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孤島の檻  作者: 森心安
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蟲娘 8

 先程僕が黄昏ていた時に座っていたのと同じ、真新しく代赭色のペンキで塗られたベンチに座った。彼女は座るとその血液が通っていなくらいに冷えた体を僕に寄せ、首や耳の裏にある切り傷がより露になった。そこまで深い傷ではないのだが冬の温度だと痛みがより増すので風が吹く度に表情を歪ませていた。他の学生に見られると、また厄介なことになりそうだからできるだけ目立たないように、歩く気力の無い彼女を支えてそのように歩くのは骨の折れる困難なことではあったのだが、共に近くにあった薬局に向かった。そこで消毒液と絆創膏とガーゼを買い、早速消毒しようとしたのだが、死期が迫り、もがき苦しむ虫のように彼女は首を振り、それを拒んだ。


 「しみるから、嫌なの」と彼女は抵抗する。


 「そういうわけにもいかないよ。傷口がひどくなったら余計お母さんにあうことができなくなってしまう」と言い、彼女の揺れ動く頭を両手で止めた。


 そして消毒液を含んだガーゼで傷口を舐め回し、血を拭き取り消毒をした。彼女は少し呻いたがこれ以上抵抗も何もせず、黙ったままだったのでそのまま絆創膏を貼った。そしてもうこれで傷口は大丈夫だ、とばかりに優しく冷たい指で患部を撫でた。

 

 「もう、どちらにせよ無理だよ。髪の毛もほら……」と母親というフレーズを聞くだけでまた全身に筋肉を弛緩させ、弱々しい声で答えた。

 

 「だからといって、このまま会えなくなるのはもっと嫌じゃない?お母さんはそっちの方が心配すると思うよ」と再び反論した。

 

 少し熱を込めて介抱をしていた。それはきっと、彼女の境遇を知り僕と同じ思いをさせたくないと思ったからに違いない。全ての人間から見捨てられてしまうことを恐れている者を客観的に見ると、昔僕もそうだったからかもしれないけど憐憫の情が胸の底からふつふつと煮だってきたからだ。憐憫の情とまではいかなくてもそのような心境に追い込まれている人間に対し、何とも思わない人間はいないはずだ。


 そして僕はそのような感情が湧いた今この時に自分がやはり人間であると確信したのだ。蟲娘が気づかせてくれたのだ。この事件を通し、双方に陰鬱で負の側面のそれとはいえ、感情を蘇らせたのだった。そこまでしてくれたからには、その負の感情を正のそれにしなくてはならないだろうし、そのためには独りになろうという危機に立たれている彼女に手を差し伸べ、母と心で手を繋がせなければならないと思った。


 そんなことを言ったら笑われるだろうか、いやたぶん笑わないかもしれない。それを言ったら彼女の感情は少しばかり正に向かうかもしれない。しかし、少しでは駄目だろうしそうなると言葉ではなく行動しなければならない。彼女は今、自身の暗く狭く出口の無い竪穴式住居のような世界に閉じこもりかけていて自ら母との繋がりを断ち切ろうとしかねない状態にあった(例え、それを意図してなくても)。だから彼女の不安要素を取り除き、その世界から引きずり出さなくてはならないのだ。その不安要素といえばやはり今切られてしまった大事な髪の毛であるだろうがさすがに急に髪の毛を生やすこともできず、そこで厚ぼったい壁にぶち当たったのを感じた。しかしふと目をやると、目新しい美容院があることに気づき幸い誰も客がいなかったので入ることにした。

 

 「美容院?こんな髪見て笑われないかな。上手くやってくれるかな」と彼女は懐疑的であった。

 

 「プロだから上手くやってくれるよ。そこら辺は抜かりないんじゃないかな。それに、今の髪の毛よりもマシだろうし、さらに言うと切られる前の傷みっぱなしの髪の毛よりももっと良くなると思うからきっと喜ぶと思うよ」と僕は答え、彼女を支え歩き出そうとした。

 

 彼女はまだ「そうかな……それなら良いかな……」と言った。

 

 「きっとお母さんならどんな姿でも喜んでくれるよ。話を聞く限り、娘思いの良い人そうだし。問題は蟲娘の考え次第だ。少なくともお母さんは君を見捨てる意思はないはずだ。とするならば君はこれ以上悩む必要はない。しかしまだ納得いかないというか、見捨てられてしまうのではないか、独りになるのではないか、という不満を抑えこむことができていない。このままではお母さんが君を見捨てるのではなく、自分から離れてしまい、自分の狭い世界に閉じこもって独りで生きていくことになるよ」と熱情を更に込めて言った。

 

 「そんな……いきなり言われても、少し……困るかな……。そんな保証ないし……」と困惑の表情を浮かべた。

 

 「だから」と僕はそう言って一息ついてまた話し始めた。「その思いを断ち切る意味でも、美容院に行こう。君が髪の毛を切ったらお母さんはこれまで以上に君のことが好きになる。そう思えば、お母さんに会う気がしてくるし、会えば喜んでくれるわけだから今抱えている負の感情を捨てることができると思うんだ。どう?」

 

 「うん……じゃあ切る……」と彼女は諦めたように同意し、一緒に歩き始めた。

 

 その時、僕が体中に熱を帯びるくらいに説得していたからかは分からないけど、寄りかかった彼女の体が、これまで以上に土の底にいるくらいに冷たかったのだった。

 

 僕は彼女に代金だけ手渡して再び公園に戻り代赭色のベンチに座った。彼女の髪の毛が切られる過程をジッと見ているのも気恥ずかしかったし仮に、美容師が不審者を見るような目付きで睨んだのならば、嫌悪感が体内に散らばり喉元辺りにまでそれがやってきて、油断すれば嘔吐すらしてしまいそうな不快感をも伴わせそうな気がしたからだ。


