた。
そしてそのような光景が続くこと十数分後、遠くから見ても目立つ白色の髪の毛をした少女が校舎から出てきた、間違いなく彼女である。初めてあった時は全てを失った無を感じさせる退廃的な髪の毛とオーラの色をしていたのだが、今では全てを創造できる出発点としての無を感じさせる白色をしていて遠くから見ても眩しさで条件反射的に目を逸らしそうになってしまった。
そして彼女の周りには他の学生も何人かいる。歳相応のどこにでもいる、ニキビが目立つ男子が両脇に並んでいる。彼女は彼らと周りの人間同様に笑みを見せながら会話していたのだ。僕はその様子を見、人間らしい、ありふれたそれでいて平穏な日々を再び手にしたのだと胸をなで下ろした。
しかしその一方でもう僕とは立場が違う人になってしまったのだという、置いてきぼりの気持ちも抱いていた。彼女が近づくにつれて眩しさが増していき、もうとても直視できなくなってしまい、今度こそ咄嗟に首ごと地面を向いてしまった。咄嗟に傾けた向きが上ではなく無機物であるコンクリートでできた地面を見てしまったところが今の僕らしいとも言える、惨めな首の角度だった。
このままでは判決を下すこともできず、彼女に声すらかけてもらうことなしに帰宅する他は無くなってしまう。そして僕の本能の声に逆らうという強い意思は脆く崩れ去り、またニセモノの、やがて感情の無い無機物的な日々へと回帰することになってしまうだろう、それだけは避けたかった。
しかし僕のような拷問されている人間が彼女に話しかけることで、周囲の印象を悪くし再び拷問される側に戻るかもしれないという恐れもあり、近づく勇気すら沸かなかった。僕が彼女の足を引っ張る権利などどこにもないのだから。しかしこのままでは通りすぎてしまい、僕の一大決心も無為な粋がりへと成り下がってしまうだろう……
だが幸いにも彼女はその男子達と帰り道は異なっていた。いつまでも警備員の目が届かない場所にいるわけにもいかないので(しかももう既に学生には見られ、違う学校の生徒が目立たない場所にいるということに対し不審の目で見られている)つけていくことにした。今は他の学生もいるがやがて彼女が一人きりになる時が来るはずだ。僕が周囲から小針のような視線が体内に突き刺さり痛みを感じさせたものだから、この季節にもかかわらず冷や汗を掻いてしまい更に異質なものとしての視線を浴びせられることになった。
やがて十字路に着いた。このまま真っ直ぐ進めば以前彼女の母親が入院していた病院を横切るのだが、彼女はそこを右に曲がった。ということは今日も植物園に行かないということである。もし行くのであれば十字路を真っ直ぐ進んだ先に止まるバスに乗らなくてはならないからだ。やはりもうあの生活に戻る気は無いのだろうか、と思い人通りが徐々に少なくなってきて話かける状況になったのだが、一向に行動に移すのが躊躇われた。しかし彼女は信号の無い交差点に立ち止まり、一向に車が通る気配を見せないのにわざわざ信号が無いからと左右確認をし始めたのだ。数歩後ろに歩いていた僕はその動作によってついに彼女と目を合わせることになった。
不意に訪れた会話の機会に狼狽してしまい、話そうと思っていたこと全てが脳髄からかき消されてしまった。彼女もまた同じ様子でいたので会話が生まれるのに、枯れ木にしがみついていた文字通り枯葉色をした枯葉がついに冬の冷たい強風によって力尽き、木から引き剥がされて地面に横たわるまでの時がかかった。そんな難産の会話も僕からではなく彼女の口から生まれたものだった。
「どうしたの?こんなところにいて」と目を口の大きさに負けないくらい見開いて。
その驚愕の表情を見、僕は「判決を口から聞く前にその表情が全てを現している!」と被害妄想を膨らませるに膨らませた結果、早急に結論を出してしまい、一日中寒空にいたからというわけでもなく、体中を震わせ始めた。
「もう、僕は恥ずかしい人間だ。君もそう思ったのだろう?」と体は血の気が引き震えているのに顔だけ紅潮した、奇妙な様相を見せて答えた。
「何を思ったの?」と彼女は更に戸惑いを見せた。「特にあなたを恥ずかしい人だとは思っていないけれど……」と加えて。
しかし今の僕の耳は倉庫内にいるのが当然の無機物さながらに何も聴こえなくなっていた。ただ自分の心のみが
――お前は恥ずかしい人間だ!そんな感情に苛まれて死んでいく道を選択したのだから、もうそうするしか無い!と叫び続けているのだった。
