蟲娘 9
病院の見た目はこの町に相応しくない、高層ビルのような高さと存在感を放っていてどうしていた。先刻僕はこれに目を引かなかったのか不思議でならなかった。関心を持たなければどんなに巨大な物でもまったく意識内に入りこまないのだろう。最寄りの駅からも近くバス停があることから交通便に関しては不便な思いをすることは無さそうで、数々の人が行き交っているみたいだ。
地下駐車場を作る工事をしているため工場現場用のフェンスが正面に張り巡らされていて、それが今いる世界と隔絶されている施設という印象を与えた。病院は昔からそのような日常とは違った雰囲気を醸し出していると僕は思っていてそれが精神を不安定にさせとても好きになれなかった。そこが同じく社会から断絶されているあの植物園とか喫茶店とは異なった性質である。今回も例外ではなかったから病院の右脇にある歩行者用の入り口の前で彼女を降ろし、行かせてそこで僕は待っていようと思った。
だから「ここで待ってるよ」と言って彼女を降ろしガードレールに腰をかけた。
しかし「一緒に来て?まだ不安なの。お母さんに会ってなんて言わないけど、最後まで一緒にいて……お願いします」と僕の制服の袖を引っ張って僕を病院の中まで連れてこさせようとしたのだ。
ここまで連れてこさせていざという時に外で待っていると言い、彼女の要求を頑なに拒むのも無責任だったので観念して彼女を降ろしたにも拘らず、より重くなった足取りで病院の中に入った。
外面の良さとは打って変わって内面はこの町相応の見窄らしい雰囲気であった。練色をした地べたに焦茶色のソファー、そしてマスクをした不健康そうな老若男女、あらゆる人々がいたのに隔絶された世界にいるみたいでその矛盾から生まれる不安定さによって鬱蒼とした気分にさせた。
「ちょっと待ってて」と彼女が言うと、受付へと一人で歩いていった。
すぐに戻ってきて「行こうよ、一緒についてきて?お願い」と見上げながら要求してきて、僕はそれを断るわけにもいかなかったので先導されながらそこへ向かった。
エレベーターに乗り、二人きりになるとまた彼女は僕に寄りかかり、さらに腕を組んできた。そして階数が上がるにつれてどんどん力強く腕を組み、最後の方は痛みすら感じるくらいになった。言葉に語らずとも、彼女の心境が組んだ腕からそのまま液体が伝うみたいに僕に伝わってきた。階に到着した時には現実世界を拒むように薄目にしていた瞳を固く瞑り、震えを起こしたのである。
病室があるこの階はこの病院の見た目より、そして受付の部屋より張り詰めた空気が漂い、呼吸すら堂々とできないくらいの緊張感があった。暖房が適温に調節されているから寒くもなく、暑くもなくまた誰もが無表情で談笑一つしていないからここが人生の終着点でもあろうかと思う程であった。人生の終わりを意味する「無」の時みたいな空間。そしていよいよ彼女の母親の部屋が近づく。審判の時。これ以上は蟲娘の問題であるから、僕が関与する余地も無いと思った。
「僕はここに座って待ってるよ」と入り口にあったのと同じ焦茶色のソファーに座った。
「えっ……あっ……うん。分かった……行ってくる。……待っててね?」と最初は動揺したが僕の意図を理解したのかついに一人で行く決心を固めた。
彼女は病室へと半歩ずつ歩き出し、僕に見せているその背中があまりにも小さく、脆弱に見えたので彼女の体は肉の無い、必要最低限の内蔵、骨、水分しか入っていないとさえ思えた。彼女はドアにノックし小さい声で中にいる母親を呼びかけ、ドアの重みにすら耐えられないような細い腕に力を込めて病室へと入った。
いよいよ彼女は病室へと入ったのだ。その時、受験会場に向かった時の僕自身の輝きを放っていない、崖底くらいに黒く暗い瞳をしていた上に表情筋が全て欠落し廃人みたいな表情を浮かべていたことを思い出した。
面会の時間はまだまだ数時間とある。もしかしたら数十分で終わるかもしれないし何時間と掛かるかもしれないが、彼女の面会が終わるまではここを出るわけにもいかないので、この狭い階を散歩するかここでジッと待っているくらいしかやることはなかった。しかしここの階を散歩しても同じような風景が続くばかりだろうし、こんな場所を興味津々に散歩し、新しい発見を見出す気力も無かったので時に居眠りをし、時にぼんやりと本を読む、そんなことを過ごすしかなかった。
一時間くらい経ったのだろうか。病院に着いてからは時計を一度も確認してなかったのでどれほど時間が経過したかは分からなかったが、そのくらい時間が過ぎた時に僕の隣に男が座った。寝起きのままの乱れた髪、それに加えて小石が点在する手入れがされていないグラウンドのようにニキビ痕や吹き出物が目立つ肌、そして僕や蟲娘より一回り大きい肥えた体をした男だった。顔も気力のない一重の目をして鼻息も荒く全体的に脂ぎっていたので恐らく三四十代なのだろうが、実際は五十代にも見えた。絶えず滴る汗をスーツの袖で拭き、鞄の中身を整理していた。僕がジッと見つめていると、気のなかった目が急に鋭利物の如く尖った目となり僕を睨み返した。
そして「お前、何でここにいるんだ」と声帯を潰したような鈍く低い声を乱暴に発し、僕に話しかけてきた。
「知り合いを待っていて」と威圧的な態度に怯えず、必死に平常心を保って答えた。
「どこのだ」と睨み続けていった。
