独りの証拠(前)
新しく皮膚に刻まれた傷が歩く度に痛覚を与えた。その足取りは覚束無いもので、端から見ればそれこそ人外の故障し奇怪な動きをするロボットであった。それをクラスメートに見られれば足を引っかけられたり、拳で体を抉られるように殴られたりするので誰もいなくなるまで様子を見つつ人目を避け、校舎から出なければならない。教室が空になって数十分経ち、僕は今日もやっとの思いで始終死を待つまで皮膚を、体毛を燃やし、体液を蒸発させる煉獄の炎が発生し続け、苦痛を与え続ける焼却場のような校舎から脱兎したのだ。
今日は仮にこのまま一日を終えてはとても明日へ立ち向かう微々たる英気すら沸かない日であると思ったので、出かけようと思った。夕日に反射し黄金色に輝く銀色に塗装された科学館を背にバス停に止まった。近くの公園の砂埃に包まれ虚しく汚れた時刻表を見、僕は腕時計を確認した。
「もうすぐ着くな」
喉から数時間ぶりに不慣れで、初で世間知らずな幼気な少年の声と世間に疲弊した成年の声との狭間の声を発した。これが声変わりというものなのだろうか。自分の意思とは関係ないところで成長が進んでいることに、違和感があった。
五分程待つと、上半分が緑色で、下半分がクリーム色をしたバスが到着した。日々のルーチンワークによる疲れが深く刻まれた皺だらけの皮膚と、その生活にすがる脾弱な目をした運転手が僕を見下ろした。僕は百円ショップで購入したマジックテープで閉じられた財布からこの場にそぐわない違和感のあるばりばりという音を出し、運賃を入れた。金だけはいつもクラスメートに奪われないように千円札が一枚だけ入ったダミーの財布があるから、本物の財布はいつも奪われることがなく、無事だ。
「……どうも」
運転手の型通りの挨拶に適当に会釈して僕は一番奥の窓側に座った。乗客は僕以外には忙しく活発な声を発している蒙古斑が残っているであろう子供とその母親しかいなかった。その子供の空間を轟かす声とは対照的にその音を耳にも入れないようにするためか目を固く瞑っていた。子供がいくら母親の名前を呼んでも
「今眠いから静かにしてなさい」としか言わない。しつこく子供が呼びかけると母親は諦めて仕方が無しに会話をし始めた。
どうして逆らえないんだろう
どうして逆らおうとすら思わなくなってしまったのだろう
僕はこのバスの乗客の姿を見て、声には出さず息だけでそう発した。
バスに乗られること約五十分が経過し、黄金色に染まっていた雲も少しずつ青灰色に染まっていった。先程の親子はとっくに下車してしまったのかもう既に乗客は僕しかいなく、妙な気まずさがこの空間を包んでいた。
「まもなく、T中学校前、T中学校前です」とアナウンスされる。
僕の目的地にようやく着いたので、すかさず爪の捲れた右の人差し指で停車ボタンを押した。
この指から爪が無くなったのは三日前に梃子の原理を説明をするためにクラスメートが僕を実験台に利用したのだ。
「爪でも剥せるんじゃね?」という残酷な気まぐれ僕の傷は増えてしまうのだ。裸になった部分に何か触れるだけで痛みで顔を歪めてしまう。剥がされた爪をセロテープで貼って保護してみても大して痛みは免れなかった。
黒くくすんだ箇所が点在する、寂れた建物が目の前に建っている。そこの入り口には「熱帯植物園」と書かれている。決して古い建物ではないのだろうが、窓ガラス一つも満足に磨かれず、埃まみれな様子を見るとここの管理者は元から綺麗に維持しようという意思すらないのだろう。
僕は時間とお金に余裕があればここで時間を潰すことにしている。閉館時間は早いが、地元で出かければクラスメートに会う可能性もあるし、学校からかなり遠いこの場所ならわざわざ僕を追いかける稀有というか時間に余裕のある暇な者はいないと思ったからだ。そしてこんな寂れた植物園に閉館時間間際に来る中学生なんて僕ぐらいしかいなかったし、一人で物思いに耽りつつ暫くの間過ごすのが僕にとって安寧の時であったのだ。
中に入れば都心の水族館に比べるとまったく足元に及ばない程種類が少ない、小規模な水族館がある。あまりに貧相な印象を与えるのだが、ここは暖房が効いていることもあり親子連れがちらほら目に入る。学生が好き好んで行くような施設ではないから制服を来ている僕を不思議そうに子供の母親は見つめている。
その異端者を見つめるような視線に痛みを感じつつ、僕はその奥の熱帯植物が多く植えられているフロアに入った。ここは妙な生暖かさが皮膚に絡み、不快感を覚える人もいるのだろう。また水族館ならともかく、ただ熱帯植物が植えられただけの部屋に主な客層である小さな子供が興味を示すはずがない。そのためまるで人がいなかったから常に一人でいられた。植物がとりわけ好きなのでは無いから植物の名前はまったく覚えなかったが、この環境は安堵感を僕に与えてくれた。
独りでいる時――僕はいつも自らの思考に身を沈める。そんな深い話ではない。ただ
何故学校に行くのを止めないのか?
