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孤島の檻  作者: 森心安
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見世物を披露する半透明人間

 昨日はいつもと比較すると醜く、また一寸触れただけでも痛覚を与える不快な青痣はあまり増加しなかった。左の下腿部、右の膝の皿、左の眉のやや上のところにそれぞれ一つずつ増えたのみだ。


 しかしここ数日の間に気温はどんどん低くなり、その寒さも相まって一つ一つ僕の体に加えられる攻撃が骨の奥底にまで響き渡るので、痛みは通常の何倍にもなって重くのしかかる。他の季節では一瞬、目を瞑ればやり過ごせる程度の痛みがほとんどだが、この季節においてはそれは異なる。歯を食いしばり、目を固く瞑り、肺を潰してうねり声を出さなければその痛みは決して紛れることはない。そのような青痣の他にも皮膚が突き破られ肉が露になった切り傷だとか、肌を指でなぞると不自然に盛り上がっている腫れだとかが体中に存在していた。僕の皮膚は徐々に正常な部分を失い、最近では薄い橙色の皮膚の部分が異常であり、怪我で変色した皮膚の色が正常な気すらしてきた。


 今日はそんな「正常」な肌を何箇所増やすだろうか、そう思うだけで気候によるものとは異なった寒気を呼び起こすのだった。


 いつも以上に歩幅を狭くして歩いていたがやがて視界に映しだされてしまった校舎。これが当然襲いかかり、僕の心を貪り食って空っぽの廃人にしてしまう夢を何度も何度も見ているのだ。その日の朝は決まって滝みたいに荒っぽく止めどなく汗が流れていて体中にその臭いがこびりついている……

 

 教室のドアを開くと、クラスメートは皆一様にそれまで喉から発していた音を止めた。僕が教室の窓側の一番後の席に座る様子を固唾を呑んで見守っているのだ。見守る、というよりは見世物にされているだけなのだけれども。この期待に応えるべきなのだろうか、僕は毎日行われるこの一連の流れに自問自答するのだ。しかし見世物はしっかりと役割を果たさなければならない、という結論にいつも達する。達成できなければ、蹂躙されるだけだからわざわざ自ら傷を増やすような反逆をする必要もないと役割を果たそうと心に決めるのだった。

 

 その役割とは至って簡単である。ただ席に何も知らない、知見の無い愚かな人間のふりをして座れば良いだけだ。それだけでこの見世物小屋は喝采に包まれる。皮肉がこれでもかと込められた拍手を。

 

 僕は求められていた通りに椅子を何も確認しないで座った。その瞬間、分かりきっていたことだが、尻に画鋲が食い込み、血が流れた。ここで分かりきっていた表情や痛みを感じさせない表情をさせては駄目なのだ。苦痛の表情に歪み、犯人を咎めつつも、脆弱な目をして辺りを見回さなければならならい。

 

「誰だ、こんなことをしたのは!」


 僕がその行動をすると、見世物小屋は耳にいつまでも残留する不快な笑い声に包まれる。どうしてこんなつまらない見世物がいつまでも受けるのか、僕は不思議でならなかった。過去に数回その行動から逸脱してみたが、多くのクラスメートから骨の芯まで届く程の拳が叩きこまれただけであった。そんな非人間的な生活が今日もまた始まったのだ。画鋲はまだ僕の尻に噛み付いたままで、流血も止まらぬままだ。


 どうして僕は「やめろ」と言えないのだろう?

 言う権利すら無いのだろう?

 言う意思すら生まれなくなってしまったのだろう?

 

 見世物小屋に来ている観客は見世物がいくら何かを見せても、決して話しかけてはこようとはしない。視覚的にはそう距離は離れていないし野次くらいは飛ぶだろうが実際上は遥か彼方まで離れていて、触れ合うことが不可能なくらいに隔絶されている。この見世物小屋、つまりこのクラスも同じで僕に話しかける人は誰もいなかった。唯一あるとすればその見世物で披露する芸に失敗した時や反抗した時で、「芸もろくにできないのか、金を返せ!」と言わんばかりにその怒りを僕にぶつける。時にはその暴行が見世物となり、クラスメートを沸かせることもあるのだ。


 だから僕が教室に入る時いつも「お代は見てからで結構だよ。さあさあさあさあ入って入って、間もなく始まるよ」という呼び込みが聞こえてくる気がしていた。毎日毎日、例え耳を塞いでも聞こえてくる忌まわしい幻聴である。

 

 今日もそんな芸を披露する場面がいくつもあった。例えば少し僕が自分の席から離れて、教室の外に出れば僕の所有物は便所だとか、水道だとか、ひどい時は誰も管理していないから、近づけば汚臭のする水槽の中に沈んでいる時もある。僕の所有物はどれも吐き気を催すような臭いを放ち、原型を留めていない。

