第七話 記憶の彩色
歴史という名の長大な巻物において、記録されるのは常に「事実」という名の硬質な石塊である。
王の崩御、都市の陥落、条約の締結。
しかし、その石塊の隙間を埋める、名もなき個人が抱く「記憶」という名の色彩については、いかなる賢明な史家も正確に叙述することは叶わない。
大陸暦八一九年の春、オアシスの工房では、まさにその「記憶」を物質へと定着させるという、およそ物理学的常識を逸脱した試みが行われていた。
義眼の基礎となる「星核銀」の鍛造を終えたステラが次に取り掛かったのは、その銀色の球体に色彩と深淵を宿す工程、すなわち「彩色」であった。
彼女が用いるのは、鉱石を砕いた顔料でも、植物から抽出した染料でもない。彼女が筆として振るうのは自らの指先であり、絵具として用いるのは、カイルの脳裏に残された「世界の記憶」であった。
「……何をするんだ、ステラ」
カイルは、作業台の前に座らされていた。
視力を失って以来、彼の内面世界は、時間の経過とともに急速にその彩度を失っていた。
かつて見た砂漠の夜明け、母の慈愛に満ちた眼差し、それらすべてが、濃密な灰色の霧に覆われようとしていた。
ステラは答えず、ただカイルの掌を自らの頬に当てた。
そして、もう一方の手で、冷たい義眼の核を包み込む。
次の瞬間、カイルは驚愕に身を震わせた。
闇であったはずの視界の奥底で、突如として鮮烈な光が弾けたのである。
それは、彼がかつてアル・サフィアの村で見た、最も美しい瞬間の断片であった。
――砂丘を黄金色に染め上げる朝陽。
――オアシスの水面に反射する、眩いばかりの翠緑。
――初めて出会った時のステラの、あの透き通るような銀髪の輝き。
記憶が、カイルの脳からステラの指先を通じて、銀色の球体へと吸い込まれていく。
ステラは、カイルが「美しい」と感じた光の波長を、自らの命という触媒を用いて義眼に焼き付けたのである。
作業には過酷な「熱」が伴った。
人間の情動を魔導金属に転写するという行為は、術者の精神を激しく摩耗させる。
ステラの呼吸は次第に荒くなり、カイルの手に触れる彼女の指先が冷たくなっていく一方で、その内側はどんどん熱くなっていく。
(やめてくれ。もういい。俺の記憶なんて、どうなってもいい。それよりも君が……)
カイルは叫ぼうとしたが、乾いた喉から言葉が出てこない。
彼は感じていた。
彼女が記憶を「定着」させるたびに、彼女自身の存在が希薄になっていくのを。それはまるで、自らの血を絞り出して極彩色の絵画を描く絵師のようで――。
後世の哲学者たちは、愛という概念を「自己保存の本能に対する反逆」と定義した。
もしその定義が正しいとするならば、この時のステラこそ、人類史上最も壮絶な反逆者であったといえるだろう。
彼女は、カイルがこれから歩む長い人生において、二度と絶望の闇に呑み込まれぬよう、自らの生命力を対価として「真実を映す色彩」を造り出した。
数時間に及ぶ作業の末、ステラはようやく指を離した。
カイルには見えなかったが、作業台の上に置かれた義眼は、もはや単なる金属の塊ではなかった。
内部には、深海を凝縮したような深い瑠璃色と、朝陽のような眩しい琥珀色が混じり合い、見る者の魂を吸い寄せるような、名状しがたい深淵が完成していたのである。
傑作と引き換えに、ステラが失ったものは大きかった。
彼女がカイルの肩に預けた体は、羽毛のように軽く、もはや自力で立っていることさえ危うい。
彼女の胸の奥から響く「チクタク」という金属音は、今にも止まりそうな古びた時計のように、不規則なリズムを刻んでいた。
「ステラ、君の体は……一体どうなっているんだ。どうして、ここまで……」
カイルは、光を失った両目から涙を流しながら、彼女を抱きしめた。
復讐のために求めたはずの「義眼」。
その制作過程で彼が感じたのは、憎悪を遥かに凌駕する、峻烈なまでの愛の質量であった。
帝国への復讐という黒い背骨が、音を立てて崩れていく。
今のカイルにとって、仇の将軍の首など、この腕の中にいる少女の吐息一つに比べれば塵芥に等しかった。
運命という名の脚本家は常に残酷である。
制作の儀式は、今や後戻りのできない最終段階へと差し掛かろうとしていた。
色彩は宿った。
それを「視覚」として駆動させるための動力源――すなわち、ステラの心臓の「核」を移し替える作業が、まだ残されていた。




