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孤島の檻  作者: 森心安
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蟲娘 7

 「もう帰ろうか。やることはやったしな、便所になんか長居してもしょうがない」蟲娘の髪の毛を切った者達が便所から出ようとするとようやく僕は足が動くようになり、バレないように便所の建物の裏に隠れた。


 「これで楽しい年が越せそうだわ」みんな一様に笑顔を見せて公園から出ていった。僕と蟲娘だけを置き去りにして。今まで自分らが何をしたかという記憶を意識の奥深くか、体外へと放出したのかは分からないが全てを忘却したかのように、何事も無かったかのように、歩いていた。虐めをしたという事実をそぎ落として充実感だけを漲らせた不愉快極まりない明るい表情をしていた。

 

 僕は一部始終を見、呆然としてしまい暫くの間動くことが叶わなかった。同じ人が(あれは人なのか)あのようなことをすることに対する驚きと怒りで気持ちが悪くなり、これが映画や本といったフィクションであるならばただちにベッドに向かい寝込んでしまうところだっただろう。


 しかし今、目の前で起きたことである。決して画面の中だとか活字によって表現されたものではない。スクリーンや活字というフィクションというフィルターが無い分、僕に与えたそれらの感情はより一層深いものだった。こんな形で殺していた感情が一時蘇生するとは思わず舌に苦い何かがいつまでも残っていた。

 

 ようやく我に帰り、動けるようになると真っ先に便所へ入った。すると中には死人の骨が凝固したような髪の毛が、もがき続け息絶えた虫けらの死体のように散らばっていた。更に便器の横でそれこそ白骨死体の如く壁にもたれている蟲娘がいた。そして天井の方をジッと見ていた。いつもより肌が白く見えた分、肌にある影はより暗く、その顔は鉛筆画で書かれたようだった。


 僕は何と声をかけるべきか分からなかった。彼女も僕に気づいていないのか何も言わなかった。それでも何とかしたかった。だから苦し紛れに言葉をかけた。

 

 「どうしたの、大丈夫……?」

 

 何ともひ弱で情けなくて愚かな質問だろうと自己嫌悪に陥った。ここで漫画の主人公とかだったら何と言うのだろう。それすら思い浮かばないし漫画の主人公とかだったら髪を切られる前に便所に入りあいつらの頬を殴りつけていたに違いない。結局僕は間抜けな表情をして棒立ちしているだけだった。

 

 「立たせて……」彼女は普段以上に消え入りそうな声で言った。これでは死人同然である。「鏡の所まで…見たいの。私がどんな風になったか。でも、立てないの。何故か。だから連れてって、お願い……」

 

 分かるよ、と僕は頷いた。あんなひどい目にあったんだもんな、と訳知り顔で彼女を立たせようとした。壁にもたれている彼女を起こすことは非力な僕でも容易なことだった。空気だけしか入っていないのかと疑うほどに彼女は


 軽くて

 細くて

 簡単に折れそうだった


 これが全てを失った人間の質量なのかもしれない。

 

 肩を組んで数歩歩いた先にある洗面台まで連れていった。その時に思ったのだが彼女からまるで体温や温もりを感じられなかった。死体でも運んでいるのだろうか、そう疑ってしまう程に冷たかったのである。


 肩を組んだまま彼女を鏡の前まで立たせた。その時、初めて彼女の髪が無残な最期を遂げてしまったのだと僕も彼女も知った。乱雑に、そして淫らに切られた髪の毛は歪になっていて、どのような目かも分からないくらいに伸びていた前髪からはどこか遠くて違う世界を見ているような目が露になり、腰の辺りまで伸びていた後ろ髪も、首の辺りまで短くなっていた。


 髪の毛をこのように伐採するのは、山に生い茂る森林を空が見えるまで伐採し、枯れた土地にするような不毛で無意味な行為に他ならないはずである。しかしあの女達はただ道楽のためだけに、そのような行為に至ったのである。


 その無意味な道楽を達成しようと発情期の猿人みたいに乱雑にその行為に及んだので、所によっては薄くなっていたり、所によってはまったく切られていない状態である。そのアンバランスさはまるで、シュールリアリズムの絵画を見ているようで不安定な気持ちにさせた。あまりに勢いに任せて無理矢理切ろうとしたものだから、鋏の刃が皮膚を抉ってしまい頭部や耳の裏など所々出血していて、白い皮膚を赤く染め、それにより言葉でこの事態を説明されるより、視覚的に悲壮感が伝わった。


 同様の気持ちを彼女も思ったのか、鏡を見ると絶望をより濃密にさせた感情で溢れかえったようだった。その証拠に全身に力が入らないのか支えている僕が少しでも気を抜くと支えきれず、その場で崩れてしまいそうなくらいだった。また鏡をジッと見つめた瞳もそれを開く力がないのか老人であれば皺と勘違いしてしまいそうな程、細くなっていた。だから髪の毛が短くなっても決して彼女の本当の瞳の姿は露にならなかったのである。


 僕と同じように久しぶりに人間らしい感情の概念が復活したのに、それがこのような感情であるとは何とも皮肉で何も声をかけられずジッと鏡を見つめ続けていた。昔何気なく一口、唇を湿らすくらいに試しに飲んだウィスキーの濃いアルコールの熱さやそれによる気持ち悪さが内蔵に残存し続けた時のような、胸を中心とした苦しさを感じられずにはいられなかった。その気持ちを他に意識を向けることでやり過ごそうと思い腕時計を見るとようやく彼女は喉をやっとの思いで響かせたような声を発した。