何故自殺しないのか?
何故逃げないのか?
僕はここにじっと微動だにせず、人目に晒され続ける植物のように生き続ける意味を考えていた。虐めてくる人たちを見返す特技も無い。学力は中間くらいだし、運動神経は目も当てられないし、話術も当然無い。それでいて、いやだからこそ虐めのターゲットになり人間扱いされていないのにどうして学校に行くのか。僕は腹が減ったら食事をし、眠くなったら寝る、といった本能のように抗えず、自分の意思は拒否反応を示しているのに学校に通っているのではないか。あの母親のように「嫌だ」と思っても何故か逃げられない。逃げることすらできないのだろうか。いや、逃げようとすら思わないのだ。
せめてその勇気だけあったらどうだろう。この社会から逃避するために自殺でもしたら皆焦るだろうか。いや、女子の何人かはきっと泣きはするが、「こんな虐められてる奴の死にすら泣いている優しくて繊細な自分」に酔うために材料に使われるだけで最期まで人間扱いされないだろう。
そんなことを僕は興味の無い植物に目をやりつつ、考えていた。それは非生産的で無意味なものに他人には思えるかもしれないけれども、独りで今の自分を見つめられる時間が欲しかった。
誰も僕を見てくれる人はいないから
誰も僕を人として見てくれないから
僕という存在を認めてくれる人がいないから
僕だけが僕を見て、自分の存在する意味というか、存在そのものを確認しようとするのだ。家畜として生まれた動物も、生後間もなく捕食される動物も、子孫を生むこと無く死にゆく虫もきっと同じ事を思うだろうし、そんな気持ちを分かってくれると思う。確認しようとするだけで決して確認できるわけではないのだが。けれども、少なくとも僕の周りでそんな気持ちを分かってくれる人は誰一人としていないだろう、いや絶対にそのような者は存在しない。
ふと食虫植物に目をやると、僕が部屋を入ったと同時に侵入した蠅が飛び回っていた。この誰にも疎外されないはずの空間に入ってきた蠅。次の瞬間食虫植物は自らの居場所にまとわりつく蠅を捕食した。蠅は筒状になった葉から懸命にもがいても抜けだせずやがて捕食された蠅はもがいて暴れるのをやめた。蠅が動きを止めるとまたいつも通りの外部からの接触がほとんどない社会から断絶されたような空間に戻った。ここにいると不思議と落ち着くのは何故だろう。
この植物園は食虫植物の特集でもやっているのか、普段置いてある名札に加え、写真と特徴が書かれた木の板が置かれていた。奥まで行き、出口付近になると一つだけ僕の身長に少し欠けるくらいの大きさの写真と説明文が書かれただけの看板を見つけた。
それは「食人植物トリフィド」と書かれていた。更に説明文にはこう書かれていた。
「三本の太い根で歩き、頭部に生えている猛毒の鞭で人を殺し、その死体を栄養とする」
この説明文で子供の好奇心や恐怖心を煽ろうという管理者側の配慮なのだろうか。こんなことをしたところで子供は水族館しか興味を示さないだろうしそれどころかもっと寄り付かなくなるだろう。
実際にはこんな植物はいない。過去に小説やら映画やらで登場した架空の植物だし、写真もその映画のワンシーンから引用されている。果たして著作権の問題とかは解決したのだろうかとぼんやりと考えながら説明文を読んでいた。
僕はたまたまその小説を読んでいた。本を読むことはさして興味があることでは無かったがいかんせんバスに乗っている間に娯楽が無いものだから、暇つぶしとばかりに読書に励んでいた。僕は先日この植物が登場する小説を読み終えたばかりなので、興味本位からその説明文を目で舐め回すように見つめていた。
すると背後から硝子細工のような繊密で脆い虚弱な声が聞こえた。
「あなたもトリフィドを知っているの」