 他には給食の時間だ。普段の給食は自分から配膳係に貰いにいくわけだが僕の場合は既に準備されている。今日の数ある芸の一つのお膳立てができているというわけだ。ソフト麺のラーメンには隠し味とばかりに水槽の汚水が入っていたり、ほうれん草と胡麻が混ざったサラダには金魚の餌が混ざっていたり、ワカメご飯の中には細かく刻まれたシャーペンの芯が入っている。

 

 それらのお膳立てを僕は無視してはいけない。それを無視したらひどい仕打ちをされるだけである。僕がここで無事にやり過ごす方法は無知蒙昧な顔をして

 「どこにあるんだ、誰が隠したんだ?」と隠された所有物を時間をかけ、焦燥感にかられた表情を浮かべなければならない。

 また用意された食事に関しても一瞬準備されたことに得したような間抜けな表情を浮かべ、何も確認せずそれらを食べなければならない。そして食べたらすぐに嫌悪感を表して便所に全力疾走で向かう。その様子に観客は気が触れたように大騒ぎをする。

 「あいつ、本当学習しねぇな」

 「馬鹿なんじゃねぇの」

 「マジキモイんだけど」

 僕の芸の場合、いくら成功しても称賛の声はあがらず、罵倒の声だけである。また、彼らは見世物である僕に決して話しかけては来ない。いつもそういう準備をして、成功すれば笑い、失敗すれば怒り僕に攻撃を加える。それくらいの交流しかなかった。僕以外のクラスメートは毎日、楽しそうに交流しているにも拘らずだ。

 

 誰も僕に話しかけない

 誰も僕に(嘲笑以外の)笑顔を見せてくれない

 誰も僕に触れてくれない


 僕はこのクラスにおいては見世物を見せてくれる道具でしかなかった。つまり、僕は人間扱いされていないのだ。汚水まみれの水槽で息も絶え絶えになっているこのクラスの金魚だって餓死させないようにまともな餌を与えられているのに。とどのつまり僕は金魚以下の存在である、いや存在すら認められていないだろう。少なくとも本当の見世物小屋の役者は成功すれば心から讃えられる。役者もそれに喜びを感じるに違いない。しかしここの見世物小屋にそのようなやり取りは決して発生し得ないのだ。僕はただ周囲に陰湿な満足感を与えるだけの無機物である。


 僕から話しかけても、いくら命の無いものが言葉を発しても聞こえないように、僕もまた誰の耳にも僕の声は残らないのだ。物である僕にわざわざ笑顔を振りまく人など当然いない。それなのにどうやら僕に触れると虫とか凶悪な病原菌が伝染ると皆思うらしく、僕に髪の毛一つ触れなかった。たまに移動する時ぶつかってしまうのだが、その時は皆


「あれに触れちまった」と思うようだ。


 更に女の子で精神がか弱い子は瞳を潤ませ、涙を猛々しく流すのだ。そうなると病原体を殺せば良いんだとばかりに、僕にアルコールを大量にかけたり、熱湯消毒しようとわざわざ家庭科室で煮たそれを僕にかけたりもするのだ。


 とにかく、僕は人間ではなく見世物を披露するだけでなく、人々に災厄をもたらす最悪な物として捉えられているようだった。

 しかしそんな僕が唯一人間としての扱いを受けるのは何かを使役された時だった。

 

 「おい」

 

 校則を守らず、髪を天に向け、Yシャツをよれよれにし、ズボンにしまわずポケットに手を突っ込んでその人は僕に呼びかけた。

 

 「はい、何でしょうか」

 

 年中不眠そうな目、小麦色をした肌にある薔薇色の唇から僕を威嚇するような声を彼は発した。その声に僕は体中から汗を流し、慣れない人との会話を始めた。

 

 「パン、買ってこい。五分以内だ。遅れてたり、売り切れてたら…土下座がボコすかのどっちかだ」

 

 ポケットから手を出し、ナックルダスターをはめた拳をアピールした。あれで殴られたら皮膚は裂け、流血は免れない。

 

 「はい」

 

 緊張で乾いた口内から枯れた声で返事をした。そして続けざまに

 「あっ、俺のも買ってこい」

 「俺の分も」といった依頼の声が殺到する。

 そして「ほら買ってこいよ」と僕に促す。

 僕は昨日のこの時間以来、約二十四時間ぶりに存在が認識されたのである。この学校で生活するにつれ、僕自身のアイデンティティは砂上の楼閣の如く細かく崩れ、自分自身の存在意義を見出せずにいた。僕はこの時でしか存在を認知されないのだ。僕は最近では自分のことを人間のようでいて人間ではない、半分そうで半分そうでない「半透明人間」だと自分自身のことを思っていた。

