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孤島の檻  作者: 森心安
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芽むしり仔撃ち 2

 僕は彼女と別れてからもそれまでの交流の日々を思い出していた。更に僕は自室で絵を再び描き始めた。鉛筆画ではなく、わざわざ電車で都心まで出かけ、購入したキャンパスに自画像を描いたのだ。そうすると顔だけ欠落していた以前の僕の自画像とは異なり、事細やかに正確に僕の顔を含めたそれが完成した。僕はまた自画像を描くことができるようになったのだ。まだ不慣れだから何度も汚してしまったけど、最終的には確実に描くことができて深い達成感を抱いた。

 

 それからは絵を描くことへの熱情を取り戻した。相変わらず僕の存在を認めようとしない家族の存在をあまり気にしないようになり、逆に僕がそれらの存在を認めずに熱を帯びながらキャンパスに油絵の具を塗りあらゆる作品を短期間で描き上げた。主に描いたのは自画像や風景画だ。実際にあるものを不足無し(自室の勉強机にある消しゴムなども含めて)に描いたのは、その存在をちゃんと認めようという心理の現れだったのかもしれない。


 とにかく僕は彼女の存在によって非人間から実態を持った完全な人間らしくなってきたと思えるようになった。

 

 しかし年を越すと日を追うごとに、穴ぼこの中にいるような閉塞的で絶望的な気持ちが体を蝕み始め、始業式の今日になるとそれがピークになった。神経が鈍り、体が動かずとてもベッドから起き上がることができない。何故だろう、分からなかった。だがこれまでも存在していた「学校に行かなくてはならない。サボってはならない」というプログラミングに忠実になり(それはあたかも本能かのように)僕は体が異変を伝えているのに学校へと向かった。


 玄関を出ると、一人の会社員らしき男がいた。肌は青くて荒れてて冬の寒さに身を縮こませている、冴えない感じの男だった。その風貌から会社で堂々としている姿は想像できず、きっと今日も誰かしらにどやされ、居心地悪そうに身を丸めて、コーヒーと煙草の混じった臭いため息を吐いて、薄汚れたデスクをジッと見つめるのだろう。そんな風になりそうなのにわざわざ勤め先に行くのは今の僕と変わらぬ行為だった。僕もどうせいつものように醜態を晒すのだから。しかしいつもは何とも思わなかったのに、今日はまったくその未来を受け入れることができなかった。吐き気を催す酷い臭いを撒き散らすすっかり腐りきった死体。それが僕のこれから歩む人生の道に横たわっているのだ。そしてそれこそ将来の僕の姿にほかならないのである。


 そうこうしていると僕が共鳴した会社員らしき男は急に立ち止まり、数秒間ずっと首を動かさず目だけで空を見、先程とは反対側に歩き始めた。きっと会社をサボるのかもしれない、茨でできた柵を血みどろになりながらも乗り越えたような解放的な表情を浮かべて歩いていたのだ。明日からまたその柵に血みどろになりながら戻らなくてはならないだろう。しかし一刻とは言え、そこから抜け出し自由を獲得した会社員らしき男を羨望の眼差しで僕は見つめた。僕もその「学校に行かなくてはならない。サボってはならない」という本能のようなプログラミングに抗いたかった。しかしその足は会社員らしき男と逆方向の、学校の方向へと動き出し止めることはできなかった。


 今日はとかく調子が変であるということを教室に入った時により体感させられた。教室の扉を開けるとクラスメートが皆一瞬視線を僕に向ける。日常にもたらされた異変を見るかのようにそうするのだが、すぐに彼らは僕から視線を逸らし日常へと回帰していく。昨年同様、まったく変わりのないやり取りに過ぎないはずだったのだ。むしろ半分透明であるはずの僕に対し、みんなが存在に気づき、目を向けることが反って滑稽であるとすら思っていたのだ。しかし今教室に入り、そのような反応をされると恥辱の汚水に塗れた気分から赤面してしまい、この場から早急に抜け出したいと思った。


 気持ちを振りきろうと駆け足で席に向かう途中に足を引っ掛けられ、転んでしまう。いつもならそれが普通で、それに沿った反応をすることで高座から僕を見る客を笑わせてやろう、という余裕すらあった。しかし今日は転び、頬を緩ませている客の反応を見たら転ばせた奴に怒る演技も、ただただ燃え上がる樹木さながら顔から火を出し、汗を掻き、立っているだけだった。今日はどんなことをされてもそのような反応しかすることができず、演技する余裕など微塵も生まれなかったのである。


 どうしたのだろうかと疑問に思う他はなく、帰宅してからもベッドでぼんやりと考え込んでいた。無視されたり、反応を見たいがために仕掛けられるネタふりに僕は辛さだとか、恥ずかしさといった冷たい負の感情を抱くのは一体何故なのかと。ふと壁に目をやると、蜘蛛が足を忙しく動かし壁を這っているのを見つけた。僕は勉強机付近の椅子に乗っているティッシュ箱から何枚かティッシュを取り出し、その白く脆い紙を何枚も重ねて蜘蛛を包んだ。わざわざ何枚も重ねたのは虫の感触が苦手だからだ。そしてそれを押し潰し、ゴミ箱へと投げ捨てた。蜘蛛は人間ではないから、嫌がる素振りも苦痛の表情も浮かべずに内蔵が体からはみ出る程に押し潰され、その命を終えた。