僕はあまりに小さい声で、その音が耳にいまいち残溜しなかったので、聞こえなかったふりをした。しかしその声の主は僕の返答の有無を問わず、僕の隣に来て、その写真を見つめていた。僕は無視するのも気まずいのでとりあえず、一言会話を交わし、この場から去ろうと決め久しぶりに会話らしい会話をすることにした。
「しっ知ってる」
思わず噛んでしまい、焦りからまくし立てるように会話を続けた。
「えっあっあれでしょ。空から星が降って皆目が見えなくなって、それをトリフィドが人々を襲うって話」
僕が声を発した後、一刻間が空いた。もしかしたら、僕に話しかけたわけではなく、ただの独り言では無かったのかと思い、顔を薔薇色に染め水滴みたいな冷たい汗をかいた。しかし暫くすると、声の主(もっとも横を見て目が合ったら気まずいと思いっていたのでどんな姿か分からないが恐らく少女である)はまた喋り始めた。
「レティクル座の星々から降る時を待っているの。私は」
この瞬間耳を疑った。というのもあまり真剣に聞いていなかったのもあるが、何を言っているがさっぱり分からなかったからだ。しかし僕の気持ちに反し、少女は喋り続けていった。
「いつか……レティクル座の神様が人々の目を見えなくさせる星々を降らすの。それを私は知ってるからその日はちゃんと目を瞑る。それからトリフィドの種がまかれて…きっと人々は捕食される。そして誰も彼もいなくなったら堂々と街を歩きたい。人がいなくて、街は枯れ木のように寂れ、それでも自由な街を。私は毎日レティクル座の神様にそう願ってる。このまま、いやこれ以上酷くなる未来を生きるくらいなら」
僕は思わず目を細め、真新しいトリフィドが写っている写真を見つめ、面倒な事に巻き込まれたという表情を浮かべた。
「はぁ……そうですか……」
間を持たせるため、気のない返答をした。そしてそこから逃げ出そうと「では……じゃあ」と足を出口に向け、急ぎ足で逃げ出すようにこの植物園から出ようとした。
自動ドアが開き、植物園を包含する人肌のような生暖かさではなく、人工的で無機質な暖房の風が入り込みそこに一歩足を踏み出したその時だった。
「待って。あなたは私が見えるの。声が聞こえるの」
嫌悪感を一瞬感じはしたものの、その空間に溶ける小さく切実な声を無視することに罪悪感もあったので、顔を合わせはしないものの、後ろを軽く振り向き、返答をした。
「はぁ……まぁ、聞こえま……聞こえます。だから話しかけたんですよね?」
そうすると、声の主である少女は
「そう……うん。そうだけど……」とだけ言ってその場に佇み、結局もう話しかけることはなかった。
僕は僕で、この風変わりな少女と会話をする余裕もなかったので早急に帰った。
その少女はというと、顔こそ見なかったが黒色のスカートとセーラー服が見えたので、きっとそれが制服で同年代であると思った。
今にして思えば、同年代の女子と会話したのは大分前になる。学校にいけば喋りかけるだけでさも病原菌を移されたかのように声が嗄らして泣くものだからとても会話することなんてなかった。久しぶりに話しかけられたのだから、もっと話すべきだった。せめて顔だけでも見て日常会話でもして暗い毎日に少しでも薄明かりでも、光明を見出したかった。少し世の中の捉え方が違う少女ではあるとは思ったが誰かと会話するだけでも何か変わったかもしれない、と少し後悔して表に出た。
しかしとにかく、久しぶりに異性と会話したことで人間としての自覚を微小ながら取り戻していた。僕は久しぶりに一人の人間になれた。これなら明日も学校に行き、苦痛の時を過ごしても生きていけるなという気力を持ち、帰りのバスに乗った。
