第九話 最後の手術
視覚という名の機能は、生物が外界を認識するための単なる感覚器官に留まらない。それは、知性が宇宙を解釈し、自己と他者の境界を定めるための「魂の窓」である。
もし、その窓が一度完全に閉ざされ、再び開かれる際に他者の命という対価を支払ったとするならば、瞳に映る世界は、以前と同じ色を保ち続けることはできない。
大陸暦八一九年、晩春。
オアシスの工房は、夜明け前の深い静寂に包まれていた。
内部に満ちているのは、安らぎではなく、一個の宇宙が終焉を迎え、新たな光が産声を上げるための凄絶な胎動であった。
カイルは、石造りの椅子に深く身を沈めていた。
彼の右目の眼窩には、五年前に帝国軍によって穿たれた虚無が広がっている。そして左目もまた、砂盲という病魔によって完全なる闇に支配されていた。
彼を包む暗黒は、深海の底の如く重く、冷たい。
「……ステラ、どこだ」
カイルの声に応える者はなかった。
ただ、地面を叩くような衣擦れの音と――
――チク、タク。
今や作業台の上の「義眼」からのみ発せられる、冷徹なまでに正確な拍動がカイルの鼓膜を打っていた。
素粒子と化したステラが、カイルの頬に触れた。
ステラは、完成した義眼を掲げた。
カイルには見えなかったが、その銀色の瞳球は、工房に差し込む黎明の光を吸い込み、内部で数千倍に増幅させていた。
「星核銀」と彼女の心臓の「核」が完全に融合し、カイルの脳神経と接続される瞬間を待つ、生きた魔導回路の結晶体であった。
最後の手術が始まった。
ステラは、カイルの右目の瞼を押し広げた。
指先が眼窩の奥の神経束に触れた瞬間、カイルの全身を、雷撃にも似た激痛が駆け抜けた。
「ぐ……あああああ!」
絶叫する少年の体を、ステラの鋼のような意思が抱きしめる。
彼女は、最後の魔力を流し込み、カイルの断裂した視神経と、義眼の裏側に刻まれた銀の回路を一本ずつ丹念に、精密に繋ぎ合わせていった。
この時、カイルの脳裏には、凄まじい情報の奔流が流れ込んでいた。
ステラがこれまでの長い人生で見てきた人間たちの記録であり、砂漠を渡る風の軌跡であり、彼女がいかにしてカイルを愛し、いかにして彼に未来を託したのかという、声も言葉も超えた叙事詩であった。
(やめてくれ……こんなものは、俺には重すぎる。君を失ってまで得る光なんて、俺は……! 間違っていた。俺は間違っていた!)
復讐のために光を欲したはずの彼が、今、光の代償となる少女の喪失に抗い、悲鳴を上げていた。
手術は完遂された。
ステラが最後の一打、自らの魂の残滓を義眼の瞳孔へと叩き込んだ瞬間、カイルの世界を支配していた闇が崩れた。
――爆発。
――閃光。
色彩の、光の、そして世界の暴力的なまでの顕現であった。
カイルは目を見開いた。
右目の義眼は、かつて持っていたどの感覚よりも鋭敏に、鮮明に工房の風景を捉えていた。
今にも崩れそうな石壁、壁を這う細かな亀裂、宙を舞う埃の一粒、窓の外で揺れる葉の脈絡。
すべてが、神々しいまでの解像度をもって彼の脳に叩き込まれる。
そして、彼は見た。
目の前に立つ、最愛の少女の姿を。
ステラは微笑んでいた。
その姿はすでに、この世の物質としての境界を失っていた。
彼女の指先から、足元から、銀色の光の粒子が溢れ出し、朝陽の中に溶け込んでいく。
「ステラ……」
カイルは手を伸ばした。
彼の指は彼女の頬を通り抜け、ただ銀の粉塵を掻き乱すだけだった。
ステラは、初めてカイルに語りかけた。
彼女の声が、カイルの脳に直接流れ込んできた。
『私はステラ。星の民の眷属。生まれた時から、もの言わぬ奴隷だった。約二千年前にこの工房で作られ、聖都に献上された。私は星の王とその一族のために、老いた彼らの代替品となる義手や義足を作り続けた。だけど、五百年ほど前に間違いが起きた。私は一族の王子によって盗み出された。王子は禁忌を犯した。人間ではない私を愛してしまった。都から連れ出して、大陸を逃げ、幾つもの海を渡った。はるかな地で王子は殺されてしまい、私は帝国の前身組織に奪われた』
ステラは続けた。
『彼らは何度も私を解剖し、肉を削り取り、大量量産して魔導兵器を作った。兵器を使って各地へ侵攻を始めた。戦いは百年以上も続き、私はずっと帝国に囚われたままだった。征服地の巡幸で皇帝がこの地へやってきた時、私はようやく逃げだすことができた。私は、帰巣本能のままに聖都に戻った。けれど、そこはもう……』
――文明そのものが滅んでいた。
『帝国の覇道は、私から造られた兵器があってこそ実現したもの。私が外界へ流出さえしなければ、あなたの村も一族も焼かれることはなかった……』
ステラは最期に言った。
――許して、カイル。
――私は、もっと早くこの世界から消えるべきだった。
カイルに声は届いていた。
彼の精巧な義眼は、彼が最も求めているものを映し出しはしなかった。
工房の床には、彼女が着ていた古びた外套だけが残された。
――チク、タク。
音は、今やカイルの右目の奥から響いていた。
彼女の心臓は、カイルの眼となった。
「―-――っ!」
カイルは、声にならない慟哭を上げ、残された外套に飛びついた。引き裂かんばかりに抱きしめた。
取り戻した視界は明るく、鮮やかで、そしてあまりにも空虚であった。
彼は、世界の最も遠くまで見通せる眼を手に入れた。