 僕も昔はこの潰された蜘蛛だったのだ。実際は虫ではなくて、僕自身を人間ではない、つまり期待、希望といった熱い感情の無い無機物だと捉えていた。しかし僕は自身を僕と同様人間ではなく虫だと名乗る少女に出逢い、その交流から互いに人間としての証である「感情」を蘇らせ、自画像を描くこともできるようになったのだ。だがそれと同時に何か胸に、生命を感じさせる生き生きとした胸の鼓動とは違った種類の嫌な胸の鼓動を感じるようにもなったのだ。彼女が夢を語った時に見せた悲哀の感情、それと同じような絶望的な深さの穴ぼこに陥った感じだった。


 その思いは暫くの間続き、特に殴られたり嫌がらせをされたりすると顕著に表れた。そしてその度に僕は蟲娘の笑顔を思い出し、より惨めな思いをしたのだった。彼女は今どうやって学校生活を営んでいるのだろうか、同じような思いを享受しているのだろうか、そんな疑問もあったのだがそれ以上に、会いたかった。そしてこの思いを理解してほしかった。あわよくば共感してほしかったが、彼女が同じ思いをして苦しんでほしくなかったからやはりそれは望まないことにした。それは僕の自分勝手な願望に他ならない。


 ただ、最近彼女は植物園にも、近くの喫茶店にもいない。もしかしたら人間に戻った彼女はもう、社会から隔離されているようなあの場所へと回帰しないのでは、僕は彼女ともう会えないのでは、と思い涙こそ出ないが涙腺が膨らんでいる感覚に襲われたのだった。人間になった彼女は人間らしく僕の存在を過去のこととし、忘却の彼方へと追いやっているのかもしれない。そう思うと、湿った手で心臓を握られるような吐き気に襲われるのだった。

 

 その内面の変化が如実に、そして意図せず現れたのは始業式の日から一週間経った日のことだった。僕はその変化に違和感を持ちつつも受け入れ始め、昨年までの日常に対する感覚を取り戻していた。


 しかし始業式の日に狼狽し恥辱感に打ちひしがれていた僕を見、腹の底から絞り上げるような大袈裟な笑い声を発していたクラスメートは昨年までの演技による、それも偽りである冷たい感情を表現する僕に戻ったことに気づいたのだろう。鈍感な彼らはこれまで演じていた僕の冷たい感情に気づいていなかったのに。一度本当の冷たい感情による反応を見せたからだろうか、人工的なそれとの違いに気づいてしまったのかもしれない。

さらに彼女との交流を通じて取り戻していた感情(取り分け熱い感情だ)を、読み取ったのだろう。ここ最近の僕はあまりに冷たい感情を表現する時に腹式呼吸ではきはきと声を発し、舞台さながらに演じてしまったのだ。そして彼らは思ったのだ。


 「あれはいつもと何か違う」


 「あいつを的にしたダーツしても、雑巾の絞り汁を顔からかけても、演技をするだけだ。さらにどこか前向きだ。希望のある人間さながらだ」


 挙げ句の果てには「つまらない、あれは人間ではないのだ、使いをさせている時を除いては。それをもう一度叩き込みあれが人間ではなく、存在も朧気な、あれであることを一生思い知らなくてはならない!」と思ったのだろう。ついに僕が完全なる人間に回帰することを挫折させるように、彼らは働きかけたのだ。


 六時間目の体育の授業が終わった。今日はグラウンドでソフトボールが行われた。投手は僕の時だけやたらノーコンで


 「インコース高めを投げるつもりだった」という言い訳を他のクラスメートにしながら僕の頭部にソフトボールを投げつけた。


 無論避けてはならないが、頭部にそのまま当たるのはさすがに不味いと僕は思い、肩を挙げそこにぶつけるようにした。それでも四打席も連続でぶつけられてしまえば、立派な新しい痣が出来上がるのである。その患部をいたわるように撫でながら僕は使用した道具を片付ける。散らばったバットを拾い上げ左手の指の間に挟んで運び、グローブの入った籠付きの台車を押し、さらに左脇で二三塁ベースを挟んで倉庫まで持っていった。体中を器用に扱って行うこの作業は大道芸さながらだ。


 片付けるのはもちろん僕だけだった。他のクラスでは大学時代に所属していたアメリカンフットボール部での武勇伝の自慢ばかりし、その時代に蓄えたというたくましい筋肉が生徒に恐れられている体育教師も、このクラスで僕に対して行われている所業については一切その口を閉ざす。なぜかというと原因はその武勇伝である。自慢のそれも大学のリーグ戦では常に下位で上位校に鴨にされていて、その体育教師もずっと控えだったそうだ。彼を支えている柱の一番脆い部分であるそこを攻撃されたくないがため、彼はこのクラスの生徒をできるだけ刺激させず媚びる態度を見せ、血眼でまた醜くそこを防衛しているのだった。