バスに降り自宅に向かう。空は丁寧に黒く塗りつぶされ、死期の迫った老婆のように嗄れていて、瑞々しさを失っていた木が根ざしてあった。その木も黒々として根元から逃げるように分かれている枝が僕に襲いかかるような気がした。
赤茶色のレンガで作られ、年季と共に黒ずんで朽ちた植物のような自宅のマンションに着いた。鍵が閉められていたのでインターホンを鳴らすも、反応は無い。仕方が無しに持っていた鍵でドアを開くと、今現在の風景同様に暗闇で視界が遮られていた。幸い、この家は電気が玄関の真横にあったので、この状況にやりにくさは感じないでいられた。
「お母さん、いる?」
その声は廊下に響いたものの、やがて誰からの反応も無しに消えていった。
「ああ、やっぱりまだ寝ているんだな」
二階の両親の寝室のドアの前に立つと、やはり小さなうねり声のような鼾が聞こえてきた。母親の様子を確認すると、一階に降り、居間に向かった。カレーだとか、ソースが付着したテーブルクロスの上に広告の裏側の白紙の部分にメモが残されていた。
「今日の夕飯はこのタッパに入っています。ご飯も冷凍庫に入っているものは勝手に食べても良いです」
僕はいつも通りであると思いつつ、タッパに目をやった。それは透明の容器のため、すぐさま昨日の他の家族の残した食事を使い回していたり、冷凍食品が入った手間暇のかからない食事であった。昨日の残り物である土の色をした舞茸や里芋の煮物、油が淫らに溢れでた冷凍食品の唐揚げや餃子、グラタンが入っていた。それを確認すると僕は冷凍庫からサランラップで身を包まれた凍った白米を取り出した。そしてそれを電子レンジに入れ解凍して茶碗に移し替えることもせずにサランラップを皿代わりにしてテーブルに置いた。
食事の準備が整い僕は独りで夕食を食べ始めた。無機質で砂鉄を食べるような味気のない食事である。おかずを、そして次に人工的な熱を持った白米も桜色のした口内へと運び、咀嚼した。テーブルから首を横に向ければ、テレビがある。もう七時頃なのでバラエティがやっているはずだが独りで見る気にもならないし見たいと思う精神ではなく、無音の空間にただ佇んでいた。
テレビ番組が活気を持つ時間帯であるのに母親は起きてこない。しかしそれも当然である。というのも僕の父と兄は医者であり、どちらも帰宅する時間は日付を超えたあたりであることが多い、というかほとんどそうである。その人達の食事の準備をするのは母であるのだが、夜中まで起きていられるほど夜に強くもないし、そこまで体力があるわけでもないのでこうして十二時くらいまでは寝ているのだ。時間を置いて何度も料理の準備をするのが億劫であるのか、兄と父の夕食、というより夜食はしっかりと作るのだがその分僕の料理はこのように存在である。母も兄と父で夜食を食べるため、僕だけが食事の時間帯が異なり、結果一人でいつも食事をしている。それは胃袋を満たし、取り敢えず生きていくのに必要な食欲を満たすだけの作業でそれ以上の発展は何も生まれない不毛な食事である。
僕はそんな食事を終えるとタッパを洗剤を用いて洗い、すぐさま三階の自室に向かった。ドアを開けるとまず本棚が目に入る。主に親が買ってきた参考書があるのだが、手が付けられていない上に丁寧に並べられ新品さながらな印象を与える。その僕の首のくらいまでの高さの本棚の後ろにベッドがある。
僕はそのベッドに沈んだ。僕が猫背によって痛めた腰を保護する意味でも下に置かれたマットが僕を受け入れてくれた。そして特に意味も無く、時計を見つめる。時計の表面に貼られた硝子から抜け出せない時計の針を見つめながら
「今日も誰とも家で会話しないで終わるのか」と考えていた。
やがてそんな現実から逃げ出したかったからか、それは分からないが瞼が逆らえないほどに重くなったので、暫くの間その重みに身を任せ深い眠りについた。