 

 心にいつものようにその言葉を胸の石版に刻み、パンを買いにひた走り続けた。これで結局目的のパンが売り切れて買うことができなかったというヘマでもしたら殴られるのは勿論のことだが、それ以上にパシリを頼まれなくなってしまうだろう。そうなるといよいよ僕の存在が認知されることは無くなる。残るのは自分の意思とは別に行わなくてはならない、決して人間扱いされない見世物小屋における生活のみとなり、半透明人間ですらない人間以下の何かになってしまうからだ。

 

 せめて見世物としての生活さえやめればまだパシリをしなくても人間でいられるのにも拘らずそれはやめることができない。だから僕はパンを要求したクラスメートの為にではなく、自分の存在があり続けるためにパンを息を切らせて買ってきた。生命を唯一感じさせる心地の良い汗が流れていたが、虚無的で非生産的な行為でもあるとも思った。必死に走っているのに前進せず停滞している気分だ。

 

 僕が見世物以外になる時もある。例えば今日の最後の授業である数学の時間が終わった時のことである。

 「あの糞爺、マジ意味分かんねぇ」

 僕より二十センチくらい大きく、体格も二回りくらい大きいバスケットボール部所属の大柄な男が苛立ち気であった。数学の授業で居眠りをしていたことを激しく咎められたのだ。大柄な男は僕の席に向かう。

 

 僕のもう一つの役割、それは不満のはけ口だ。

 「うざってぇな、糞野郎」

 そう言うと大柄な男は僕の眉間の辺りに拳をぶつけた。運動部で筋力があるだけに彼の一撃は非常に重く脳震盪を起こしてしまいそうになる。次に座っている僕を背負い投げし、地面に叩きつけると、そのまま地面の中にまで沈みそうな程強く腹を足で押し込んだり、前髪を引っ張り、頭を何遍も地面に叩きつけた。


 「死ね!死ね!」

 僕は痛みから逃れるためではなく、舌を噛まないように歯を食いしばった。勿論堪えようのない痛みではあるのだがむしろ「今日はついてないな」と僕の運を呪った。もう、ただ殴られるだけの行為に慣れてしまったのだ。また「正常な」肌が増えるだけだ、と割り切るようにすらなってしまった。

 

 普通誰かが殴られればクラスも金切り声の一つでも聞こえるはずだが僕の場合は「物」同然だから誰も気にかけなかった。サンドバッグを殴って悲鳴を上げる人間なんていないように。精々たまに女子が申し訳程度に「やめなよ」と言うだけである。どうせ自分が加害者にならないための自己保身のための発言にすぎないが、これはまだマシな部類である。普段はそれどころか「いいぞ、もっとやれ」と猛攻を促す声もあがるくらいなのだ。きっとコロッセウムの観客はこんな調子で奴隷が殺されていく姿を見ていたに違いない。

 

 大柄な男の気が済むとようやくストレス解消としての役割を終えた。僕は右目の周りや鎖骨、二の腕に拳くらいの青痣や鼻や薔薇色の唇から赤黒い血を流し、鳩尾も殴られたので呼吸困難になって倒れていた。犬でいうへそ天の姿勢だ。

 そこにホームルームをしようと教師が教室に入る。時代に取り残された黒縁の大きな眼鏡を掛け、オジン臭い色のスーツを着ている。怯えた兎みたいな猫背をしているその姿はいかにも気の弱そうな人物であることを表している。


 そんな彼もクラスの見世物にされたくないのか、必死にクラスメートに媚を売るように僕の虐めのことを無視しているのである。教師ですら人間扱いしてくれなければ一体僕を誰が救ってくれようか。春先にこの教師に相談しようと話しかけたのだが、耳を傾けるどころか僕に視線すら合わせなかった。しかしこれは何もこの教師に限った話ではない、この学校の教師は全員同じ対応をする。生徒に嫌われ、晒し者にされたくないから僕の味方になることは決して無いのだ。

 

 結局この学校で人間扱いしてくれる人はいないのだ。僕には人間としての尊厳など既に一切微塵も残ってはいなかった。最初から半透明人間だと割り切れば良いのだと、そうすれば辛い思いはしないのだと、そう言い聞かせる他はなかった。

やがてホームルームが終わり、やがて教室はもぬけの殻となった。見世物小屋に残っていたのは、見世物である僕だけだった。今日の見世物は無事に終了したのである。それはつまり明日も同じ演技をして観客を喜ばせなければならないのである。



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