ここで正直に答えても何があるか分かったものじゃないし、何よりもう知らない中年の男と会話する気力も無かったから適当にお茶を濁した。
「まぁ良いか、そんなこと」と答えをはぐらかされたことをさして気にも止めず、男は立ち上がった。
そして蟲娘の母親の病室のドアをノックし、そこに入った。あそこは個室であるから、今は蟲娘とその母親しかいないということになり、僕はあの男があの家族と何らかの関連性があることに驚きを隠せなかった。最初はそれ以上の関心を引き起こさなかったが、何十分と出てこないのでやがて一体どんな会話をしているのか、という思いが脳内全体にまで膨張し、居ても立ってもいられなくなったのでドアまで近づいて耳を傾けた。厚く冷たく重々しいドアであったが意識を病室の中の声にだけ一方的に集中させることで、真夜中の森林に潜んでいる動物の瞳から発せられる光のようにおぼろげだったものの、彼らの会話内容を少しだけ聞き取ることができた。
「じゃあ、もう帰るからね。またね」と先ほどの男の声が聞こえてきた。
しかし先刻のヘドロさながら不快感のある脂ぎった声ではなく、それを濾過した透明でさらりとした耳触りの良い声をしてとても同一人物とは思えなかった。
「うん。ありがとう」と蟲娘の声も聞こえてきた。この声も先程とは異なり腹の底から出された意思ある声だった。
そして中年の男らしき人物がドアを開けようと近づく足音が聞こえてきたので、急いで元の焦茶色のソファーへと戻った。男は薄目と前歯が全部見えるくらい口とを開き僕という存在を自己の意識に取り入れることすらなしに、通り過ぎていった。ただお見舞いに来ただけなのに万物を得た喜びの表情を浮かべ、大袈裟な人もいたものだと思った。きっと僕と会った時はとにかく機嫌が悪かったから赤の他人である僕に対してもわざわざ悪印象を与えるだけの無意味な態度をとっていたのだ。僕とか彼女と違って感情が激しく隆盛して、常に表情筋が絶え間なく動作するような人なのだろう。そんな多感で能天気な人、しかしそんな人に呆れながらも羨ましいと、僕は死後硬直寸前の表情筋を両手で擦りながら思った。強引の笑顔の表情自体はつくれるだろう、する気はまったくないが。しかしあの男みたいな喜びの感情から生まれる真の意味での笑顔はもう、できない。
中年の男が部屋を去ってから更に時間が過ぎた。僕はここで天井の方向を向き、口を半開きにして居眠りをすることにも疲れと飽きを感じてしまい暫くの間放棄していた本を再読することにした。しかしやがてそれも読み終えてしまう。とはいっても具体的には文字だけ追う状態に陥ってしまいそのまま抜け出せないまま読み終えてしまったのだ、それはとても読書とはいえない不毛な暇つぶしだった。
何故そのような時の過ごし方になってしまったかというと、今読んでいた本があまりに、難解だったからだ。僕は父の書斎に忍び込み、時たま本を奪い(どうせ父は僕のことを意識することはないから)それを移動中なり自室にいる時なり読む習慣があった。
先日もそうしていてハイヒールと思われる靴の底から女性の生首と思われるものが生えている絵が表紙の(もしかしたらカバーは外されていたかもしれないから厳密にいうとそうではないかもしれない)本に惹かれ、持ち去った。何となく、ゲームだったか漫画だったか聞き覚えのある名前の題名だったので恐らくそのようないかにもフィクションじみた内容の本であると確信しあらすじを調べもせずに読み始めたのが間違いだった。シュールレアリズムの名の下に書かれた文体と内容は僕の脳内に吸収されることなしに拒否反応を呼び起こした。結局最後の方は文字だけを追うという至って無駄な読書の方式を取り、それを読み終えたのだ。男女の交際、そして別れが話の中心なのだが(もしかしたらそれすら読み取れていないのかもしれない)こうもあれこれと蛇に足を描くように難解な言い回しを使用し、読解力の無い読者を篩いにかけるとは、と思わず嘆息した。そんな本を読んでいたから眠気に襲われたので再び瞼は閉じられてしまい、くっついたまま離れることはなかった。
僕が起きると、もう時計は十七時を指していた。詳しくは分からないが、もう来てから二三時間は経っているのだろう。まだ出てくる気配はない。仮に出ていたら僕を起こしてくれるはずだから。
上手くいったのだろうか、失敗に終わったのだろうか僕はせめて答えだけでも知りたいと思い、ドアをノックし彼女を呼び出そうと決めた。
しかし、仮に彼女が見捨てられて、もう人として生きることを放棄し死ぬか、皮だけの廃人として生きるのかどちらかしか道が無いという状態であったらどうしようと思った。そうなったら責任は僕にある。恩を仇で返す結果になってしまったら?僕と同じような地獄を抱えた少女を結局救えなかったら?そうなったらその少女同様自殺するか廃人として生きるかのどちらかの道を選択することになるだろう。この審判は虫を自称する少女だけでなく半透明人間である僕も関連することなのだ。
だから僕は普段神を信仰しないのに天を仰ぎ「あの少女が人間として生きても良いという審判を下してください」と願った。
もちろん審判が良い方向に下されても完璧に人間としての自信を取り戻せるわけでは無いが、その最後のきっかけに違いない。お願いです、お願いですと僕は繰り返し唱えた。そして心臓は絶えず膨張と収縮を繰り返し、顔は紅潮し、熟れたトマトから垂れる汁のような汗を掻き、手の甲をドアに向けたその時だった。