 「今、何時……?」僕は彼女に話しかけられたために時計を見て紛らわせていた今のの気持ちを少し取り戻してしまい、それを全て蘇らせたくないがために、言葉少なに答えた。「午後の二時だよ」


 「私、病院行かなきゃ…お母さんに今日会うつもりなの」

 

 「お母さん」、その言葉を発した時に彼女の脳内にはきっと母親の映像が流しだされ、張り詰めた気持ちが壊れ気持ちの緩みからか瞳から涙を流し、それは夜の街灯のように寂しい輝きを放っていた。

 

 「こんな姿……見せられない。見せられないよ。虐められているなんて知ったら?そうでなくてもお母さんは長い髪が好きだったの。だからガッカリする。きっと。嫌だ、そんなの」

 

 細い目から流れる涙は傷口から出血している血そのもので今現在の彼女の心情をそのまま顔に浮かべていた。

 

 「でも、分からないんでしょ?もうずっとほとんど意識は無いんだったら……気づかれないんじゃない?」

 

 僕は言った瞬間ハッとした。何て気の利かないことしか言えないのだろうと、彼女から目を逸らし、また腕時計を見た。さっきから五分も経っていない。

 

 「分かるよ。私、お母さんがずっと起きてこなくても。考えてること、仮に起きてても起きてなくても分かるよ」彼女は精一杯語気を強めて言った。「起きてない時でも、いつも私が手を握ると心の中で喜んでいるんだよ。『学校は楽しい?』とか聞いてきたり。髪の毛がぼさぼさになってきちゃった時も『どうしたの?そんなにぼさぼさにして。せっかく綺麗な髪なのに』って心配してた。だからこんな、血が出てて髪の毛もこうなってたら……きっと……悲しむだろうな……」


  そう言うと涙腺が破裂したかのように涙が大量に溢れた。僕は一体どうしたら良いのだろうか……


 「そんなことない。きっと大丈夫だ」だなんて無責任な励ましの言葉を発するのか?


 「そうだね」と適当に相槌を打ってやり過ごすのか?


 他に何かあるのか?感情が無くなっていた彼女がこんなに深く傷ついているのに何をすることもできない。僕も見下したあいつらと同じ非常な非人間的な存在なのではないだろうか。

 

 「こんな娘だって知ったら、きっと見捨てられる。『どれだけ辛い目にあわせるの』って。そうなったらもう誰もいないよ、本当の独りになっちゃうよ……私のせいで……駄目な私自信のせいで……」

 

 彼女の発言から読み取れる感情に心当たりがあった。中学受験で模試や受験当日に思っていたこととまったく同じだったからだ。


 「成績が悪かったら家族に見捨てられる。そうなったらもう昔のように遊んだりしなくなるし、笑いあうこともできなくなる」と思っていたから常に背水の陣でそれらに臨んでいた。


 結果、僕は失敗しそのような状態になってしまったのだけれども。受験結果が全て出てからの家族の目はまさにゴミをゴミ箱に捨てるような、永劫の別れを告げるような目だった。その目を見、この人生の全てが終焉を迎えたように感じたし、今生きながらえているのはこれまでの人生のおまけ、ロスタイムのようなものであると思っている。もう実際はコールド負けしているのに。


 彼女もそうなることを恐れているのである。発言内容から母の余命はきっと長くはないのだろう。しかしそれでも好かれて死なれるのならば、それは物理的には孤独でも、まだ心境的には孤独ではない。いつも母が接してくれたという思い出だけが彼女の心の一番深い所に焼き付き、いつまでもそれが残るはずだ。だからその場合は寂しさはあっても物理的な孤独であるよりは耐えられる可能性はあるのだ。しかし、僕のように見捨てられてしまったら仮に家族はいても心境的には孤独だ。その人を見てくれる、認めてくれる人が一人もいなくなったらその人は人生に意味を見出せなくなる。そうしたらやがて人間であるかという疑問を常に持ち、一人でその思いを墓場の底に沈むまで生き続けなければならなくなるのだ。僕も今、その状況に陥っているのだ。

 

 彼女は一向にその不安を拭い去れない。僕もそれをかつて抱き、そしてそうなったからその気持ちを言葉で言われるより、理解できた。しかし僕が理解したところでどうなるだろうか。分かるよ、と伝えたところで彼女の心境が好転するのだろうか?きっとそれはないだろう。信頼している誰かに言われたならともかく、赤の他人に物知り顔でそんなことを言われて一体何になるのだろうか。救いになるはずが無い、そんなことは僕が一番分かっていた。同じ気持ちを抱えていたのだからどうされれば良いのか分っても良いはずなのに。僕にはどうして何もできないのだろうか?せめて、彼女の心持ちが少しでも変われば、と思い泣いている彼女を支えながら脳髄の隅々まで意識を研ぎ澄ませ考えた。そしてとりあえずこの悲壮感を更に強くさせるこの吹き溜まりから抜け出さないことには何も始まらないという結論に至り、彼女にそう声をかけた。

 

 「とりあえず、ここを出ない?」

 

 返事はなかったが、僕は体を支えて歩かせると逆らいもしなかったので、同意したと思い、そのまま便所を出た。出た瞬間に冬の風が僕達をあの吹き溜まりから抜け出すのを食い止め、いつまでも心を腐敗させるかのように襲った。


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