 このクラスの連中を敵にすればそのコンプレックスを確実に刺激してくるに違いないと判断したのだろう。そんな曰くつきで欠陥だらけの武勇伝など、いつかは必ず倒壊してしまうはずなのに。即ち彼もまた僕を人と見なし、救いの手を差し伸べる人間にはなりえないのだった。


 倉庫の手前に着き、鍵を使用し扉を開いた。中は決して広いものではなく、運んだ用具を全て置けば人一人入るか入らないかくらいのものである。まずバットを右隅に立てかけ倉庫の一番奥にベースを投げた。最後にグローブの入った籠付き台車を置くに入れるため、それを押しながら倉庫の中へ入ったのである。


 その時であった。倉庫の扉が突如として閉められ、外に置いておいた鍵で閉じられてしまったのだった。あまりに急に起きたのでその拳大程にもあるいはそれ以上の大きさの事態を飲み込むことはできず、ただただ振り向き呆然と立つことしかできなかった。外からは数人の笑い声が聞こえてきて、中でも声変わりし突出した喉仏を響かせた太い声が印象的だった。その他はまだ女子とも聞き分けのつかぬ、高い金切り声のような笑い声だった。

 

 僕はクラスメートの名前を朧げにしか理解していない。だから取り分け印象的な声の主の名前が分からないのだ。人間ならばクラスメートの名前を一人一人正確に覚えているのかもしれないが、犬とか虫とか、さらに無機物といった非人間(僕の場合では半透明人間なのだが)が彼らの名前を一字一句理解し覚える必要があるのだろうか?


 朧気な記憶を辿ればその主はクラスで一番僕の虐めに積極的で他の教師からも恐れられている大柄な男だろう。大柄な男は小学校時代から虐めに加わっていたのではなく、中学校時代からそれに参加したのでそれくらいしか情報が無い。ただ、面長で切れ目の顔は威圧感がある。バスケットボール部でセンターをやっているらしいから体格も良く、僕は彼に殴られれば一番吹き飛んでしまう。彼に作られる痣が最も回復までの時間を要するのがその威力を示している。その大柄な男と取り巻きが最近の僕を快くないと思い、僕を閉じ込めたのだろう。

 

 この状況は決して今回だけのことではなく、以前は昨年の夏に行われた。蝉が樹木にしがみつき短い命を懸けて鳴き声を響かせ雌を呼び寄せる、あの茹だるような暑い季節の中でそれは起った。今回同様に体育の授業で使用した用具を片付けるべく、倉庫の中に入った時に大柄な男とその取り巻きに扉を閉められ、鍵もかけられてしまったのだった。夏の暑さをそのまま閉じ込めた倉庫の中は体内の水分を搾り出し、目を眩ませる。ただでさえ授業で水分が無くなっていたからいよいよ生命の危機を本能的に感じたのか、珍しく人間らしく焦りの感情から冷や汗もかいていた。そして手元の金属バットで扉をとにかく叩き、人ならざる物だけがいることができるこの焼却場さながらの倉庫からの脱出を試みた。


 さすがにその必死さを異常に見、彼らは扉を開けた。やっとのことで出られたのに、顔を紅潮させ、一見大粒の涙を流しているようにも見えるくらいに大量の汗を顔中にかき、それでいて夏の爽やかな風を心地よさそうにしている僕の顔は彼らにとって嘲笑の的になった。そしてそれに満足したのか、足早に頬を緩ませて戻っていった。その後を地面に俯きながら


 「大変なことをされたもんだ」と思ったのだ。


 しかしその一方で「あんな所は人にいれる所じゃない。つまりはまだ僕は人間としての要素が残っているのだ」とも思い、安堵感に駆られ死につつあった感情の息吹を一瞬感じることができたのだった。


 今回も同じことをすればすぐに出られるだろう、と僕は夏に倉庫から出た時と同様の安堵感があった。僕はもうそんなことでは動じないという自信すらあり、むしろ奴らが僕をどう演技ではない冷たい感情を引き出すのか考えあぐねいた末に思いついた、苦し紛れの過去の演目の焼き直しに過ぎない!という結論に至ったのだ。


 だから最初の内は僕は冷たい感情を演技で表現する余裕があり、必死に出してもらうように哀願し、時には付近のバットで倉庫の扉を思い切り叩きつけたりもした。だがしかし彼らの反応はまったくない。呼びかけても、耳を澄ましても笑い声に耐えている様子すら無かった。教室に帰ってしまったのか?そこにいるけど無機物が音を立てても人間がほとんどまるで反応しないように、彼らはそこに確かにいるが敢えてそうしているのだろうか?それすら分からなかった。


 しかしそのうち飽きるだろうし何より野球部の練習が始まる時に倉庫から用具を出すのでそう遠くない時間には出られるはずだ。他の学年やクラスの人間から奇妙かつ嘲笑するような目で見られる覚悟だけすれば良いのだ。そう思い、籠付き台車に寄りかかって座ってその時を待った。


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