そして背後から人の気配を感じ取り、振り向くと彼女と同じ学校の生徒が歩いていた。
――あの学生はお前と蟲娘がいるところを見たぞ!今のお前が蟲娘といるところを見られたらどうなる?それがきっかけでまた何か仕打ちを受け、人間であることをやめてしまうかもしれない。お前は蟲娘の足を引っ張っているのだ。早く退け!と学校に行くように指示した本能じみたものからの声が聞こえた。
僕はその通りだと思い
「君と同じ学校の生徒に見られてしまった、本当にごめん。もう姿を二度と見せないから安心して。さようなら」と目を見開いたままの彼女を置き去りにし元きた道に体を向け地面を蹴った。
僕は一目散に逃げながらどうやって死のうか、と思案した。駅のホームから飛び降りた場合、本当に命が尽き物となった僕の体があまりに無残な姿へと変貌するので、これはやめようと思った。睡眠薬も一気の飲んだところで上手くいくとはとても思えなかった。大体僕は二三錠の薬ですら飲み込むことがうまくできない。細かく砕けば飲めなくはないだろうが、やはり骨が折れる作業である。だからこれもあまり良い方法ではないだろう。しかし最期まで人間であることを追求しようと思ったら、自殺という手段よりは他の人間に手を施してもらうのが一番かもしれない、その場合はどうすれば良いのだろうか……
だが十字路にまで戻り、右手に曲がろうとした瞬間、ブレザーの端が引っ張られ、今行なっている動作を中止せざるを得なくなった。その原因は一体何かと思い振り向くとそこに彼女の姿があったのだ。細くてしかし以前とは異なり生え始めた小枝のような生命の息吹を感じさせる生き生きとした腕を伸ばし、物を掴むのに不便そうな小さな手でブレザーに皺ができそうな程しっかりと握りしめていた。顔は丁度空と同じ色に赤く染められ、困惑と動揺に溢れた表情を浮かべていた。強い風の中を切り裂くが如く走ったので、短くはなっていても髪の毛は乱れていた。
「どうして?」という短い言葉ですら彼女は息を切らしていたので途切れ途切れ、やっとの思いで発することができた。
しかしその彼女の困難を伴った作業に対し僕は同じように
「どうして?」と質問を質問で返すことしかできなかった。
僕は彼女の表情から「勘違いをした哀れなニセモノの人間」という判決文を読み取り、絶望に打ちひしがれ人間らしく死のうと決めたのだ。それをどうして判決文を読んだ張本人が止めるのだろうか、という疑問があった。
「何か……あなたは勘違いしているかもしれない。言ってみて?どうしてそんなことを言ったの?そしてその後走りだしたの?」と彼女は詳細を求めた。
僕は説明を試みようと後ろを振り向いた。すると彼女は眉を山の斜面のような角度にし、上目づかいで僕を見、不安を滲ませた灰青色の顔色をしていた。
「言ってみて、私で良かったら。今のあなたからは今までにないくらいに苦しそうだから……」と言い。
更に正面を向いた僕の手を握りしめた。以前は冷風に晒された鉄さながらに冷たい手だったが、今は暖炉で燃える炎のように熱すぎず寒すぎず心地よい体温であった。彼女の手は僕の体の表皮を包んでいた薄くしかし堅固で神経から感情に至る全ての機能を阻害する氷を溶かしてくれたのだった。凍えていた機能が急に温暖な気候に包まれ安堵したので、張り詰めていた緊張感が突如音をたてて切れてしまうようだった。僕は両手を握りながらひざまずき、頭を垂れ嗚咽混じりに瞳からは涙が流れ、地面に滴り落ちた。体も、声も震え立ち上がることも喋ることもできない。
「どうしたの?何かあったの?」と彼女はより不安に満ち溢れしゃがみこんで自分を守ろうと丸まった団子虫みたいになった背中をさすった。
それがまた僕の
皮膚を
神経を
感情を
揺さぶり視界も思考も白濁になり、死に際の虫さながらだった。
「とにかく、一回私の家に行こっか。ここからさっきの道路を渡って真っ直ぐに歩けば団地に着くから。そこに住んでるの。近いから行こう?そこで何があったか話してくれれば良いから。大丈夫だから、心配しなくても大丈夫だから、一緒に行こう?」と俯く僕の目を合わせようと顔を覗き込みながら言った。
僕は「ありがとう……ありがとう……」と呟きながら彼女の手を握り、家へと向かったのだった。
ああ、こうされたかったんだ、僕は誰かに。そう体中に張り付いていた氷が溶けるのを感じながら思ったのだった。