 ベンチで退廃的な冬の空を見上げていると感情を取り戻してくれたという恩もあるとはいえ何故彼女に対しここまでするのかという疑問を抱いた。そしてその時彼女の姿も同時に思い出し、以前もあったその説明不可能な気持ちが再び湧いてきたのである。

 

 腕時計の短針が三の数字を指した頃に彼女と思わしき人影が戻ってきた。散髪が終わったのだろう。最初はここに来るのを待とうかとも思ったが、あまりにも彼女の歩幅が短すぎて遅いので迎えに行くことにした。


 すると新しい姿になった彼女の姿があった。腰の辺りにまで伸びていた髪の毛は首元に触れるか触れないか、紙の一枚が通るか通らないかくらいの隙間を生むくらいに短くなっていた。目を覆っていた前髪も切られ、散髪する前とは打って変わってしまったわけだが彼女自身から漂わせる雰囲気、それに伴い他者に与える印象だけが唯一不変であった。それが今も保たれているのはただ、散髪して剥き出しになったはずの瞳を彼女が両手を水平にして隠していているからである。この自信無さげに本来の姿の一部である瞳を懸命に隠している行為によって散髪前の彼女の瞳とさして変わらない感じであったから、あまり変わったという印象にはならなかった。

 

 「どうして目を隠すの?」と僕は聞いた。

 

 「他の人の目を見るのが怖いし見られるのも……それに恥ずかしくて隠しちゃう、どうしてもね。ねっ、変じゃない?」と僕より頭一個分小さい彼女は目を半分くらい隠しつつ上目使いで感想を求めた。

 

 「心の持ち用じゃないかな、でも僕は良くなったと思うよ。どちらにせよ、面談の時間は長くはないはずだし行ってみない?行かなきゃ分からないよ」と少しぶっきらぼうに答えたことを瞬時に後悔した。

 

 「でも、事情を悟られて悲しそうにされたら……もう立つ気力も沸かなくなる。優しかったお母さんが呆れてそうにしたら……もう息を吸う気力も沸かなくなる。そうなったらと思うと本当に怖い。怖いよ……行きたいのに行けない。ごめんなさい。私は虫でもあって弱虫でもあるんだね。せっかくここまでしてもらってるのに」と言葉に詰まりながら答え今や立つことにも全身全霊をかけているようだった。

 

 こうなることが分かっていたのに、言葉が口元から滑り落ちてしまった。だからせめてこの時気の利いた一言で彼女に内在している黒い汚物のような思念を一掃することができれば良かったのだが、僕にも何もできずただ立っているだけで気まずい空気が漂う。そうなったのは無能者の証明に他ならなかった。経験したことがあったのに何もできない?訳知り顔で傍観者としてあれこれ言うのは、球場で野次られる野球選手の心境と変わらず、何の救済にもならないことも知っているのにそれしかできないのだ。僕は傍観者から彼女のいる場所まで行き、言葉で救って上げたかったのだが、それができなかった。せめて僕のできる唯一の行動は彼女を強引にでも母親のいる病院に連れていくことだけだった。彼女は歩く気力すら無かったのでおぶって連れていく他なかった。


 「ごめんなさい。行きたくない、行きたくないよ」と彼女は僅かながらに残存した気力を滲み出し、抵抗した。


 「これから病院に行こう。嫌がるかもしれないけど、これしかないんだ。上手く言えない僕を今はいくら詰っても良い」と彼女をおぶって言った。

 

 「もし、これで駄目だったら……どうしたら良いの?」と彼女は涙声で言った。

 

 「お母さんを信じなよ。その事実がバレても、心配させまいと必死になってくれたって分かってくれたなら、悲しく思ったり見捨てたりなんかしないって。二人でやれることはやったじゃないか。お母さんを信じるだけじゃなくて、自分も信じなければ駄目だよ。君が自信を自分を失ってしまったら、それが一番お母さんは悲しむんじゃないかな。お母さんのためにあれこれやったじゃないか?それならもう大丈夫だよ。それだけ君を思ってくれる人がいるのなら、君が君でいる限り、いつまでも見てくれているはずだ。だから自分という人間に自信を持ってなきゃ。その君がきっと好きなんだから」と語気を強め、段々声を大きくして言っていたことが分かった。

 

 これが言いたかったことのだろう、と心の中で頷いた。よくよく思えば僕は見てくれる人がいなかったのだ(家族は成績や結果だけを見ていた)。彼女との決定的な違いはそこにあり、だからこそ見てくれる人を見捨てられるようなことはさせない、同じ思いはさせないと彼女に先刻からやたら熱心に接していたのだろう。僕自身が今言ったことをもう実践する意思すら無くなる程手遅れになってしまったからこそ。しかし何故彼女にそこまでしたかったのかは、分からない。理解できそうで、できないその疑問が常に脳内全体に帯びていた。

 

 「……うん。分かった」と微かに納得した様子の彼女は、病院にいる道まで教えてくれたのだった。

 

 公園の真向かいに今いる美容院があるのだがそこを出て右側に歩く。つまりは植物園の方向にまた向かうわけなのだが、その道中に十字路があるのだ。そこを真っ直ぐあるけば右手の方に病院がある。先程、僕が通った道ではあるがさして関心は持たなかったので特徴らしい特徴は何一つ浮かび上がらなかった。

 

 彼女は体育すら満足にできない体力の僕が余裕を持っておぶることができて、まるで空気がそのまま固形化し、それを運んでいるようだった。ただ、先程まで凍っていた体は僅かながらに溶けたのか温もりのような暖かさを微妙ではあるが感じることができた。僕はこの独特の温度、人の温もりを久しぶりに触れたのだ。


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